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スティーブ・カーとステファン・カリー NBAファイナルに寄せて [スポーツ理論・スポーツ批評]

今期のNBAファイナルは、メディア上ではステファン・カリーVSレブロン・ジェームスの新旧MVP対決!という話題で盛り上がっていたが、私個人的には、スティーブ・カーの采配、というか「スティーブ・カーの夢、やりたかったことの実現」と、その素材としてのステファン・カリーいう点に興味の中心があって、ずっと見ていた。
 スティーブ・カーと、ステファン・カリー。日本語表記通称だとスティーブとステファンだが、どちらも同じstephenだ。そして191センチの身長、オールスターの3ポイントコンテストのチャンピォン、圧倒的に優れた3ポイントシューターという共通点を持つ。違うのは、カリーが、大学時代からプロのキャリアを通じてずっとチームのエースだったのに対し、スティーブカーは、プロのキャリアでは「3ポイントスペシャリストだが、控えのポイントガード」という、渋い脇役の立場にあったことだ。マイケルジョーダン全盛期のブルズに在籍し、後期三連覇では、決定的なシュートをたびたび決めたものの、なんといっても当時のブルズは、ジョーダンが毎試合30点以上を取り、ピッペンも20点以上を取り、残りをあとのメンバーがちょぼちょぼと分け合う、というチームだった。ポイントガードとセンターにエゴの強いスター気取りはいらない、というのがマイケルジョーダンのチームの鉄則だった。ポイントガードには派手なドライブも気の利いたアシストパスもいらない。自陣に球を運んだらマイケルに球を預けて、あとはせっせとトライアングルオフェンスのシステムにそって動き回り、最終的にはコーナーにまわって3ポイントの準備をしておく、というのがマイケルのチームのポイントガードの役割だった。複雑なトライアングルオフェンスのシステムも、最終的にマイケルの得点能力を最大化するために使うのだ。前期3連覇ではBJアームストロングとジョン・パクスン、後期ではロンハーパーにスティーブカー。もともとシューティングガードだったロンハーパー以外は同じようなタイプの3ポイントシューターだ。
 体の小さいポイントガードにも、古くはアイザイアトーマスから、ティムハーダウェイ、アレンアイバーソンなど、身体能力の高い攻撃型のポイントガードというのはいたが、ステファンカリーは彼らと比べると身体能力がさほど高くない。シューターなのだ。そして彼らのようなむき出しの闘争心とエゴ、というものが感じられない。得点をものすごく取る割に、エゴの強さを感じさせない。エゴの強さを感じさせない割に、最後の責任は全部自分が負う、という心の強さはある。
 この、「フィジカルはそれほと強くないが、きわめてすぐれたシューターであり、闘争心はうちに秘め、より知的である。知的なシューターがチーム最大のスターである。」というのは、もしかして、スティーブ・カーがなりたかったけれどなれなかった存在なのではないか。「もしそんな自分がチームの中心で、そして圧倒的に強いチームを作るとしたら、こんなバスケットしかない」とスティーブカーが温めていたバスケット。マイケルジョーダンもピッペンもいない、自分のようなタイプの選手中心のチームを作る、そしてマイケルがいるようなチーム(つまりレブロンがいるキャブスを)を倒すというのは、スティーブカーの長年夢見ていたことの実現なのではないかしら。
 今期、スティーブカーは、レギュラーシーズンからただの一度も3連敗しなかった。スティーブカーの分析力と選手の人心掌握術、戦術家としての優秀さは見事というしかない。ステファンカリーと並ぶ能力がありながら、チームのために地味な役割も果たすクレイトンプソン。スターターの力を持ちながらシックスマンにまわったイグダーラ。脇役としてシカゴブルズや(その後スパーズでも)優勝経験を積んだスティーブカーだからこそ控えも含めたチーム全員の気持ちを理解し、チーム全員のバスケットIQを上げることに成功できたのだと思う。
 シリーズの流れを決定づけた第4戦勝利の後のインタビューでイグダーラが「我々は今期、リーグで一番IQの高いバスケットをし続けてきた」と胸を張って答えていたことに、スティブカーがどういう意識づけを選手にしてきたかが、よく表れていた。「バスケットIQ」の勝負、という新しい競争をリーグに持ち込んだスティーブカーのウォリアーズ、今後、かつてのブルズのような黄金期、王朝を築くことができるのか。来季も楽しみで仕方ない。 

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。 [文学中年的、考えすぎ的、]

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。
池内恵 『イスラーム国の衝撃』文春新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4166610139
内藤正典 『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 集英社新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207706
全く違う、正反対の立場の専門家の本だからこそ、合わせて読んで、考えたい。
メリットその①正反対の立場の人でも同じように言うことは、きっと正しいし、大切なことなのだろうとわかる。事実認識として押さえておかなければいけないところがわかる。
メリットその②ふたりの意見が激しく違うところ、対立するところも、すごく大切。それは、この問題に「どう向き合うか」についてのいちばん大切なところ。自分の態度を決めるときに大切。


一冊目は、東大准教授・イスラム政治思想史が専門、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』文春新書 2015/1/20刊。
父も叔父も東大教授(それぞれドイツ文学と天文学)という学者一家に育ったためか、コンプレックスが強く屈折した人のようです。今回の事件で無礼で強引なマスコミ取材が殺到したためにぶち切れしたコメントをブログに書いて、安富歩さんに「典型的東大話法」と批判されたりしていました。その後、テレビに何本か出演した結果(早口で話し出すと止まらない頭の回転の速そうな人でした)、フェイスブックのフォロワーも激増中。フォロワーさんにすごく褒められるので、最近、屈折具合が解消してきて、素直でかわいらしい感じの人格に変貌中。と、キャラとしても今すごく注目しているのですが、思想研究の傾向としては、イスラムの暴力性や反近代性にはかなり厳しく批判的。イスラムに擁護的な(彼らには彼らなりの合理性がある的な)日本のイスラム周辺学会学者に批判的。反米思想や近代批判の憑代にイスラムを使う日本の思想家評論家たち(きっと内田樹さんあたりを想定しているのではないかと思うのですが)に批判的、という立場です。よって今回の事件でも、米国寄りの立場をとった安倍さんの行動にいちばん擁護的な発言をしているイスラム専門家の一人です。という政治的立場はあるとして、知識の正確さ、分析視点の幅広さは流石、東大准教授、という感じです。TVや新聞ではわからないことがたくさん書かれています。
いくつかびっくりした点を挙げると
◆ザルカーウィー(イスラーム国の前身組織を立ち上げたヨルダン人で2006年に米国の空爆で死亡)の立案していた「行動計画」。2000年から2020年にかけて七つの段階を抗争していたという。
(一)目覚め(2000年-2003年)
(二)開眼(2003年~2006年)
(三)立ち上がり(2007年-2010年)
(四)復活と権力奪取と変革(2010年~2013年)
(五)国家の宣言(2013年-2016年)
(六)全面対決(2016年~2020年)
(七)最終勝利(2020年)

ここまでのところ、なんだか計画通りに来ています。
2001年の911テロによる「目覚め」から、それによる世界のジハーディストの「開眼」「立ち上がり」そして2010年から始まったアラブの春による「復活と権力奪取と変革」そして2013年の「カリフ制国家の宣言」と、なんとなくここまで計画通りな感じがこわい。
 もうひとつ、「終末論的シンボル」についての分析。
イスラム国の広報雑誌に「ダービク」というのがあるんだそうで、その「ダービク」というのはシリア北部にある人口3000ばかりのの村なのだが、しかしこの町の名前はイスラムの教義の書に「終末の時の前に生じる最終戦争の始まる場として記されているのだ」だそうだ。細かいことは本を読んでほしいのだけれど、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様、死んだらすぐ天国地獄に行くわけではなく、死人はみんな最終戦争後によみがえって神の審判を受け、そこで初めて天国と地獄に行く、という「最終戦争⇒最後の審判」という世界観を持っているらしい。日本人の知っている言葉で言えば、ハルマゲドン的最終戦争観。イスラム国は終末論と、その前兆としての最終戦争を起こしている、というイメージを利用することで人を集めているというのだね。ちょっとながくなるけれど引用してしまおう。
「『ダービク』の紙面では、終末的な悲観論と楽観的な行動主義を両立させる巧みなストーリー展開がなされる。(中略) イラクでの反米武装闘争の発端の時点で、終末的な最終戦争は始まっており、運命づけられていた通りに、ダービクをめぐる善と悪の闘争が出現している、と説くことで、『イスラーム国』は、自らの勢力拡大そのものが神兆の一部であると論じている。そして、カリフ位への就任を宣言したバクダーディーの演説から、「世界が善と悪の二つの陣営に分かれた」という一節を掲げ、終末論的な善悪の闘争における善の勢力という意味付けを「イスラーム国」に与える。そして「ヒジュラの呼びかけ」「すべてのムスリムへの呼びかけーー医師、技術者、学者、専門家よ」といったバグダディーの発言の抜粋で、終末的な闘争において、世界のイスラーム教徒は「イスラーム国に移住(ヒジュラ)してこなければならない」と説く。』
日本人は、これを読むとオウム真理教を思い浮かべてしまうのではないかと思う。私はオウムの主要メンバーと全く同世代(中学時代の同級生は、高校で早稲田高等学院に進んで、そこから早稲田のESSまで上祐と同級生で親友だったと言っている)なので、この感じが実はすごくわかってしまう。僕らはノストラダムスの大予言で1999年にハルマゲドンが起きると思って子供の時から育ってきた。そして宇宙戦艦ヤマトから北斗の拳から未来少年コナンから風の谷のナウシカまで、最終戦争が起きて、ごく少数だけが生き残るという世界観にどっぷりはまって青春時代を過ごした。学歴だけ見ればエリートになりそうな人たちがなぜオウムに入るか、と言われれば、それはどうせ最終戦争が起きて地球が滅びるならば、弱者被害者として死んでしまうよりは、自らその最終戦争を起こす側になって、主体的に「主役になって」終末の時を生きたい、と思ってしまうからだ。単なるならず者や虐げられた人(イスラームであるがゆえに虐げられた人や、貧困ゆえに反社会的になった人たち)だけがイスラーム国に吸い寄せられているとしたら、あの洗練された高度な映像を制作可能な欧米人材がなぜイスラム国に参加するのかわからない。
という終末論最終戦争世界観とジハーディズムが結びついた運動としてイスラーム国を捉える、という視点は、なぜかテレビでも新聞でもほとんど語られないけれど、これは実はすごくおそろしい。最初に書いたザルカーウィーの計画の2020年「最終勝利」というのが、現実世界での真の「最終勝利」でなくても、「最終戦争に世界を持ち込んで、世界が破滅するような状態」になったとしても、つまり「終末の前兆としての最終戦争」を引き起こしてしまえば勝利だ、と考えているとすると、ほんとうに何をするかわからないではないか。

私の勝手な関心で終末論のところだけたくさん引用してしまったが、池内氏の分析は、まっとうな国際政治の歴史も、イスラーム文化や社会の背景もきちんと解説してくれている。こういう事実関係の整理は上手なので、もう一冊の内藤先生の本でいまひとつはっきりしなかったことがすっきりよくわかる。東大の人らしく、全部に目配りして、どれかひとつだけを悪者にすることを慎重に避けよう、という配慮が行き届いている。(というか、そのために「~が問題である」的指摘はいっぱいあるが、結局どうしたらいいかはよくわからない本でもある。)
もうすこし言うと、客観的だがイスラーム国だけでなく、イスラーム世界そのものへの視線が、基本「冷たい客観性」だ。日本を欧米と同じ側において、イスラーム世界をかなり警戒し、批判的に見ている。冷たい距離感の中で、どうつきあうべきかを考えている。

対照的なのが、、同志社大学教授 内藤正典氏の『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 (集英社新書) 新書 – 2015/1/16
この先生のイスラームへの視線は「温かい」。誤解なきように言うけれど、イスラーム国というテロリストに温かいのではなく、パレスチナ、ガザの人からトルコの人、西欧諸国に移民しているイスラームの人、日本人が理解できず、西欧の人が差別をしているイスラームの人への視線が温かい。親身であり、かつ、尊敬すべき存在としてとらえている。池内氏とはその点がまったく違う。そういうイスラームへの温かさをそもそも持っている人が、「イスラーム国」という残忍なテロも行い、奴隷制も復活させているこの集団をどう考えようか、どう向き合おうか、と苦しみながら書いている本がこの本。(本人も言っているけれど、ハサン中田先生とは違って、内藤先生はイスラム教徒ではないし、イスラム法学者でもない。イスラム地域研究が専門です。)
私がイスラム国についてのはじめに興味を抱いたのは、内藤教授と、元・同志社大学教授のハサン中田考氏のツイッターでのやりとりを見ていたとき。まだ北大生事件も起きる前のことで、おそらく内田樹氏をフォローしていたことから、内田氏のリツイートで私のタイムラインに表示されてきたのだと思う。その内田樹先生が帯にコメントを書いていて、私もまったくその通り、と思うので引用してしまいます。
「私自身は、日本人があまり知らないトルコのタフで粘り強い対米交渉についてとの記述から学ぶことが多かった。むアメリカの圧力をかわしつつイスラム国との全面的対を回避しようとするトルコの政治的ふるまいを、きわどい地政学的地位にある国が身に着けた外交的叡智として著者は評価している。その箇所を読みながら、著者は私たちに無言のうちに「トルコと日本を比較してみよ」と言っているのではないかという気がした。」

 今回の後藤さん救出を巡っても、つい先日、トルコが、自分たちは後藤氏の居場所を特定できていて、日本にも連絡していたが、ということを発表して話題になった。イスラーム国攻撃の先頭に立っているヨルダンではなく、空爆に参加せず、人質解放の実績もあるトルコを窓口に交渉すべきだったんじゃないかと批判をする人もずいぶん出た。ヨルダンもトルコもイスラム圏の中では親米的立場の国だが、アメリカとの付き合い方はずいぶん違う。、これまで多くの局面で、米国と軍事行動を国外でともにすることを拒絶してきた。今回の対イスラム国有志連合にも、名前は連ねていても、空爆には参加しない。王様が自ら空爆をするヨルダンとは全然違う。
内田樹先生もいうとおり、トルコは親米立場なのに、米国の言うことを聞かない。特に国外に軍を出すということに関しては、米国から要請があっても、自国民を危険にさらす可能性のあるときは、頑として拒否する。(自国民を守る必要がどうしてもあるときには出すことはあるが、米国の利害からの要請のときには拒否をする。)トルコは、イスラム国が近く、かつクルド人を国内に多数抱えて、あまりに利害が濃いからそうしているのだが、日本の場合は、あまりに遠いのだからこそ、そうすべきだろう。

 山本太郎議員だけが国会でのイスラーム国非難決議に賛成しなかったと言って、テロの味方か、というわけのわからない批判をする人がものすごくたくさん出た、というか、そういう批判しか出なかったけれど、読売産経など保守マスコミの「安倍さんを批判するやつ、有志連合欧米を批判するやつはテロリストの味方」という、ものすごく頭の悪い黒か白か論調があるけれど、「アメリカに追随する」という路線に反対するとして、選択肢はすごくたくさんあって、そのいちばんわかりやすい例として、トルコの、「アメリカ側にはいるけれど、アメリカの軍事行動要請は断る。自国民に利益にならない軍事行動はしない。イスラーム国とも交渉のチャンネルは確保しておく」という選択肢はあるのだよね。

 産経新聞が、ものすごく低劣な(頭悪い)論調になっているのに、なぜか同系列BSフジのプライムニュース2/6には、駐日トルコ大使と駐日パレスチナ大使をゲストに迎えて、(日本側のゲストが飯島勲内閣官房参与と佐藤正久参院議員、ひげの隊長さんというのはいかにも産経人脈だけど)、トルコの対応、パレスチナの意見というのをちゃんと聞いていて面白かった。番組最後にパレスチナ大使が日本に望むことは、と問われて「まず国として承認してほしい。そして、中東の地域を武器を売ってはならない地域にしてほしい」と言っていたぞ。トルコの大使は、このエリアへの欧米の干渉をやめてくれ、こエリアの人たちが自分で解決していく、その中で民主的プロセスが進むようにトルコは努力する、と言っていたぞ。安倍総理、耳かっぽじってよく聞け、と思ったよ。中東に行って武器ビジネスしようなんて絶対だめだよ。米国のおせっかいの尻馬に乗って自衛隊を派遣して、なんていうのもダメだぞ。

 話がすこし逸れたけれど、内藤先生の本で感動的なのは、後に国際的にDOSHISHA PROCESSと呼ばれた、同志社大学にアフガニスタンの政府側の大臣と、タリバンの幹部を呼んでの対話の会、和平会議を開いた話。世界中のどこでもそれまで一度も実現できなかったことを、内藤先生とハサン中田先生の尽力で実現したときのこと。アフガニスタンのスタネクザイ大臣はテロで目の前で盟友を殺され、自身も重傷を負い、この会の時も足をひきずっていたのに、そのテロを行ったタリバンの幹部と同席して、対話をした。もちろんそれですぐ和平が進展したわけではないけれど、その最初のきっかけを日本の大学が作ったのは事実。会議の場が同志社大学だったので、キリスト教の神学館チャペルだったのに、両者ともそのことはきにしなかった話や、その後全員で居酒屋で鍋を囲んだ話など、テロリストといっても人間なのだ、話し合うところからしか始まらないという姿勢が強く感じられるエピソードです。

 すごく長くなってしまったけれど、もし池内氏の見立て通り、終末論的世界観、最終戦争遂行としてイスラム国が今の戦争を進めているとしたら、それはオウム真理教と同じように、対話や交渉では解決できない可能性が高いと私は思います。世界を破滅の縁まで自らの手で持っていくこと自体を目標としていたら、対話では止められない。
 でも、そうではなく、あくまで英仏の植民地支配に始まる歴史的政治的混乱や西欧諸国でのイスラム移民差別、米国の軍事的干渉、米国の中東政策の失敗が原因でイスラム国が生まれたのであれば、それを反省し、テロが拡大する社会環境政治環境を地道に改善していくようにすべきだろう。
 今日もヨルダンが空爆して、イスラム国の拠点に大打撃を与えた、とか、イラクが近々地上作戦を展開予定、といったニュースが流れている。池内氏立場に立てば、そうするしかない、ということになるし、内藤先生の立場に立てば、そのことで犠牲者が増え、女性と子供の死者が出て、それが男性をジハードに向かわせるという悪循環を助長しているだけだ、ということになる。

 私が触れることができたのは、どちらの本についても本当に断片にすぎない。この二冊をしっかり読めば、この問題についてのかなり広範な視点が獲得できる。その上で、それから考えても遅くない。というか、その程度の知識を得ないうちに、判断してはいけないと思いました。読んでみて。

選挙権18歳に引き下げ NHK NEWS WEBを見て思ったこと。個人的備忘録。

昨日(2/6金曜日)のNEWS WEBの特集
NHKのHPから。
「選挙権18歳以上 改正案成立なら参院選から
自民党や民主党など与野党6党の実務者は、選挙権が得られる年齢を現在の20歳以上から18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案を今の国会に改めて提出することで一致しました。
今の国会で改正案が成立すれば、国政選挙では、来年の参議院選挙から選挙権年齢が引き下げられる見通しです。期待される効果や課題などについて津田塾大学の萱野稔人教授に聞きながら掘り下げました。」


萱野教授は私が最も信頼し、追いかけている政治学者でなのですが、今回は萱野教授のことではなく、一般視聴者からのツイッターコメントについて思ったこと。(この番組は画面下にツイッターコメントがどんどん出てきて、スタジオでそれについても一部触れる、という仕組みになっている。)
「年寄りの数が多いからな。若者全員が投票しても政策通らないなら選挙行かないよ」
「若者の一票が年寄りの二倍位の扱いされないと選挙行く気がしない」
WEB動画ではカットされていたけれど、生放送の時には使われた街角インタビュー映像でも、高校生くらいの女の子が「うちらの意見が聞いてもらえるとは思えないから、行かない」と答えていた。

「わからないから」でも「関心がないから」でもなく、「自分たちの意見は通るわけがないから行かない。」というのは、選挙に行かない言い訳としてはなんとなくもっともらしい。この前の総選挙の時に一部文化人が「今回の選挙自体に意味がないから行かない」とか「白紙で投票する」とか言っていたのにも通じる、意識高そうで、しかし本当は選挙の意味を理解していない、情けない意見。なのだけれど、

でも、そういう文化人のかっこつけよりも、もうちょっと複雑で深刻な、若者の心理が表れているような気がして、すごく気になった。たとえば、ネトウヨなどと呼ばれることもある、若くて貧しいのに自民党政権の右傾化政策を熱心に支持する若者たちの心理。明らかに自分たちにとって不利な政策を掲げる自民党政権を熱心に支持する理由と、「うちらの意見が通らないから選挙にはいかない」というのは、深層では共通している、というか、裏返せばまったく同じ心理に思えたので、忘れないようにメモしておいた。

この意見を裏返すと、「あらかじめ意見が通ることが保証されている政権与党に投票すれば、自分たちの意見が通ったことになるから、選挙に行くのも空しくない。」ということなのか、もしかして。自分たちがいちばん不利な消費税増税も(あ、この前の選挙はもちろん自民は消費増税延期、だったわけだが、延期つまりいずれぜったいやるよ、ということであり、法人減税とセットでいえば、大企業優遇、弱いものから取るという政策なのは間違いない)、自分たちがいちばん被害者になる可能性の高い、戦争できる国になっていくことも、自分たちがいちばん不利な、より非正規雇用を拡大していく方向の労働政策も、「うちらの意見を安倍さんが聞いてくれているからうれしい」と思えるから、安倍さんに、自民党に投票しているのか、もしかして。

海外の危険地帯に兵力として派遣されるのも、原発の延々と続く事故処理、廃炉作業に投入されるのも(今、事故処理をしてくれている作業員の方たちは、早晩、被ばく量が上限に達して、確実に人手不足になる)、今は無関係と思っているかもしられないけれど、これから大人になっていく若い世代なのだが。年金制度が崩壊していく過程で、いちばん割を食うのは若い世代なのだが。

50すぎのおっさんとして、これまでの人生で、たしかに、「うちらの意見が選挙で勝った」という体験はほとんどないのだが、それでも選挙には行っている。行っても変わらないのに、なぜ行くの?と若者に問いかけられた感じがした。「選挙に行く以上の、何かを変える行動をしないといけないんじゃないの?」と。

答えの出ない問題が多いなあ。今日は結論なし。おしまい。


後藤さん殺害の日に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

明け方まで起きていて、まさに眠りに落ちようかというときに、後藤さんが殺害されたというニュースがスマホのお知らせに表示された。ああ、なんていうことだ。ひどく重たい気持ちのまま、体も意識も石の重りを付けられたようになり、ニュースを確認したりテレビを見たりすることもできず、そのまま眠りに落ちた。
昼過ぎに目が覚めたとき、ひどい吐き気と頭痛と体の重さを感じた。インフルエンザかノロウイルスかなにかを発症したのかと思ったが、起き上がってみるとそうではないようだ。精神状態が身体に影響したようだ。身体にまで変調をきたすようなショックを、ニュースから感じたのは、人生の中で、福島の原発事故のニュースを見たときと今回の二回だけだ。

フェイスブックの友人知人の何人かは、今すぐ政治的な意見をうんぬんせず悲しむべきだ、その死を悼むべきだ、という意見をアップしている。一方、安倍総理は、「その罪を償わさせるため国際社会と連携していく」とか「日本がテロに屈することは決してない」とか「テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしていく」とか、「戦争続行宣言」的発言を続けているようだが、うまく報道記事が頭に入ってこない。

何か違う、という吐き気が僕の気持ちを支配している。どういう脈絡か、以前、友人のコピーライターに怒られたことを思い出した。彼と一緒に行った大きな仕事の(広告キャンペーン)のコンペで負けを知った直後のことだ。敗因を詳細に分析したメールを送ったところ、「全力を尽くし負けた直後に、いきなり敗因の分析をするな。今は、全力をつくして戦ったこと、負けた悔しさ、そういう感情的な体験に敬意を表し、それを労い、痛みを分かち合う時であり、冷静に敗因分析をしたりするときではない」という内容だった。

人が大きな痛みを感じ、その感情的な混乱と痛みを内的に消化し受容しようとしているそのとき、そのタイミングで、なぜだかわからないが、私の体と頭は、理性的に、理屈でその分析をしようというように働いてしまう。悲しみや怒りという石炭、熱源がくべられることで、理性的に分析するエンジンが猛烈に働いてしまう。申し訳ないが私はそういう人間なのだ。政治的に後藤さんの死を利用しようとしているのでもないし、悲しんでいないのでもないし、怒っていないのでもない。その反対だ。ものすごく落ち込んでいるし、ものすごく怒っている。後藤さんは知り合いでもないし、報道で見聞きした以外のつながりがあるわけではないが、その解放生還をほんとうに願ってここ一週間ほどを過ごしてきた。
私には六人の子供がいて、うち五人は男子だ。もう三人は成人しているが、どいつもこいつも人生に迷って、右往左往している。後藤さんも湯川さんも、道に迷った末に、うちの子供たちがなりうる存在だ。香田証生さんが殺害されたときも、長男は「自分もいろいろ迷って世界をさまよって、ああいうところにノリで行ってしまう可能性はある」と話していた。長男は今、二十代も後半にさしかかったが、就職もせず、うろうろしている。三男は大学を休学してうろうろしている。二男は就職が決まらずうろうろしている。みんなどこかで覚悟を決めて後藤さんのようになる可能性も、道に迷って湯川さんのようになる可能性もある。(五人男子がいたら、一人くらいは性的少数派になる可能性もあるなあ、と覚悟もしている。)少子化の時代、いったいどれだけの人が、湯川さんや後藤さんを「自分の子どもだってああなる」という可能性として見ていたか。自分の子供がオレンジの服を着せられて、テロリストの凶刃のもとにあると受け取っていたのか。だから、これから書くことは、表面的には理屈の話だが、書かせている原動力は理屈ではない。自分の子供が生きていく世界がどうあってほしいか、そのためにはどう考え行動しなければいけないか、という切迫した気持ち、焦りがこの文章を書かせている。

今日一日起きたことについてメディアに出る言説を以下三つに分けて考えてみる。
① こういう感情的な痛みを、政治家はなにがしかの方向に利用しようとする。政治的な立場と結びつけた言説。{安倍総理の「テロとの戦い続行宣言」。とか野党勢力側の「安倍総理の政治的責任を追及する。」とか}
② 専門家(イスラム政治、国際関係などの)は、「専門家以外は口をだすな、勝手に判断するな、感情的になるな」という専門家の意見を言う。
③ 倫理的な「いい人」は、「政治的に利用するな、まずは個人を悼め」という意見を言う。

こういう情報が組み合わさって押し寄せてくることに、私の身体全体が反発している。吐き気を催している。ひとつひとつそれぞれ、もっともらしいが間違っているし、それら三つが組み合わさることはもっと間違っている。

こういうときこそ、原理的に考えたい。そうでないと吐き気が止まらない。というのが私だ。素人だが、だからこそ、こういう大きなことが起きた時は原理的にことを考え直すべきだ。私はそう思う。そういう人間だ。語義のもともととしてのラジカルに考えたい。

 こういう感じを、福島原発事故直後にも味わった。だからわかる。まず、②の「専門家以外口を出すな」というのは絶対に間違っている。警戒すべき最たるものだ。細部についてはわからなくても、大きな状況しての判断は誰もができる。それを押しとどめる専門家の専横的態度は①の政治家の政治利用と結びつく。③の「いいひと」の行動も、大きな原理的判断に基づかないときは、①や②に利用される恐れがある。これらの組み合わせが間違って働くと、本当に大切なことがきちんと考えられないままに、状況が最悪な方向に動いてしまう。

 もつれた糸を解きほぐすために、まず②「専門家以外は口を出すな」への違和感から考えていきたい。

 イスラム国周辺の世界史的国際政治的歴史背景は、たしかに専門家以外にはわかりにくい。知識としても知らないことがたくさんあるし、ある程度わかったとしても、その中で取りうるどの立場が正しいかの判断はとても難しい。だから、知る努力無くして、判断をするな、という意見は正しい。しかし「専門家以外は口を出すな、あなたは判断をするな」という専門家の態度は正しくない。自分の人生、家族の将来に関係あることであれば、人は知る努力を素人ながらする。そしてなにがしかの判断をする。ガンにかかれば、病気に関して素人ながら勉強する。より信頼できる医師がどこにいるか。最新の治療法がどこで受けられるかについて勉強する。勉強熱心な患者は、不勉強な医師や、自分の治療法の学会的評価を気にするような偏った専門家、権威的医師よりも正しく自分の病気について判断できる場合がある。あるいは、病気そのものを治すことと、よりよい人生を送ることのバランスについては、医師ではなく、患者の方が判断できる場合がある。
 日本が中東にどう関わるかは、私や私の家族の将来、生命に直接かかわる問題だ。だから、知ろうとする。勉強しようとする。私は専門家としてではなく、自分と家族の人生と命にかかわる問題として、中東の問題に対して、ある判断をする権利と義務がある。そのために知る努力をしているし、特に今回のことを契機にさらに勉強を始めている。

 原発問題に関して「原子力の専門家以外は口を出すな」という議論がまったく意味をなさないのは、ここ四年間に僕らが学んだことだ。原子力専門家や政治家でなくても、自分の人生にかかわる問題として、知り、意見を表明することが大切だし、その権利はある。いや、義務がある。こうした問題に、第一義的に、政治的にではなく、「倫理的に」関わることができる。「こういう人生をよき人生と考える。そういう生き方をしたいと考えた時に、エネルギーについてはこのような立場でありたい」。これをすぐ「サヨク」という政治的批判をする人がいるが、これは違う。生活と人生に対する考え方、倫理的判断にもとづいて、二次的に政治的判断=ひとつひとつの政治課題への態度を決めるのだ。

 だから、③の「いい人」が、政治的課題への判断を留保排除して、感情的「悼み」だけに今回のことを限定するのには抵抗感がある。このような人生を自分と家族に送ってほしい、という願いがあったら、そのことと、今回のことをどう結び付けて判断するか。これは権利だけではなく、義務だ。

①の政治利用について。安倍総理の立場には反対だが、「自民党だから何でも反対」とか「安倍さんきらいだから反対」というような話ではなく、日本が政治的にどういう立場を取りうるかを、原理的に(現実にではなく、原理的に)考えてみたい。

国際紛争への関わり方はふたつの軸で考えることが可能だ。
① だれと一緒に行動するか。
② 何をもって貢献するか。
集団的自衛権の問題も、結局このことについて「同盟国」と一緒に「軍事行動も含めて」貢献する、という極端な選択をしている、ということで整理すればわかりやすい。

① は「国連とともに行動する」「西側(米国と西欧諸国)とともに行動する」「米国とともに行動する」「ご近所の国(東アジア、東南アジア)近隣諸国とともに行動する」「単独孤立主義」などの立場が原理的には取りうる。
結論から言うと、私の立場は「国連とともに行動する」である。これは「西側とともに」とも「米国とともに」とも明確に異なる立場なのは言うまでもない。軍事行動に関して、国連決議のない軍事行動には一切関与しない、というのが私の立場だ。今、国連決議ありで行われる戦闘を伴う軍事行動というのはほとんどない。(平和維持活動に伴い戦闘が生じてしまうことはあっても)。米国主導の軍事行動にはロシアと中国が賛成しないことが多いから。国連と一緒にしか行動しない、というのは、今の現実からすると、米国から距離を置く、という選択に結果としてなる。イスラム国に関する国連の決定(安保理での決議2170)は、資金源を断つ、外国人戦闘員の参加を阻止するなどという措置については求めているが、それ以上の具体的な軍事行動を加盟国に求めてはいない。日本は国連決議2170に沿った行動はしても、調子に乗って軍事行動をする米国の有志連合にまで同調しようというのはまずい。
米国と日本が軍事的に連携すべきは(もちろん日本に関する個別的自衛権を発動するときに、日米安保条約に基づいて米軍と共同行動をとることは当然そのまま保留してよい。その範囲はあくまで日本の周辺に限定すべきである。エネルギーを中東に依存しているから中東の紛争が日本の国の存立にかかわる事態だ、というのは正しくない。前の大戦に突入した原因の、国の外に防衛ラインを敷く考え方と一緒だ。)
私の立場はそういうことだ。できるできないではなく、そうすべきだと考えている。こういうことを書くとまた「サヨク」だという批判が来そうだが、違う。むしろ「ウヨク」だと考えている。対米従属を推し進める支えるのに利用されている偽物右翼ではなく、日本の文化と政治的立場を、いったん、しっかりと独自に決めた上で、米国の属国としてではなく、国際政治に関わっていくという立場は、これは純粋な意味で右翼なのではないかと私は考えている。

今回のことがつきつけているのは「アメリカとか、それが提唱する有志連合とか、そういう国連ではない勢力と一緒になって、日本国周辺以外の紛争に関わるのか、中東に関わるのか」という根源的な問いかけだ。イスラム国が残虐で非道なことは今回のことで、日本人にも身に染みた。として、歴史的背景も、国際政治的背景も複雑な中東の紛争に、日本が明確に敵味方を明らかにして関わるのか」という問いだ。そして答えは、NOだ。
 日本が中東での米国の行動に賛同参加しないからといって、米国が日米安保を廃棄して、日本から米軍を引き上げるか?もし引き揚げてくれるなら、お引き取り願えばよい。しかし、そんなことは絶対しないだろう。米国は米軍の国益にかなうから米軍基地を日本においているのだから。米国と日本の関係は日本国周辺に限定すればよい。

すこし別の話をする。
今回ここしばらく、「イスラム国」は国なのか、という議論がテレビでも新聞でも行われている。米国は一貫して国とは認めない、国という印象も国際世論に与えないように、その呼称について神経質になっている。しかし一方、たとえば政治学者の萱野稔人氏などは、「国際法的にまだ国とは認められていないが、原理的にはかなり国に近い形になってしまっているし、彼らが国を志向していることも事実だとしているし、一方で、国際法的には国であるところのシリアやイラクが、実態としては国として機能していない「破たん国家」化している。またあのエリアに存在するクルド人が、国際法上は「トルコ、シリア、イラクなどに分割された各国の少数民族」であるが、実際には人口3000万人からの、軍隊を持つ「国境をまたぐ民族集団」であることも露わになってしまった。(そして米国の全面的支援を受けていることも)

 敵が「テロ組織」であり、かつ、今回の人質事件は「テロ組織による営利/政治目的誘拐脅迫である」とするならば、テロと戦うことは犯罪者集団に対峙することであり、それは「戦争ではない」というのが、日本政府の立場だろう。戦争でない犯罪から邦人を保護するためであれば、自衛隊を派遣しても、それは「戦争しにいくのではない」というのが、政府の理屈の原理だ。そう言い張るためにはイスラム国は国であってはならない。犯罪集団だ。

しかし、かつての冷戦時代に左翼反政府勢力が、政権をとってしまえば国であり政府になったように、イスラム過激派もある領域を支配し政権を樹立してしまえば、国として考えざるを得ない。かつては過激派扱いだったパレスチナも、今は国連加入を申請中だし、国家承認する国も130か国に上る。米国と西欧と日本オーストラリアなどが認めていないけれど、世界地図でパレスチナ承認国を塗りつぶしてみれば、国家承認している国の方が圧倒的に多いことがわかる。(サッカーアジアカップの対戦国にパレスチナがあったよね)
話がちょっと横にそれるが、日本もパレスチナを国家承認していなく、それが国際世論的に当然なんだろうと漠然と考えているが、まさに「米国と歩調を一にしている」だけで、アジアアフリカ南米の大半の国はパレスチナを国家承認している。西欧諸国も承認に向けての動きが鮮明化している。UNESCOもパレスチナを加盟国として認めている。「誰と一緒に行動するか」というのは、まさにこういうことだ。無意識に「米国と歩調を合わせていれば、それが世界標準だ」と思い込んでいる日本人の視野狭窄についてもっと自覚すべきだ。
 イスラム国も今は「国ではない」「過激派だ」としていても、アルカイダなどと違ってイスラム国は「領土」も「民生施策」もおこなっている以上、もしイスラム国が「国になる一歩手前の、国になりうる反政府勢力」であるならば、そこに自衛隊を送ることは限りなく「戦争」に近い。日本は戦争をするのか。
 むしろ21世紀の戦争は、内戦と、そしてテロに形を変えている。21世紀型の戦争に積極的に参加するという選択を、私たちはいつしたのか。そんなことについて自民政権にOKと言ったのか。ましてやイスラム国は、アルカイダと比べると、「領域限定的」志向がもともとは強かった(無関係な世界にテロ輸出しようという動機はもともとは弱かった)ところに、おせっかいに手出しをしにいくべき対象なのかどうか。

私の意見は、イスラム国に対し軍事的に関わることにはっきりと反対だ。イスラム国の成立の前提となっている、シリア、イラク、ヨルダンあたりの歴史的経緯と、イラク国内のシーア派スンニ派の対立と、という日本にとっては判断不能な紛争に、わざわざ首を突っ込むことはない。アメリカのおせっかい&軍事ビジネスの尻馬に乗る必要は全くない。英国フランスの旧植民地政策の後始末に日本が関わる必要も全くない。少なくとも軍事的に関わることは一切すべきでないから、そう受け取られる可能性のある自衛隊の派遣もすべきではない。イスラム国と戦闘をする国を支援すべきでもない。お金も出すべきでない。人道支援をするのであれば、人道支援に限定されていることがわかる形の支援にすべきで、金を出したら金はどう使われるかその先は不透明だから金を出すべきではない。

人道支援だけをするなら良い。しかし、中東において軍事行動はもちろん、武器輸出ビジネスを展開することも絶対にすべきではない。武器ビジネスなのか通常のビジネスなのかグレーゾーン疑われうるイスラエルとのビジネスの拡大もすべきではない。



では何をもって、日本は国際的貢献を果たすべきなのか。中東とどうつきあうべきか。は、
力尽きたので次回、続きを書きます。

その前にイスラム国に対して、これだけは言いたい。
イスラム国に対して言うべきことは
① ジャーナリストの誘拐殺害をやめること。
② ヤズィーディーへの迫害(奴隷化、虐殺)をやめること。
この二点があるために、イスラム国をパレスチナのように捉えることが難しくなっている。単なる狂信的テロ集団としてとらえる立場を肯定したくなる。せざるを得なくなる。

日本政府に言いたい。イスラム国が上記二点を明確にするよう要求しつつ、それ以上のイスラム教宗派間の対立や、民族的抗争については、日本人はどちらにも与しないで、人道的立場から被害者支援を行うという立場を鮮明にすべき。

正直、スンニ派とシーア派の対立、クルド人との対立に、外国が関わるのは、どちら側についたとしても、憎しみの連鎖を助長するだけであり、資金も武器も、どちら側にも出すべきではない。その過程において出続ける民間人の犠牲、どちら側にも人道的支援を続けるという立場を明確にすべきだと思う。結果として、それは米国主導の有志連合とは距離を置く、という立場になると思う。

(ナチス台頭期に、それを擁護したり放置した英国や米国のようにならないか、という懸念はもちろんこれを書いている私にもある。あのときイスラム国を本気で殲滅すべきだった、と後で後悔しないかと。しかし、やはりそれはイスラム世界の中で、かれらの主体的選択としてなされるべきことであり、米国のおせっかい世界の警察行動や、ましてやそこにおける経済利権獲得のために、うろちょろすべきではない。)

イスラム国日本人・人質事件について [文学中年的、考えすぎ的、]

もう手遅れになりそうだし、何もできないのだが、書いておく。

今回の首相中東訪問外交の主眼は
イスラエルとの武器ビジネス(武器輸出や技術供与(してもらう)の拡大。それにのっかる企業の人を大勢連れて行ってる。
②それだけだと、産油国アラブ諸国(イスラム教)のご機嫌を損ねる。ので、イスラム国周辺諸国などへの人道的支援ということで、お金をばらまく。
③という形で、イスラエルとの関係を深めつつ、中東産油国のご機嫌もとる、どっちにもいい顔をするという中で、「イスラム国」はどの国から見ても敵だから、「2億ドルというお金は、対イスラム国、テロとの戦いを支援するもの」ということを言っておけ、という発言がちりばめられた。
④これが首相の勇み足だったのか、テロとの戦いにもっと深入りして、自衛隊派遣を進めようという親米官僚のシナリオだったのかは定かではない。
⑤国会への自衛隊海外派遣恒久法提出と人質事件が一日違いで起きるなどというのは、首相の勇み足ならばタイミングが悪すぎるし、親米官僚のシナリオ通りならばタイミングが良すぎる。

二人が殺された場合、世論が「これ以上イスラム国にかかわるな」となるのか「アメリカとともにテロとの戦いにより積極的に参加しろ」となるのかはわからない。

しかし、「イスラム国との関係をどうするか」ということばかりに世論の関心が誘導されているが、このブログの冒頭を見てほしい。①イスラエルとの武器ビジネスの拡大、というのがスタートである。

この前の総選挙で自民党に票を投じた人も、景気回復、成長のための具体策を進めてほしい、とは思っていても、その切り札の一つが「武器輸出、技術開発をイスラエルと協力して進めていくこと」などと説明された記憶はないだろうし、その政策を支持したわけでもないはずなのだが。

昭和の時代に、自民党の高度経済成長を支持した人たちも個別的政策としての「原発推進を積極的に選んだ」という自覚ははっきりなかった人が多いはず。それが「自民政権を支持したということは原発推進を支持したということですよね」というように原発は推進された。それが、後年、とんでもないことになるなどとは思わないままに。

イスラエルとの武器ビジネス、といのは二重の意味で重大な選択で、
①武器輸出を積極的に進めるという選択
②武器技術開発のパートナーとしてイスラエルと積極的に交流する、という選択
であり、その意味するところ、国際政治に日本がどうかかわっていくかの上で
将来への影響はものすごく大きい。にも関わらず
有権者が個別政策として「そのふたつのこと、OKと言った覚えはない」のに、
もうズンズンと進めている、ということなのだよね。これはまずいよ。

じゃあどうするのか。と言われると
日本は二億ドルの身代金相当の金額を用意する。
でもテロに屈するわけにはいかないからイスラム国には渡さない。

二人の救出を優先するなら、という現実主義的解決策としては
トルコが捕まえているイスラム国の有力者捕虜を、トルコから二億ドルで買う。
そのイスラム国捕虜と人質を交換する交渉をする。
というのが解決策そのいち。

その②。理想主義的空想的策。絶対しないだろうけど、こうしたい、という私の願望。
これでは人質は助からないけれど、今回の首相中東外交の「みんなにいい顔」をするなら、それを徹底貫徹しようという考え。
「日本は人道的支援しかしない」ということを世界に、イスラム国にも、それ以外の中東諸国やパレスチナ政府、ガザの難民、それを支えるハマスにもわかるようにするには
「新たに用意した二億ドルは、アメリカのイラク進攻駐留やイスラエルのガザ攻撃、西欧諸国の空爆や進駐に伴って生じた難民、犠牲者、遺族のための人道支援にあてる」とするもの。つまり、アメリカの行っている空爆や、イスラエルのガザ攻撃なども(日本が導入しようとしているイスラエル無人攻撃機でのイスラム過激派幹部の暗殺や、その誤爆による民間人被害者ももちろん)「イスラムの側から見れば国家レベルで行われているテロ」である。そのことを日本は理解するから、そうした難民被害者に対する人道的支援を日本は行う、と表明すること。
たとえばイラクでもアフガンでも、米軍の攻撃で死んだ市民への賠償を米軍はしていない。それを日本が本気でする。というようなこと。)

誰の攻撃であろうと、子供や女性や老人など一般市民の犠牲者は全部人道的見地からは被害者なわけなので、その人たちへの支援を、本気で行うのが日本だ、と表明するために、もう二億ドルを用意すること。

イスラム国からすれば「そんなの関係ない」といって人質を殺してしまう可能性が高いけれど、
「イスラム国という敵の犠牲者のための人道支援」って、敵を指定したのが今回のミスなわけなので、
「日本は誰がいいとか悪いとかは言わない。民間人の犠牲者は分け隔てなく支援する」と言い直すために二億ドル使おうよ。そのためなら国民一人250円くらい出すよ。俺、百人分くらい出しても構わないよ。


玉置浩二さん 「やっぱすきやねん」と「男はつらいよ」 [音楽]

今回は、政治の話でも文学の話でもなくて、玉置浩二さんについてです。

今日の日テレ系というか、読売テレビ制作の「ベストヒット歌謡祭2014」に、玉置浩二さんが登場して、故やしきたかじんさんの「やっぱすきやねん」を歌ったのです。その歌い方について主に関西弁圏関西弁ネイティブの方から、「すきやねん、て歌うな、すっきゃねんやろー」という怒号がネット上では渦巻いているのです。一方、東日本北日本の音楽ファンからはその熱唱に賞賛の嵐がこれまた渦巻く、という面白い現象が起きています。私は親が北海道人で、生まれ育ちが東京で、社会人の初めに三年間大阪にいて、関西弁がしゃべれず、変な関西弁を真似すると怒られた経験があるので、北海道人の玉置さんが、変に関西弁の真似をして「すっきゃねーん」とは歌わず、歌詞通りに「すきやねん」とうたったことは正しいと思ったわけです。ものまねとしてではなく、玉置浩二の歌として、たかじんさんに敬意を払うがゆえに、物まねをせず、誠実に心をこめて歌っていたと感じました。
そして無論、とてつもない歌唱力表現力で歌っていました。感動しました。

実は、私、ここ一年というもの、音楽生活という側面でいうと、ほとんど玉置浩二さんの歌しか聞いていないし、(ギターで)弾いていないし、どうしたら玉置浩二みたいに歌えるようになるだろうということしか考えていない、という玉置浩二漬けの一年を送ってきたのでした。毎日4~5時間はギター弾いて歌を歌って、YOUTUBEのボイストレーニング教室の動画見て声の出し方研究したり、WiiUの採点カラオケに挑戦したり、おっさんいい年こいてなにやっとんじゃ、何になろうとしとんねん、今さら、というこの血迷った生活も、すべて玉置浩二さんの歌を聞いてしまったことから始まったのでした。

私と玉置浩二さんの出会い(もちろん直接会ったわけではありません、テレビでその衝撃の歌の力に出会ったの)は、ちょうど一年前のこと。

私は昨年9月に少し大きな手術をして、ひと月まるまる入院して、すごく気が弱くなって、退院後も仕事はあまりせず、家で家事をしながら静養するような状態が続いていました。
そんな年末に10月~12月クールの、日テレ土曜九時のテレビドラマ「東京バンドワゴン」に、なんか白髪の、妙に目力のあるおっさんが、亀梨くんの父親で「伝説のロッカー」という役で登場してきました。そして、劇中で歌を歌いだして、初めて気づいた。このおっさん、玉置浩二だ。

玉置浩二の女性スキャンダルとか青田さんとのキスとかベッドインとかいうゴシップをまったく知らなかったので、今の玉置さんの風貌がこんなふうになっているとは全く知らなかったのです。が、とにかく劇中で歌った「サーチライト」、ドラマのエンディングテーマソングにもなったこの曲での、なんというか、今まで聞いたこともないような底知れぬ歌唱力にびっくりして、それから、このドラマでの玉置さんの生歌を楽しみにドラマを録画しては繰り返し見ていました。毎回歌うわけではないのですが、2回に1度は劇中で、ガットギター一本で歌うその歌のすさまじい上手さ。後にアルバムGOLDに収録された「いつの日も」を小学校校庭で歌うシーンや、クリスマスに茶の間で歌う「きよしこの夜」など、テレビの前で正座をして、聞くたびに涙が止まらなくなる、という今までなかった状態になったのです。コンサートやミュージカルに行って、実力のある歌い手さんの生歌を聞いて泣く、ということはわりとあるのですが、テレビを通じて流れてきた歌で泣く、というのは生まれて初めての経験でした。

そして、いまどきは、YOUTUBEという恐ろしいものがあり、過去の玉置さんの素晴らしい歌声映像がアップされては削除されといういたちごっこを続けている、ということも知るようになり。毎日何時間も、YOUTUBEを見ながら聞きながらボロボロと涙を流し、そして歌ってみるギター弾いてみる、一曲また一曲と玉置さんの名曲をギター弾き語りレパートリーに加えていくという生活を送るようになったのです。

私が10歳でギターを弾き始めたのが井上陽水さんの氷の世界ブームから。そして小学校の時にはもう全校生徒の前でギター弾き語りをするというおませな子供だったのですが、「ギターが主、歌はおまけ」という意識が強く、ギターをうまくなりたいと思って練習はしても、歌を上手くなろうと練習した記憶はずーっとなかった。声変わり時期に歌を一時期やめて、アコギのインスト(ブリティッシュフォークのインスト)や、中学後半からクロスオーバーブームに乗り赤いセミアコ抱えてラリーカールトンやリーリトナーのコピーに明け暮れ、高校でもどちらかというとエレキギターを抱えていた。大学から社会人の初めころは佐野元春のコピーバンドでボーカルもしてみた、やはりこのころも、「歌を練習」という意識は全くなかった。ギターでバンド、歌はおまけ。
クラシックのピアノとバイオリンを幼稚園から小学校までやっていたから、音程やリズムは正確だったし、声は薄っぺらだけどわりと高い声まで出たし、「ギター弾き」がおまけで歌を歌っている、という意識であれば、歌はまあこの程度でいいか、と思って今まで生きてきた。
でもねでもでも、玉置浩二を聞くと、歌ってこんなに凄まじいものなんだって50年生きてきて、初めて思った。なぜか初期安全地帯の頃の玉置さんには、そんなに「歌がうまい」という印象を持っていなかった。バンドサウンドの中に歌が埋もれているように思っていた。ソロになって以降のヒット曲「田園」にも、「精神的に追い詰められたのかな」という印象は抱いても「歌がうまい」という印象は受けなかった。唯一「メロディー」だけはすごくいいなと思っていたけれど。

この五月には「GOLD」ツアーの千秋楽のひとつ前の渋谷公会堂に聞きに行って、初めて生の玉置さんの声を聴いて、もう茫然というか、感動して涙腺が崩壊する一方で、歌がうまいとはどういうことなのかについてのあまりの奥深さに、「天才というのはいる。凡人が一生かけてもたどり着けないところに天才はいる。」ということを深く深く実感したコンサートでした。

玉置さんの歌のうまさの「異常さ」を知るには、たとえば、メロディーという玉置さんの歌を、他の歌の上手い歌手が歌ったのと比べるとわかりやすいです。若手ではピカイチの秦基博さんとシングライクトーキングの佐藤竹善さんが二人でメロディーを歌っている映像がYOUTUBEに上がっています。もちろんものすごく上手です。しかし、そのあとに、玉置さんの本家のYOUTUBE「メロディー」を聞くと、ぜんぜん違う。何が違うって、声の厚みのコントロール、呼気を「音にする、しないの配分、体のどこを振動共鳴されて声にするのバリエーションの多さ」の自由自在度が違うのです。
声を張ったときの響きは、一流の歌手はそれぞれ個性があり、とても美しいですが、それ以外の声の出し方の種類と、「低い音」「小さい音」のときの音色や響きのバリエーションと安定度に、歌手の実力が出ます。
秦さん名曲「鱗」を、ミスチルの桜井さんと秦さんが二人で歌ったap bankbandの映像がありますが、この二人を比べると、秦さんの方が、声のコントロールの幅、技術、安定度が高いのがわかります。(桜井さんは不安定なところが魅力なので、魅力的かどうかと上手い下手は別問題です。桜井さんは日本一魅力的に不安定な声を出すシンガーだと思います。桜井さんが浜田省吾さんの「家路」を二人で歌った映像でも、浜省さんの安定太い声に対する桜井さんのヨレた歌声は、「下手」と評価する人もいれば、「それが魅力」と擁護する声もあるわけです)(浜田省吾さん、ミスチル桜井さん、秦基博さんも大好きな歌手で、代表曲はすべてギター一本弾き語りアレンジレパートリーです。大好きで、一曲コピーしアレンジしレパートリーにするのに、誇張ではなく何百回も聞くくらい好きなので、比較したからといってけなしているのではありません。何百回も、ギターも歌も聞きこんで、歌も、ブレスの位置から細かな譜割りから、どの声のバリエーションでどの部分を歌うかのコピーまでもする、という中で感じた評価です。それぞれのファンの方、おこらないでください。)
話がそれましたが、「高音を張った声の魅力」だけではなく、「低い音域や小さい声のときにどれだけバリエーション豊かに安定した声を出せるか」という技術があり、その技術の幅を「感情表現や情景の描写」という芸術表現に的確に結びつける、その「技術点と芸術点の結びつきの高度さ」において、玉置浩二さんは突出して異次元にいる、というのが、この一年間、玉置浩二さんの歌を聞き続けてわかったことです。こうした玉置さんの特徴は、「いかにも難しい曲」よりも、「童謡のように平易な曲」のときに際立つのです。
コンサートでいちばんびっくりしたのが、北野武さん作詞の「嘲笑」という曲です。YOUTUBEには、この曲が初めてテレビで披露されたときの、たけしさんを隣に座らせての、ギター弾き語り映像がありますが、ぜひ見てみてください。とてもシンプルな曲ですが、この上なく美しい。そして私のような素人が歌うと、あまりにシンプルな曲なので、まったく恰好がつかない。しかし玉置さんが歌うと、最高最上の芸術になる。コンサートでは、感動で涙を流しながら、しかし、どう逆立ちしてもこの歌は自分には歌えない、という絶望感と嫉妬も感じる、という、なんというか、複雑な思いをしながら聞いていました。
そして今回の最新作、「群像の星」は、亡くなられた歌手や作曲家の歌を集めたカバーアルバムですが、いちばん驚いたのが渥美清さんの「男はつらいよ」カバー。玉置さんが歌うとどうなるのか。まったく期待していなかったのに、名曲ぞろいのアルバムの中でも、私は個人的には、いちばんこころに響きました。「男はつらいよ」。ぜひ、聞いてみてください。童謡のように単純な曲だからこそ、玉置浩二さんの歌の深さを存分に堪能できること請け合いです。

斬首考 閲読注意 画像はないけど、首切りについての話だから、いやな人は読まないで。 [閲読注意]

このひと月ほど、Beheading 首を切る、切断された頭部という言葉が、ニュースで多く扱われた時期はあまりない。
 国内の神戸女児誘拐事件、イスラーム国による欧米人ジャーナリズムの処刑映像のニュースが流れただけでなく、「ウクライナ側が、対立するドネツク義勇兵を殺害し、切断された頭部を兵士の母親あてに小包で送る、」というニュースと映像も飛び込んできた。

 私は大学時代、三島由紀夫を研究していた。もちろん文学的な関心が中心だったのだが、深く考えると、小学校一年のときに起きた三島割腹自殺、そして「生首が」という事件の印象が、三島への興味関心の根底にあったのかもしれないと、今にして思う。暴力と死に対する恐怖。理性や常識では理解できない、「首を切る」ということへの原始的な、生理的な恐怖について、私は興味があるのではないか。
 そのことになんとなく気が付いたのは、松田優作の遺作となった「ブラックレイン」の中で、主人公の同僚刑事役、アンディガルシアの首を、狂気,凶暴なヤクザである松田優作がバイクで走ってきた勢いのままま日本刀で首を刎ねる、というシーンがありそれを見たとき、なんとも言われぬいやな気分になり、それ以降の映画の印象がほとんどなくなった、ということがあったときだ。
 日本人の野蛮さ、戦後しばらく忘れていた野蛮さと狂気が、日本刀による斬首というシーンに象徴されている。そのことを見せつけられると、ものすごく、それまで感じたこともないようないやな気分がした、これはなぜだ。その問いが頭のすみにいつもこびりついていた。

 三島事件、酒鬼薔薇事件が、いつまでも繰り返し語られるのは、「首を切断する」「生首」というものがもたらす、理解できない狂気に対する恐怖と、だからこそ見たい、知りたいという抑えがたい気持ちが、いつまでも人の胸の底に残り続けているからではないのか。

 国連の決議を持たずに米国がイスラーム国を空爆することは、国際法上、明らかに違法であっても、西側諸国がそのことを容認するのには、イスラーム国による西側ジャーナリストの処刑、特に首を切断するという「残虐な」行為に対する、「放置しておけない」という気持ちが背景にあるように思う。「首を切るやつ=野蛮人、西欧的価値観を共有していないやつら、だから征伐しないといけない」という、そういう十字軍的気分がありはしないか。その気分にそのまま乗っかってしまっていいのか、ということに、違和感がここのところずっとある。

 一年ほど前、日本統治下で起きた台湾先住民による反乱を描いた映画「セデック・パレ」を見た時から考え続けているのだが。台湾先住民は伝統習俗として「首狩り」を成人儀礼として行っており、当時もその習俗は維持されていた。襲われた日本人村も、ほぼ全員首を狩られた。この映画は、まあ、びっくりするほどたくさんの人の首がポンポンと刎ねられていくのだが。彼ら首狩りを伝統として持つ原住民にとって、その殺し方は、「特別な意味」=もっとも正式で、相手に対しても敬意を持った殺し方である。日本軍が彼らを鎮圧するために毒ガスをまいたりするのだが、宗教的に神聖な「首を切る」という殺し方と、「毒ガスで殺す」という殺し方と、どちらがより「野蛮」で「残酷」なのか。というのはわからないなあ、と映画を見ながら思った。

 イスラーム国による人質の首切断処刑というのは、確かにひどく残酷で正視に堪えないものではあるけれど、ガザの子供たちを、イスラエル軍のミサイルや爆弾が無残に殺すことの残虐さと、「どちらがより非人道的化」なのか、という問いに今のところ答えはない。

 それから、話は変わるが、西欧、欧米人が、「人の首を刎ねないか」という点についても、別にそんなことはない。ウクライナでドネツク義勇軍の兵士の首を刎ねて、その母親のもとに箱詰めにして送ったのは、欧州の東端ではあるが、「NATOに入りたい、EUROに入りたい側」のウクライナ政府側のやったことだ。
 
第二次大戦中の記録を見ると、日本軍が中国で民間人も含めものすごくたくさんの人の首を日本刀で刎ねたのは事実だが、一方、アメリカ軍側も、日本兵の首を刎ね、生首を軍艦に持ち帰り、蹴って遊んだ、というような記録が残っており、戦争の狂気の中では、「首を刎ねる」ということは西洋にもつい最近まであったものだ。

現実とファンタジー映画の話をごちゃごちゃにするのもなんだが、ファンタジーの名作「指輪物語」を見ていると、「首を刎ねる」行為は、善悪両軍でたくさん出てくる。オークの軍がローハンの城を攻めたときは、討ち取ったローハンの騎士の首を投石器で城の中に投げ込む、という蛮行をした。のは「悪」の側の行為だが、「正義」側の行為としても、ドワーフとエルフの準主人公二人は、弓と斧で、オーク軍の兵士を何人討ち取ったかを競い合う中で、ドワーフは斧で敵の首をチョンチョン飛ばしている。西欧の戦争の歴史の中で「斬首」は普通の行為であり、それが減っていくのは、単に兵器が近代化したからだ。

イスラーム国というのは「過激」だとか「残酷」だとかいう以前に、原理主義=神の法に決められた通りにあらゆることをちゃんとやる国を作ろう、としている集団だと考えると、
神が定めたイスラーム法に基づいた処刑として、「残酷だから」ではなく「神の法に基づいた古典的方法で」斬首をしているのだとしたら、それを西欧の基準で「他の処刑方法より残酷だ」として、「だから空爆する、殲滅する」というのは本当に妥当なのか。ジャーナリストを処刑するのも残虐だが、空爆で民間人を巻き添えで殺すのも、同じように残虐ではないのか。

 いやいや、イスラーム国の残虐行為は、西欧人ジャーナリストだけではなく、少数民族クルド人、その中でもヤズーディーの人たちへの「男は虐殺、女性は奴隷」という点にもあるではないか、というのが、国際世論の大勢であることは私も知っている。

 ことここでわざわざ「ヤズーディー」を持ち出す、というのも、今まではなら「少数民族クルド人に対する虐殺」と言っていたところだろうが、イスラーム国領域が、あまりにクルド人地域というか「クルディスタン」と重なっているために、クルド人が、けっして少数民族などではなく、人口3000万を抱え、近代化した軍も持つ「国境で分断された民族だが、少数でも弱者でもない、中東におけるアメリカの支援を受けた集団」ということがはっきり見えちゃいそうになったから、その地域の中でも本当に少数派である「ヤズィーディーへの迫害」ということへ国際世論の焦点を持ってこなければならなくなったのか、などと邪推をしてしまう。

 私自身は首を刎ねられたくない。し、誰の首も刎ねたくない。同時に戦争で、爆撃で死にたくもない。戦争で爆弾を落としたり、マシンガンで人を撃ったりもしたくない。私の息子たちが兵隊さんになって、中東かアフリカの紛争地域に行って、治安維持の仕事をしていて、爆弾テロにあって死んだりするのもすごく嫌だな。それだけは勘弁してほしい。あー、絶対いやだ。

臆病者で怖がりなので、できれば、布団の上で老衰で、だんだん食べられなくなる、だんだん寝ている時間が増える、そして大往生、というように死ねたらと思う。でも、どんなことが人生起きるかわからない。死に方は選べない。事故や大災害で死ぬ可能性は、日本で生きている限り、常にある。

でもイスラーム国の捕虜になって首を切られるのは嫌だなあ。怖いし痛そうだし。
 
日本がもっと右傾化して、欧米人ジャーナリストを日本刀で切り殺すような事件が起きて、それへの報復で日本が空爆されて爆弾にあたって死ぬ、というのも嫌だなあ。
 中国と戦争になって、日本が占領されて、その支配に反抗するパルチザン組織が結成されて、子供たちがそういう組織の活動をして、お前、パルチザンをかくまっているだろう、と家族まるごと拷問されて殺されてしまう、というのも嫌だなあ。

 いろんなことがわからないけれど、このままいくと、そんなことが起きるんじゃないか。まさか起きない、と思っているだろうけれど、ウクライナの人たちだって、ほんの二年前までは、あんなことになるなんて、ちっとも思ってなかったと思うよ。

 そんなことをぐるぐる考えてしまうので、本当に気分が悪いんだ。

2014年9月11日という日。戦争への最終コーナーを回ったかも。 [文学中年的、考えすぎ的、]

9月10日は、電通をやめて路頭に迷っていた私を拾ってくれた大恩人、Iさんの命日なので、Iさんの奥様、ご友人(私にとっては大先輩)たちと会食をしつつ、いろいろなことを語り合うという時間を持った。大先輩、世代でいうと全共闘世代の最後尾の方たちだ。今回は政治的な話題は特に出なかったけれど、このメンバーで集まるとそちら方向に話が触れていくことは多い。

 日本時間で911午前、米国時間910深夜.オバマ大統領がISISイスラーム国への攻撃への有志連合づくりを呼びかけ、シリア空爆に踏み切る考えを発表した。911の前夜の発表には、もちろん意味があるだろう。この問題について対米従属することがどれほどの危険をもたらすかをきちんと報道しない。20140911はアメリカが再び、より深刻な戦争に足を踏み入れた日として記憶される可能性がある。それに対して日本はどういう立場をとるのか。吉田調書問題などよりも、この方がより重大な問題だと思うのだが。
 
 911.日本では、朝日新聞が吉田調書誤報を認め社長が謝罪訂正会見をした。他のメディアはこぞって朝日新聞を叩いた。ついでに原発事故当時の管首相民主政権のことも批判しなおした。そして東電は悪くなかったような印象を与えようとした。政権強化、原発再稼働への地ならし、東電悪くない、民主党叩き、朝日つぶし、という、政権にとって一粒で何度もおいしいネタであった。

 911深夜、何気なくスカパーの映画チャンネルを見ていたら、「フェア・ゲーム」FAIR GAMEという、イラク進攻時の、大量破壊兵器証拠ねつ造を告発したために、政権から過酷な攻撃をされた「元外交官の夫、CIA工作員妻の夫婦」を主人公とした、実話ベースの映画が放送されていて、つりこまれて見た。政権が、不都合な真実から目をそらすために、メディアも使いながら、「論点をすこしずらした騒動を起こし、肝心なことを国民が考えないようにする」戦略が、リアルに描かれていた。

 朝日叩きは、従軍慰安婦問題に続き、政権が政治的意図を露骨にむき出した圧力によるものであるにも関わらず、そのことを朝日自身も、他のマスメディアも全く触れようとしない。

 ふたつの誤報謝罪は、事実関係を追えば、ミスを朝日側がしたことは事実だ。朝日の政治的主張に沿う形で、事実を歪曲する、という、初歩的ミスの連発であることは否定できない。
 
しかし、より広くメディアの状況を見れば、「朝日の行う政権批判的歪曲」のみが厳しく断罪され、より幅広く行われている「他の多くのメディアが行う政権迎合的歪曲」は放置容認される、という非対称性が露わになりつつある、という問題として論じられなければならないはずだ。政権批判的な報道は、厳しく粗探しをされ、批判される。政権迎合的な報道のみが垂れ流される状況への大きな曲がり角に、一連の朝日叩きがなっている、という危惧を抱く。

大メディアと政権が、表面は批判的でも裏では意見調整をしてきたことは、今までもずっとあったことである。朝日新聞とテレビ朝日が、「いちばん批判的立場」ではありつつ、しかし最終的には権力との関係を維持し、体制維持に寄与してきたのではないか、という指摘はここ最近のマスメディア批判の中でも多く見られた論調である。政権お墨付きの政権批判メディア、という位置づけである。
ところが、今回の朝日叩きは、そういう「お墨付き批判メディア」であることも許さない、より政権迎合的になれ、という露骨な圧力がかかってきた、ということを示している。今までとは明らかに異なるフェイズに政権とメディアの関係が入ったことを示している。

「現場とトップ、組織全体」という、前項のテーマを敷衍していえば、政権とメディアトップとの関係は、あきらかに異常で露骨な接近を進めており、NHKの変質と朝日叩きという現象として表れている。

しかし、「現場」では、個々のNHK社員、朝日社員のレベルにおいては、メディアに携わる者としての職業倫理に基づく抵抗は今も続いている。そのことはひとつひとつの記事や番組の中から、今のところ見て取れる。

マスメディアにおいて何が報道されるか。何が報道されないか。そこにどのような意図や力が働いているかを知るには、海外メディアの報道、ネット(ツイッターなどでの論調)と比較して、日本のマスメディアの「現在」を常に監視し続けることが必要である。そして、日本のマスメディアの現場で抵抗を続ける人たちが、「危機のメッセージ」を発信しづづけられているかどうかを、注意深く見守らないといけない。今、息絶え絶えになっている現場の抵抗が途絶えたら、それは戦争への準備が完了したということになるのだろう。

という危機意識をさらに高めなければ、と意識した20140911でした。

吉田所長調書と朝日新聞問題について [文学中年的、考えすぎ的、]

今の報道議論が、おそろしく、そして意図的に粗雑な議論になっているのは、「現場とトップと組織全体」の問題を、わざとごちゃごちゃにしているから。
「現場、吉田所長含む東電」VS「官邸、管首相」でどうだった、という間違って簡略化された図式に対立構図をしている点。これだと、吉田所長は逃げていない=東電は逃げていない、悪いのは官邸、という結論になるように報道がいずれも組み立てられている。
結果、本来いちばん批判されるべき東電本店東電幹部がするっと免罪される、という報道の構図になっている。

 吉田所長は現場のトップ。その向こう側に「本店と官邸」というめんどくさいやつらがいた。「本店と官邸、どちらが事故をこじらせた犯人か論争」という議論がもともと存在する。
調書で吉田所長は「現場は逃げるなどということはなかった」ということを語っている。
「本店が完全撤退を考えている」「それに対して管首相が激怒した」「それに対して吉田所長が、現場は一時退避はしても完全撤退など考えたこともない。死んでも現場でなんとかしようとした。管首相には腹が立った」ということを言っているのであり、事実はそういう流れだったのだろうことは、うかがい知れる。それはこれまでの報道とも、実は特に齟齬がない。
 朝日の誤報の戦略的な大失敗は、「現場の東電社員が命令違反で逃げた」という、なかった事実をなぜか調書から作り出し、それをスクープとして報道したこと。そのことで東電批判を強めようとしたのだろうが、大失敗。なぜ失敗かというと、
① 極限状態で、死を覚悟しつつ逃げずに作業していた現場東電社員を誹謗中傷することは、国民の朝日に対する反感を強めこそすれ、東電トップ批判にはつながらなかったこと。(日本人は、トップが無能、現場が優秀で頑張る、というストーリーが好きなのだ。そこを無視して現場も逃げた東電は悪、というストーリーは国民受けが悪かった)
② より本質的な「死を覚悟して、逃げることを禁じられるような状況」に民間企業社員を置いてしまう、という原子力発電の「民間営利企業が行うことの不可能性」に焦点を当てなかったこと。こちらはわかりにくい論点なので、以下、詳述していきます。

 本店が完全撤退を考えたこと自体の善悪という議論が抜けている。朝日も管首相も、「重大事故が起きている、悪化しているときに東電社員が逃げるのは悪」という立場でいるが、これは本当にそうなのか。
一営利企業が、従業員が生命の危険にあるときに、そこから退避させるという経営者の行為。経営者としては当然、考えるべきことなので、批判されるようなことなのか、という点が議論されていない。
一般的な工場で大火災が起きた時、消防に通報したうえで社員が退避するのは悪ではない。その工場の社員なのだから死ぬまで逃げるな、消火しろ、というのはありえない。
責任感の強い現場社員が逃げずに消火を続けようとしても、上司経営者がはやく退避しろ、というのもこれまた当然。
 実は生命の危機があっても逃げてはいけない職業、などというのはこの世の中にごく少数しかない。職業の大前提としてそのことがうたわれるのは軍隊のみ。
消防警察、それに市役所などの公務員も、災害発生時には登庁を義務付けられているから、災害が起きたから自分だけ逃げる、というのは基本的にダメ。とはいえ、死ぬまで死んでも逃げるな、などとは規定されていない。当然。
民間では船や飛行機の操縦士や乗組員(お客様を見捨てて先に逃げてはダメ)など。韓国のフェリー沈没事故で、客を見捨てて先に逃げた船長たちが断罪されているのはこのため。

 原発が、従業員の生命が危険にさらされる、かつ放置すれば広い地域(東日本全体だったり、地球全体だったりまでする)が汚染され住民の生命健康財産に重大な危機及んだ時に、民間企業の社員たる現場の東電社員は、沈没船の船長や乗組員同様「逃げてはいけない」という職務上規定を持つ職業なのか?という点が議論されていない。

 チェルノブイリで事故が発生したときには、軍が投入されている。昔見たTVドキュメンタリーの記憶では、ものすごく線量が致死的に高くなっている場所に潜水してバルブを閉めに行かなければいけない、という任務が発生して、軍の潜水隊員が死を覚悟して行く(実際、任務完了後しばらくして死んじゃったはず)ということがあった。その後の石棺化までの工程も軍隊が大量投入された。この作業にあたった軍人は、のちに多くが癌になって死んだ。

 「死んでしまう可能性があっても逃げない」という職業であることをわかっている軍人にしか、事故を起きてしまった原発の処理はできないのだ。

 だから、東電トップが「民間人たる東電社員は生命の危機なので撤退させます。あとは自衛隊、よろしく」ということが、本当に悪なのか、という議論はきちんとなされていない。

吉田調書は「本店や官邸が何を考えようと、現場は最後まで戦った」という日本人の現場職業倫理の高さを語って立派なのだが、あの調書から導き出すべき結論は、
国家的危機を「現場職業倫理の高さ」だけに頼らざるを得ない、原子力発電という発電方式は、少なくとも民間企業が営利行為として行うことは不可能だ、ということ。

続いて、この吉田調書問題も含む朝日新聞バッシングは、後で振り返ると、日本が戦争になだれ込んでいくひとつの節目の事件として思い出されるのではないか、という危惧について。2014年9月11日に起きたこと、いくつかをつなげて考える、というのを、書きます。(続く)

Oさんへの返信 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を巡って ネタバレ注意

僕が電通のコピーライターをしていた頃(もう25年以上前になろうとしているけれど)つまり僕が20代前半だったころ、一緒に仕事をし、僕を指導してくれた先輩コピーライターに、Oさんという方がいた。僕より7つ年上だから、当時まだ30になったばかりのはずだけれど、大阪のコピーライターの中でも、電機やクルマ関係を書かせたら、トップの腕を持つ方だった。大阪という異文化の土地に行って戸惑っていた僕にとって、文学と生きることが一体化している先輩=モノを考え本を読み、そして文章を書くということがイコール生きるということというOさんは、仕事の先輩、よき指導者というだけでなく、悩みや考えや関心を理解してもらえる、頼りになる兄のような存在だった。

僕が電通をやめてフリーになり、コピーライターをやめてマーケティングの仕事にシフトしていったあとも、何度が仕事でご一緒することはあったけれど、ここ十数年はまったく交流は途絶えていた。

2年前にフェイスブックを始めて友達が増えていった中で、共通の友達が当然大阪の電通にはいるわけでお互いを発見しあい、フェイスブック上の友達になった。Oさんは今も膨大な量の読書家であり、(読書ブログをもっていて、それは本当にびっくりするほど幅広く大量の読書体験なのだ)、そして今は、熱心な市民ランナーになっていた。
フェイスブック上でも僕は(おそらく Oさんも)ときどきタイムライン上に現れるそれぞれの近況をちらと眺め、そして互いに熱心に「イイネ」を押すようなタイプではないので、特にメッセージを交わし合うことはない状態が続いていた。

そんなOさんが、今朝、僕の近況にコメントをくれた。

僕が書いた近況はこうだ。

『震える牛』相場英雄 『狭小邸宅』新庄耕
今週に入って毎日電車に四時間乗らなければならなかったので、以前から気になっていた小説二冊一気読み。いまの日本でふつうに働いてふつうに生きていくことの困難を思う。こういう働く生きるしんどさ小説と比較すると(比較するのも変だけど)村上春樹新作の寓話度合いは際立っているよなあ。登場人物全員、それぞれの悩み苦しみはさておき、それぞれの仕事においては、みーんなすごくちゃんときちんと仕事ができる。それはどういうことなのだ。百万人以上の日本人や、きっと同じくらいたくさんの世界の人が安心して楽しんじゃえる秘訣なのかも。

これに対してOさんは
現実の世界のほどよい取り込み方ですかね。レクサスとか、企業戦士養成プログラムとか、生々しい現実も出てくるのですが、すっかり村上ワールドの一部になっています。それにしてもどんな寓話なんでしょうね。

とコメントを書き込んでくれた。

で、僕としてはOさんにはきちんと答えたいのだけれど、それはフェイスブックのコメント欄に書ききれるようなことではないなあ、ということで、ものすごく久しぶりにブログに、村上春樹新作についての感想を書いてみようかなあ、と思ったわけ。


Oさんは、この新作について、今までの村上作品で、いちばん共感できる、という感想を、発売直後にフェイスブック近況に書いていた。僕は楽しくよんだけれど、実は肩透かし感がかなりあった。その肩透かし感について考え続けている中で、その直接の原因ではないけれど、「みんな仕事ができすぎる」ということの違和感に思い至った。

このあとは本当にネタバレ注意、未読の方は読まないでね。
つくるは駅を作るという天職についている。それはつくるの生活と心に基本的安定を与えている。つくるだけではない。レクサスを売る青も、企業戦士育成ビジネスをする赤も、陶芸家になったクロも、旅行会社のプランナーの恋人のエリも、職業人として極めて優秀だ。エリの友達でフィンランドの旅を助けてくれたオルガという脇役人物すら驚くほど優秀だ。精神を病んだ末殺されてしまったシロですら、子供ピアノを教えるという仕事をきちんとこなしていた。内的世界の空虚や葛藤と、仕事をするという生活の間の関係が、ものすごく極端にキレイな整理がされている。いやむしろもちろん意図的に、ものすごいコントラストを描くように構築されている。このことは村上春樹の小説だけを読んでいるとあまり気がつかない。いやまったく気がつかない。ごく自然な現実のように思えてくる。思い出してみれば、村上春樹作品の登場人物の多くは、その職務仕事においてきわめて優秀だ。1Q84の主人公は塾講師としてきわめて優秀であり、その父親はNHKの集金人としてきわめて優秀だ。これは何なのだろう。内的世界を防御したり際立たせたりするためには、人は職業的にプロフェッショナルな優秀さを持たなければならないと、村上春樹は思い決めているようにすら感じられる。

村上春樹作品だけを読んでいると気づかないのだが、というのがここでのポイントなのだ。たまたま、私はここ数日、別の作家の小説を続けざまに読んだ。『狭小邸宅』という文芸賞をとった新人の小説。不動産販売の営業マンになった若者の、売れない苦闘と、売れるようになった後の精神的退廃の物語なのだが。

Oさんは僕より7つくらい年上だから50台後半。僕は50歳になった。ここまでなんとかうまく人生を乗りこなしてきた僕らの年齢の人間にとって、「仕事のプロ」としての安定と、それとは独立した『人生の葛藤』という村上春樹的世界観というのは、ごく自然に受け入れられる。(人生の危機は、仕事の問題としてではなく、恋愛や性や人間関係という形で、20代前半に訪れる、ということも、全く僕らの世代には自然な郷愁とともに受け入れやすいのだ)

一方、僕には就職周辺で大苦戦したり脱落したりしている三人の息子がいて、(それ以下の年齢の三人はまだその段階に達していないが)、働いて生活を維持するということが不安定な状態の、人生の葛藤、その深刻さ、ということを、息子たちを見ていると強く感じる。

僕やOさんが社会に出た時期、70年代後半から80年代という時代にはなかった、日本社会の老化と劣化と崩壊が、今から働いて生活を立てていこうという若者たちには重くのしかかっている。

フェイスブック近況に書いた「働く生きるしんどさ」というのは、僕の息子たちの世代にとっては現実そのもので、そのことがうまく成立しないことが内的葛藤と直結してしまうのだ。(フリーター長男は小説を書く大学学部を出たまんまフリーター化しているのだが、大学学部学科専修の一年後輩が朝井リョウくんで、彼の『何者』のしんどさ、というのは、本当にあの世代にとっての現実なんだと思う。)

職業人としてグダグタであるがゆえに、人間としてうまく形をなしていけないかんじ。そのために純粋に内省的・文学的な内面、などというものを領域として確保できないということ。それが20代の通過儀礼的期間だけでなく、長くこの先も続いていきそうないやな予感。

そう、多崎つくるとその同級生たちがたしか36歳、という年齢に設定されているときに、彼らが感じる職業と現実と自分の内的世界の関係が、50代のOさんや私から見て自然な乖離感である、という点が、現実を描こうとして描けていない感じ、精妙なつくりものだけれど、偽物な感じ、というのを与えているように思う。

日本という国の足元がグズグスに崩れている感触、というものこそ、「現実」だとすると。そうした視点を、構図として徹底的に排除している(風俗事象としては現実を取り込んでいるように見えても)という点において、村上春樹新作は、現実を描いたというよりは、寓話的であるなあ。

では何の寓話か。
寓話というより、実は逃避的おとぎ話。ということかと。

ここからはまた、全く違う村上春樹論になっていくのですが。何からの逃避か。それは『ノルウェイの森』という、村上春樹作品唯一、主人公が加害者、悪の側として存在する小説(ということも漠然と読んでいると気づかないのだが。他の村上春樹小説で、性的暴力により女性を精神的に壊してしまうのは、例えば綿谷ノボルや、カフカの父のように、政治的暴力と一体化した、「悪」。なのだが、ノルウェイノ森だけが、主人公が政治的暴力は持たないが、性的な体験で、女性の精神を壊してしまう立場に置かれている)。フェイスブックかツイッター上で誰かがつぶやいていた感想として、「ノルウェイの森」の続編、後日譚のような、というのが、その意味でまさに正解だと思う。後日譚としてどう落とし前をつけるのか、と思ったら、ついていない。つけることからするすると逃げた、というのが、肩透かし感の中心。

僕とOさん、それに電通の先輩コピーライターのYさんと三人で、ノルウェイの森と、村上龍の愛と幻想のファシズム、どっちが好きか議論をしてから、本当にもう25年くらいたったのですね。いまだにそのことを考え続けているというのは、どういうことなのでしょうね。




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