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内田樹氏『日本の覚醒のために』と玉置浩二・声の力 [音楽]

『日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)』
内田樹 (著)についてフェイスブックに読書感想をいつものように書きましたが、以下はブログ追加部分。玉置浩二の声の力について。内田樹氏の文章が、その解説になっていた、という話。
 Ⅳ ことばの教育 で、音読の教育効果について内田氏が語ります。「僕は17年ほど観世流の能をやっているのですが、稽古を始めて何年目かに、謡をやっていたら、それまで全然使っていなかった身体部位が共鳴し始めたということがありました。能の謡というものは「一人オーケストラ」みたいなものなんです。声帯だけでなく、胸骨や鼻骨や頭骨からも、胸郭や腹腔からも、全部から音が出る。稽古が進むと、共鳴する身体部位の種類が増えてくる。骨と筋肉や内臓では振動数が違いますから、震えて音を発するときに遅速の差が出る。それが輻輳して倍音が出る。その倍音にまた思いがけない身体部位が反応して、共鳴し始める。(中略)嘘をついている人間の言葉は内容的にどれほど整合的でも直観的に聞きわけることができます。嘘をついている人間は微妙に早口になるし、共鳴する身体部位が少ないので倍音が出ません。(中略)「声がいい」というのは、身体から倍音が出ているということだからです。だから、言っていることが支離滅裂であっても、没論理的であっても、話している本人が「自分は真実を話している」と確信していると、彼の身体部位は共鳴して倍音を出すようになる。そういうとき僕たちは話のコンテンツではなく、「モード」の方を重く見て、その人の言うことを信じてしまう。「人間は真実を述べているときに、身体各部がその発言に共鳴する」というのが人類の経験則だからです。」
 引用がすごく長くなりましたが、この本を読んでいるときに、「玉置浩二ショー」をNHKBSでやっていて、なんで玉置浩二さんの歌を聞くと悲しくもないのに涙がボロボロでるのだろう、ということについて、この文章で、深く納得がいったのでした。私の妻は、論理的ではないけれど、観察力と直観力に非常に鋭い、優れたところがあって、私がギターを弾いて歌を歌っているのを横で聞いていて、「ねえねえ、もうすこし、肩を後ろに引いて、ほら、玉置浩二がギター弾きながら歌うときの格好みたいにしてみなよ。肩も響かせないとダメだよ。」と言うのです。「頭骨とか鼻腔とか胸郭真ん中あたりを意識するのは当たり前で、玉置浩二を見ていると、肩の後ろあたりも響くようにカラダをつかっているでしょ、」というのです。たしかになあ。私の歌う声が薄っぺらいのは、あきらかに倍音がすごく少ないせいなのは自覚しているのですが。
 妻は、玉置浩二さんの歌っている姿を見るたびに、「イエスキリストって、玉置浩二みたいな声だったんだと思う。教会にあるキリストの絵とか、十字架の像とかを見ると、顔の骨格とか、胸郭の広がり方とか、なんか似てるでしょ。きっと、玉置浩二みたいな、ああいう(倍音のすごく多い)声だったから、言葉が特別なチカラを持ったんだよ」と言うのです。
内田樹氏の、この文章と、妻とが、同じことを言っていて、びっくりしました。
 玉置浩二さんの声って、パソコンやスマホの貧弱なスピーカーで聞いても、倍音が異常に出ていることがわかりますが、生で聞くと、本当に、異常ですよ。あんな声の人間、他にいません。涙が出るだけじゃなくて、一年ほど前にオーチャードホールで聞いた時は、凄まじいロングトーンを聞いたら、ホールですから当然屋根が、天井があるのですが、私の意識の中では、屋根がパカーンてなくなって、星空がぱーと目の前に広がったんです。たとえ話、比喩じゃないです。私の意識のリアリティとして、そうなったんです。玉置さんが元気なうちに、一度でいいから、ライブに行くことをお勧めします。長いこと音楽を自分でもやり、ライブもさまざま聞いてきましたが、あんな体験は、後にも先にも初めてでした。

SONGS 玉置浩二さんで興奮したので超長文書きました。 [音楽]

 昨日は久しぶりに、地上波SONGSで玉置さんの最新のパフォーマンスがオンエアされたので、BSのみでしかオンエアされない玉置浩二ショーに触れることのなかった多くの人が、玉置さんのおそるべき歌のチカラに触れて、ツイッター上が玉置さん祭りになったのは、大変喜ばしいことであった。そのほとんどは「ヤバすぎ」「泣いた」「オニクソかっこいい」「別格」「神」というポジティブ反応なのだが、相変わらず、地上波しか見ない一般大衆の中には、「アレンジしないでほしい。普通に歌ってほしい。」「クセが強い」という、いつものことながら悲しい反応も垣間見られる。個人の感じ方は自由なので、そう思う人はしょうがない。とはいえ、玉置さんの、一回ごとに変化する、その音楽的に無限の豊かさを持つ歌の世界を、ベテラン歌手の変なクセがついた歌いまわしと同列に語られるのは全く悲しいことである。ヒット曲、代表曲の数がさほど多くないベテラン歌手が、その数少ない代表曲を何十年も歌い続けているうちに、妙にリズムをタメたり、変な節まわしをつけて歌う現象、というのがたしかにあって、それはたしかに聞き苦しいものがある。これと、玉置浩二のフェイクを多用したり、歌うたびに様々に、そのときの気持ちに合わせて様々な技術をこらして歌うこととは、まったく別のことだということが、分からないのだろうなあ。わからん人たちというのは、おそらく学校時代の音楽の成績が五段階で三以下の、音楽があまり得意でなかった人たちなんだろうな、と思って、かわいそうになあ、と思うことにしています。ダウンタウンの浜ちゃんも、玉置浩二がプロの選ぶ歌の上手い歌手No1に択ばれた自身の番組でこういう発言をしていたけれど。手本通りに歌うのが上手、というおそるべき貧しい価値観。
フェイク力含めた図抜けた歌唱力という意味で、玉置さんより上の世代の代表選手といえば故・尾崎紀世彦氏と私は思うのですが。私が初めてレコードを買ったのは彼の「また逢う日まで」で、その後も彼がテレビで歌うのをいつも楽しみにしていた。特に、彼が乗って、曲の後半でフェイクをガンガンいれてくるのが大好きだった。しかし残念なことにその機会は多くは無かった。彼のインタビューなどを追いかけると、テレビ局のディレクターからレコード通り歌うように、フェイクを入れないように、という指示が出されていた。それが詰まらなくて、日本のテレビ局中心の仕事が嫌になっていったのだという。美空ひばりさんが、日本の大衆というのは、レコード通りの歌を聞きたがるものだからと、常にレコード通りに歌うようにしていたというのも有名な話。そのときの気分に応じて、観客の乗りに応じて、自由にフェイクを入れていくことにこそ、技量の高い歌手の歌を聞く喜びがあるということがわからない人たちと言うのは、自ら音楽の愉しみを捨てているようなもので、本当にかわいそうだと思う。

ところで、玉置さんには、もうひとつ、フェイク、アレンジと言うよりも、メロディー自体の改訂を大胆にしてしまう問題というのがある。自分の曲ならまだしも、他人の曲をカバーするときに、「こういう風にした方が自然だしかっこいいでしょ」とばかりに曲を変えてしまう。具体的に言うなら、故やしきたかじんさんの「やっぱ好きやねん」・群像の星収録バージョン。この曲、やしきたかじんさん原曲は、かなり微妙で独特な音程上下節まわしがあり、全体としては胸に響く名曲だと思うが、メロディー、譜割りが、やや技巧的に過ぎる感じがする。もちろん私が関西人ではないので、この曲がヒットし愛されてきたときリアルタイムであまり多くの回数聞いていない、ということもあると思う。あるいは関西弁アクセント・イントネーションに合わせると、あの原曲メロディーが自然なのかもしれない。(同じ関西発ヒット曲でも、上田正樹は大好きだったので、大阪ベイブルースやTakakoはじめ代表曲の多くはカラオケレパートリーになっているので、細かい譜割り節まわしまで正確に歌い込んでいる。そういうことを、もし、私がたかじん版やっぱすきやねん、でやっていれば、私も玉置の「改変版やっぱすきやねん」には違和感を抱いたと思う。)私は玉置さん版の「やっぱ好きやねん」のメロディーの方が音楽的には自然で美しいと感じる。とはいえ、他人の曲を歌った場合、ここまで改メロディーをしてしまうことが、その歌手のファンの人から、「メロディーが違うんですけど」という不満な気持ちになることは、それは仕方ないよなあ。と思います。

話はまたまた飛ぶが、昨日のSONGSでは、徳永さん、綾香さん、竹原ピストルさんらが、玉置さんの歌唱力を分析賞讃していたが、こういう発言とよく同列に扱われる山下達郎さんの「玉置は日本一過小評価されているアーティスト」発言というのは文脈、言いたいことが根本的に違うのでは、ということについて、ここからは述べていきたい。
歌唱力の高さでは玉置さんと双璧の達郎さんが、同時にライブでも、極めてオリジナル再現度が高い派の代表選手、ということと、山下達郎さんの「玉置浩二は日本でいちばん過小評価されているアーティスト」発言の間には、何段階かの論理を経て、深い関係があると私は考えている。

1970年代前半、音楽シーンの中心にあった歌謡曲や四畳半的フォークソングに対し、いかにして都会的で高度な、洋楽にも負けない洗練された曲とサウンドを作るか、ということは、達郎さんも、玉置さんも70年代半ばから80年代前半という時代に強く意識していたことだと思う。そのためにこだわるべき要素は、「曲の構成」「使用コードの多様さ、コード進行の複雑さ」という構造の問題と、サウンドの作り方という両面からアプローチが必要で、そのことを、オタク的に追求してきた第一人者が山下達郎と言う人だと思う。(ナイアガラトライアングルの中で、大瀧さんのアプローチは、「サウンドづくり」の洗練に重点が置かれていて、大瀧さんの作る曲のコード進行や構成は、意外にシンプルなものが多い。)
ここひと月ほど、家の片づけをしていて、達郎さんの「僕の中の少年」CDを発見したので、この中の代表曲といっていい「ゲット・バック・イン・ラブ」をアコギ一本用にコピー、アレンジしていて気が付いたことから、分析を進めていきたい。(以下のコードは、全部半音下げチューニングで、Gをルートにしたポジションでの話)
ゲットパックインラブをコピーしてわかるのは、Aメロ⇒サビ Aメロ⇒サビ ⇒コーダ部分(遠ざかる記憶でさえ・・)⇒一音上がる転調の大サビ と言う構造なのだが
コーダ部分の「工夫して作った」感が典型的に、実に、山下達郎さん的、ということだと思う。
「Fm7⇒B♭⁷」⇒「Gm7⇒C7」⇒「Am7⇒D7」⇒「Bm7⇒E7」と、ギターで2フレットずつ同じフォームで上がっていくコード進行でコーダを作り、そこからサビに戻ったときにGからAに全一音アップ転調している、と言う、きわめて技巧的な曲構成になっている。ここはたしかに盛り上がるし、とても美しい。とはいえ、ギターで弾くと、「ここは工夫しました」感が丸出しになる。玉置さんの曲をコピーしていて、こういう、いかにも工夫した部分、というのは、まず絶対、出てこない。
山下達郎さんは、歌謡曲的、四畳半フォーク的音楽づくりから脱却するための工夫を、曲構成、コード進行、サウンドづくりすべてで職人的にコツコツと積み上げて作っていった人なのだと思う。
これに対して、玉置浩二さんの特徴は、「理論的技巧ではなく、自然にあふれ出るメロディーライン自体が、固陋な歌謡曲や四畳半フォークを自然に超えてしまう」ことだと思う。
玉置さんには「アルフィー批判事件」というのがあったらしく、無垢の羽が生まれた、あのキンキキッズの番組で高見沢氏と共演したとき、昔「アルフィーの作る曲を単純なコードのシンプルすぎる(低レベルな)」みたいなことを昔、言っちゃったことがあってごめんなさい、」みたいなやりとりが番組前半であった。このことからも分かるとおり、玉置さんにも、理論派ではないけれど、「脱四畳半フォーク、脱歌謡曲な、かっこいい曲、高度で洗練された美しさを持つ曲」を作りたい、という欲求、理想は、達郎さん同様あったのだと思う。
とはいえ、玉置さんの曲づくりが、達郎さんのような、技巧を凝らした美しさか、というと、そこは180度違うと思う。
後に亀田誠二氏がNHK亀田音楽学校でのJ-POP分析でパターン化した盛り上げ的構造(コーダとか大サビとか)いう形式を持たない曲が玉置浩二作品には多い。よりシンプルな構造で、童謡のようにシンプルな曲が多い一方で、シンプルなのに定型を外れたコード展開や構成の曲も結構、多い。(「灯りのともるところへ」などが典型。え、そこでそっちに飛んで、いきなり終わる?みたいな、不思議に単純な構成の曲が結構多い。)
 もうひとつ、玉置浩二さんの作品は、もしかすると、作曲直後の「デモテープ」段階が、完成したCD版よりも強い表現になっている場合が結構ありそうである。他の歌手に曲を提供する場合、玉置自身の仮歌入りでデモテープを渡された歌手が、「これは自分には歌えない」「玉置さんが歌った方がかっこいい」と思ってしまうことはよくあることのようである。「無垢の羽」もKinkiキッズの番組で即興で作ったときのがいちばんかっこいい説。中嶋美嘉さんのもらった「花束」デモの仮歌がおそろしくかっこよかったことなど、この手のエピソードは数多い。本人の曲でも、「このリズムで」などは、曲が生まれる瞬間を追ったドキュメンタリー映像の、インチキ英語をあてているバージョンの方が、最終仕上がった曲よりかっこいい説、というのもネット上では見られる。(私もそう思う。)。玉置さんは、経験的に、歌の力を最大に生かすには、音数、楽器数を減らした方がいいことを感じている人だと思う。ツアーの構成を見ても、「あ、今回はリードギターがいない」とか、「今回はドラムなしなんだ」というような、常識より一個欠けている編成が結構ある。
さらに言えば、玉置さんは「CDよりライブの方が圧倒的にいい」という声は非常に多く聞かれるが、これは「CDを理想形として、それに近いが、やや劣るクオリティのライブになる」という普通のアーティストとは決定的に異なる点である。逆に言うと「CDは、制作したその時点での、スタジオワークでのベスト」でしかなく、そのクオリティは、数度のライブでの演奏を経てしまえば、特にこだわり続ける必然性はないもの、になっていくに違いない。また、同じ曲を「玉置浩二ソロバージョン」「安全地帯バージョン」などでCD化し、ライブに至っては、ツアーごとに、編成の異なるサウンド、アレンジで演奏していくわけで、「CD通り」の意味など、玉置さんの音楽活動の多様性の中では、希薄になっていくのは当然のことのように思われる。
達郎さんがこだわるような「その曲の、永続する理想の形=CDという形でのサウンド全体・サウンド細部」へのこだわりは相対的には強くないように思われる。その時点ごとのベストなサウンドへのこだわりは極めて強い、完璧主義者なので、ライブでの様々なチャレンジには貪欲かつ厳しいことは知られているが、CDとしての仕上がりについては、「その時点ベスト」であって、「永遠のベスト」とは考えていないように思われる。
達郎さんと玉置さんを比較するなら、二人とも、歌謡曲的ないしは四畳半フォーク的カッコ悪さを超えた洗練された、高度な音楽を作り出すことを目指していた(もちろん、その先にある感動を目指してだが)、ということでは共通しつつも、達郎さんは、理論や、構造や、サウンドに工夫に工夫を重ねることで、それを突き詰めてきた人だと思う。だから、あらゆる意味で完成度が高い。その完成の形をCD、アルバムの形に定着させることが、ひとつのゴールになる。ライブも、その再現がベースになる。(もちろん、毎回のライブごとの新しいチャレンジはあるにせよ。)
 一方の玉置さんは、「そのとき感じる美しさ」という音楽の一回性、その瞬間の自分の感じ方を重視する度合いが高い。
達郎さんは、こういう、自分と玉置さんのアプローチの違いに、早くから気がついていたのだと思う。まったく違うアプローチを取っていながら、最も先端的かつ普遍的な美しい音楽を作り出す力が玉置さんにあることを、(自分には無い何かが玉置さんにはあることを)誰よりも深く理解していたのだと思う。天才だからこそ、自分とは違うタイプの天才として、玉置さんを見ていたのだと思う。
達郎さんの「玉置浩二は日本一過小評価されているアーティスト」発言は、このように、歌唱力についてではなく、音楽づくりの方法と、その才能についての理解から生まれた発言だと私は思っている。昨日のSONGSのサブタイトルは「KING OF VOCALIST」だったけれど、玉置さんは、音楽を作り出す人として、KINGというか、神に最も愛された人だと思う。

もうひとつ、忘れないうちに書いておくけれど、ツイッター上での玉置さんに対するよくあるしったかぶり間違い発言で、気になるのは「音程を外さない=絶対音感がある」というやつ。絶対音感の意味と限界がわかっていない発言。玉置さんは絶対音感(をお持ちなのかどうか、本当のところは分からないけれど)ではなくて、「世界一正確な相対音感」の持ち主であるということ。
絶対音感とは、ある周波数の音が、楽譜上のどの音かが、分かろうとしなくてもわかってしまう能力。あるいは音名を言われれば、その音が正確に歌えてしまう能力。
相対音感とは、基準音をひとつ決められれば、それに対して、あらゆる音程が正確に取れる能力。
そもそも音階というものが、「純正律」「平均律」(その前にピタゴラス音律)があり、平均律で調律されているピアノの音、周波数通りにすべて歌えるとしても、ハーモニーという観点では、完全に美しいハーモニーにはならない。ピアノだけで音楽を勉強して絶対音感がついてしまった人の歌が、オーケストラに対してだったり、二人でハーモニーを作ったときに本当に美しいかというと、そうではない。
デュエットをする、ハーモニーをつける、ということに対して必要なのは、相対音感の正確さ。相手の音に対し、最も美しい周波数の声を瞬間的に出せるということ。ボーカリストは、人によって正確な音程に対して、ちょっと高く外れやすい人、ちょっと低く外れやすい人、常に真っ芯をくって音程が取れる人、に分かれる。プロであっても。たとえば、民謡出身の人は高音域に上がっていくにつれ、シャープしていく傾向にあるようだ。(細川たかしさんの高音パートを想起するとわかりやすい。)逆に、AIさんなんかは、調子が悪いと、全部フラット方向に外れていく。このクセが逆方向の人同志が、お互いのクセを修正しないで、ハモリをやると、悲惨、破壊的な結果になる。何年か前のFNS音楽祭で、藤井フミヤ氏と、家入レオがデュエットしたところ、シャープする家入に、ちょっとフラットするフミヤで、恐ろしいことになって、観客、凍りつく事件と言うのが起きた。ひとりひとりで歌えば、どちらも実力派、歌唱力の高い歌手なのに、ハーモニーをとったら最低、ということが起きうる。同じFNSで、出産後の腹筋の緩みのせいか、いつも以上にフラットしがちなAIとデュエットしたのは秦基博さん。彼は、玉置さんと並ぶ天才的相対音感の持ち主なので、うまく合わせてハーモニーをつけてあげているうちに、AIさん立ち直る。ということもあった。
玉置さんは一人でうたっている分には、常に100%、真っ芯を喰う。これが「ピッチがおそろしく正確」ということ。しかし、玉置さんのすごさは、それ以上。どんな癖のある相手にも完璧なハモリをはめていけること。玉置さんが、誰とコラボデュエットしても、常に本当に美しい作品に仕上がるのは、相手のクセに合わせて、一番美しい周波数の声を出せるという、本当に天才としか言いようのない耳と音程を合せる技術を持っているから。かつての「キツイ奴ら」ドラマの中で、どんどんシャープ方向に外れていく歌は素人おばさん吉行和子さんに合わせて、ハーモニーを美しくつけ続けた玉置さん(しかも服を吉行さんに脱がされ裸になっていくというエロエロ演技をしながら)という動画を見ると、玉置さんの能力のすごさが「完璧な相対音感である」ということが一目瞭然。天災は音痴に対してさえ、完璧にハモリをつけられるのである。玉置浩二ショーその他での、玉置さんの「相手をひきたてるコラボ」には、この「圧倒的な耳の良さ」があるということ、それは絶対音感ではないのよ、ということで、超長文ブログ、おしまい。

玉置浩二さん 「やっぱすきやねん」と「男はつらいよ」 [音楽]

今回は、政治の話でも文学の話でもなくて、玉置浩二さんについてです。

今日の日テレ系というか、読売テレビ制作の「ベストヒット歌謡祭2014」に、玉置浩二さんが登場して、故やしきたかじんさんの「やっぱすきやねん」を歌ったのです。その歌い方について主に関西弁圏関西弁ネイティブの方から、「すきやねん、て歌うな、すっきゃねんやろー」という怒号がネット上では渦巻いているのです。一方、東日本北日本の音楽ファンからはその熱唱に賞賛の嵐がこれまた渦巻く、という面白い現象が起きています。私は親が北海道人で、生まれ育ちが東京で、社会人の初めに三年間大阪にいて、関西弁がしゃべれず、変な関西弁を真似すると怒られた経験があるので、北海道人の玉置さんが、変に関西弁の真似をして「すっきゃねーん」とは歌わず、歌詞通りに「すきやねん」とうたったことは正しいと思ったわけです。ものまねとしてではなく、玉置浩二の歌として、たかじんさんに敬意を払うがゆえに、物まねをせず、誠実に心をこめて歌っていたと感じました。
そして無論、とてつもない歌唱力表現力で歌っていました。感動しました。

実は、私、ここ一年というもの、音楽生活という側面でいうと、ほとんど玉置浩二さんの歌しか聞いていないし、(ギターで)弾いていないし、どうしたら玉置浩二みたいに歌えるようになるだろうということしか考えていない、という玉置浩二漬けの一年を送ってきたのでした。毎日4~5時間はギター弾いて歌を歌って、YOUTUBEのボイストレーニング教室の動画見て声の出し方研究したり、WiiUの採点カラオケに挑戦したり、おっさんいい年こいてなにやっとんじゃ、何になろうとしとんねん、今さら、というこの血迷った生活も、すべて玉置浩二さんの歌を聞いてしまったことから始まったのでした。

私と玉置浩二さんの出会い(もちろん直接会ったわけではありません、テレビでその衝撃の歌の力に出会ったの)は、ちょうど一年前のこと。

私は昨年9月に少し大きな手術をして、ひと月まるまる入院して、すごく気が弱くなって、退院後も仕事はあまりせず、家で家事をしながら静養するような状態が続いていました。
そんな年末に10月~12月クールの、日テレ土曜九時のテレビドラマ「東京バンドワゴン」に、なんか白髪の、妙に目力のあるおっさんが、亀梨くんの父親で「伝説のロッカー」という役で登場してきました。そして、劇中で歌を歌いだして、初めて気づいた。このおっさん、玉置浩二だ。

玉置浩二の女性スキャンダルとか青田さんとのキスとかベッドインとかいうゴシップをまったく知らなかったので、今の玉置さんの風貌がこんなふうになっているとは全く知らなかったのです。が、とにかく劇中で歌った「サーチライト」、ドラマのエンディングテーマソングにもなったこの曲での、なんというか、今まで聞いたこともないような底知れぬ歌唱力にびっくりして、それから、このドラマでの玉置さんの生歌を楽しみにドラマを録画しては繰り返し見ていました。毎回歌うわけではないのですが、2回に1度は劇中で、ガットギター一本で歌うその歌のすさまじい上手さ。後にアルバムGOLDに収録された「いつの日も」を小学校校庭で歌うシーンや、クリスマスに茶の間で歌う「きよしこの夜」など、テレビの前で正座をして、聞くたびに涙が止まらなくなる、という今までなかった状態になったのです。コンサートやミュージカルに行って、実力のある歌い手さんの生歌を聞いて泣く、ということはわりとあるのですが、テレビを通じて流れてきた歌で泣く、というのは生まれて初めての経験でした。

そして、いまどきは、YOUTUBEという恐ろしいものがあり、過去の玉置さんの素晴らしい歌声映像がアップされては削除されといういたちごっこを続けている、ということも知るようになり。毎日何時間も、YOUTUBEを見ながら聞きながらボロボロと涙を流し、そして歌ってみるギター弾いてみる、一曲また一曲と玉置さんの名曲をギター弾き語りレパートリーに加えていくという生活を送るようになったのです。

私が10歳でギターを弾き始めたのが井上陽水さんの氷の世界ブームから。そして小学校の時にはもう全校生徒の前でギター弾き語りをするというおませな子供だったのですが、「ギターが主、歌はおまけ」という意識が強く、ギターをうまくなりたいと思って練習はしても、歌を上手くなろうと練習した記憶はずーっとなかった。声変わり時期に歌を一時期やめて、アコギのインスト(ブリティッシュフォークのインスト)や、中学後半からクロスオーバーブームに乗り赤いセミアコ抱えてラリーカールトンやリーリトナーのコピーに明け暮れ、高校でもどちらかというとエレキギターを抱えていた。大学から社会人の初めころは佐野元春のコピーバンドでボーカルもしてみた、やはりこのころも、「歌を練習」という意識は全くなかった。ギターでバンド、歌はおまけ。
クラシックのピアノとバイオリンを幼稚園から小学校までやっていたから、音程やリズムは正確だったし、声は薄っぺらだけどわりと高い声まで出たし、「ギター弾き」がおまけで歌を歌っている、という意識であれば、歌はまあこの程度でいいか、と思って今まで生きてきた。
でもねでもでも、玉置浩二を聞くと、歌ってこんなに凄まじいものなんだって50年生きてきて、初めて思った。なぜか初期安全地帯の頃の玉置さんには、そんなに「歌がうまい」という印象を持っていなかった。バンドサウンドの中に歌が埋もれているように思っていた。ソロになって以降のヒット曲「田園」にも、「精神的に追い詰められたのかな」という印象は抱いても「歌がうまい」という印象は受けなかった。唯一「メロディー」だけはすごくいいなと思っていたけれど。

この五月には「GOLD」ツアーの千秋楽のひとつ前の渋谷公会堂に聞きに行って、初めて生の玉置さんの声を聴いて、もう茫然というか、感動して涙腺が崩壊する一方で、歌がうまいとはどういうことなのかについてのあまりの奥深さに、「天才というのはいる。凡人が一生かけてもたどり着けないところに天才はいる。」ということを深く深く実感したコンサートでした。

玉置さんの歌のうまさの「異常さ」を知るには、たとえば、メロディーという玉置さんの歌を、他の歌の上手い歌手が歌ったのと比べるとわかりやすいです。若手ではピカイチの秦基博さんとシングライクトーキングの佐藤竹善さんが二人でメロディーを歌っている映像がYOUTUBEに上がっています。もちろんものすごく上手です。しかし、そのあとに、玉置さんの本家のYOUTUBE「メロディー」を聞くと、ぜんぜん違う。何が違うって、声の厚みのコントロール、呼気を「音にする、しないの配分、体のどこを振動共鳴されて声にするのバリエーションの多さ」の自由自在度が違うのです。
声を張ったときの響きは、一流の歌手はそれぞれ個性があり、とても美しいですが、それ以外の声の出し方の種類と、「低い音」「小さい音」のときの音色や響きのバリエーションと安定度に、歌手の実力が出ます。
秦さん名曲「鱗」を、ミスチルの桜井さんと秦さんが二人で歌ったap bankbandの映像がありますが、この二人を比べると、秦さんの方が、声のコントロールの幅、技術、安定度が高いのがわかります。(桜井さんは不安定なところが魅力なので、魅力的かどうかと上手い下手は別問題です。桜井さんは日本一魅力的に不安定な声を出すシンガーだと思います。桜井さんが浜田省吾さんの「家路」を二人で歌った映像でも、浜省さんの安定太い声に対する桜井さんのヨレた歌声は、「下手」と評価する人もいれば、「それが魅力」と擁護する声もあるわけです)(浜田省吾さん、ミスチル桜井さん、秦基博さんも大好きな歌手で、代表曲はすべてギター一本弾き語りアレンジレパートリーです。大好きで、一曲コピーしアレンジしレパートリーにするのに、誇張ではなく何百回も聞くくらい好きなので、比較したからといってけなしているのではありません。何百回も、ギターも歌も聞きこんで、歌も、ブレスの位置から細かな譜割りから、どの声のバリエーションでどの部分を歌うかのコピーまでもする、という中で感じた評価です。それぞれのファンの方、おこらないでください。)
話がそれましたが、「高音を張った声の魅力」だけではなく、「低い音域や小さい声のときにどれだけバリエーション豊かに安定した声を出せるか」という技術があり、その技術の幅を「感情表現や情景の描写」という芸術表現に的確に結びつける、その「技術点と芸術点の結びつきの高度さ」において、玉置浩二さんは突出して異次元にいる、というのが、この一年間、玉置浩二さんの歌を聞き続けてわかったことです。こうした玉置さんの特徴は、「いかにも難しい曲」よりも、「童謡のように平易な曲」のときに際立つのです。
コンサートでいちばんびっくりしたのが、北野武さん作詞の「嘲笑」という曲です。YOUTUBEには、この曲が初めてテレビで披露されたときの、たけしさんを隣に座らせての、ギター弾き語り映像がありますが、ぜひ見てみてください。とてもシンプルな曲ですが、この上なく美しい。そして私のような素人が歌うと、あまりにシンプルな曲なので、まったく恰好がつかない。しかし玉置さんが歌うと、最高最上の芸術になる。コンサートでは、感動で涙を流しながら、しかし、どう逆立ちしてもこの歌は自分には歌えない、という絶望感と嫉妬も感じる、という、なんというか、複雑な思いをしながら聞いていました。
そして今回の最新作、「群像の星」は、亡くなられた歌手や作曲家の歌を集めたカバーアルバムですが、いちばん驚いたのが渥美清さんの「男はつらいよ」カバー。玉置さんが歌うとどうなるのか。まったく期待していなかったのに、名曲ぞろいのアルバムの中でも、私は個人的には、いちばんこころに響きました。「男はつらいよ」。ぜひ、聞いてみてください。童謡のように単純な曲だからこそ、玉置浩二さんの歌の深さを存分に堪能できること請け合いです。