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今夏のNHKスペシャル四連作「本土空襲全記録」「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」「戦慄の記録 インパール」に思うこと [文学中年的、考えすぎ的、]

今夏のNHKスペシャル四連作「本土空襲全記録」「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」「戦慄の記録 インパール」、これに、「本土空襲全記録」と連動し、その米軍側の内幕をさらに深耕したBS1スペシャル「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」も含め、大変力の入ったものだったし、ツイッター上でもここ最近なかったほど賛否両方の意見で沸き返ることになり、フェイスブックの私の友人たちの間でも話題になった。これらについて思うところをまとめておきたい。
ここ数年、戦前回帰を目指す安倍政権の意を受けた籾井前NHK会長の方針により、戦前軍部批判色の強いドキュメンタリーが作りにくい、放送されにくい傾向が続いていた。それが、籾井体制の終焉、安倍政権支持率低下により、NHK内の力学に変化が起きたことが、今夏番組内容変化の背景にあると推察される。
 このため、上記番組においては、権力側への批判色が強まり、一般市民や下級兵士たちの苦難を強調する基調が鮮明になった。
 「本土空襲全記録」と「なぜ日本は焼き尽くされたか」においては、米軍内部の「空軍自立への権力闘争」と、「軍事施設目標への精密爆撃」を標榜しながらその難易度が高いために、「一般市民への無差別爆撃」が正当化されていくプロセスが描かれていく。米軍の爆撃機や戦闘機の乗員の、日本人の一般市民を攻撃することへの「戦争中はその正当性を疑わなかったこと、地上の動くものは誰であろうと打つことに熱中していたこと」という戦争のもたらす狂気と、「現在振り返っての悔恨」という図式をもって描かれていた。
 「731部隊」においては、現場の医学者ではなく、研究費集め、医学界での地位拡大のために731部隊に多くの医学者を送り出した京都帝大医学部長戸田正三を中心人物として「本土の学術界の中心にいて手を汚さずに大罪を犯しながら戦後も地位を極めた人たち」その命令によって「積極的に人体実験をした医学者」「いやいやながら人体実験していく医学者」「それを実施する部隊軍人」「少年隊員として残酷な人体実験の、もっとも悲惨な下働きをさせられた、生き残っている老人の証言」「人体実験された現地の人たち」という「大悪人から被害者のグラデーション」をつけて731部隊のありようを描いていく。
 「樺太地上戦」では、終戦を迎えたにも関わらず、8/15以降も続くソ連軍の侵攻、北海道へのソ連侵攻と、戦後のソ連北海道支配を阻止するために、大本営の戦闘行動即時中止命令に反し、樺太死守の命令を出した札幌第五方面軍司令官樋口季一郎中将を中心に、手薄な兵力の中で樺太死守を命じられた樺太師団 鈴木参謀長の判断のありようが批判的に描かれ、その結果としての一般住民の悲劇が拡大した、という構図で「加害者―被害者」関係を描いていく。
 「インパール」では、大本営内での机上の空論と人情(誰の気持ちを汲んでやらせてやろう、)、現地第5軍司令官 牟田口中将を最大の責任者として描きながら、現地司令官、参謀の、兵站を軽視した無謀な作戦により、(それを指摘反対する参謀、幹部はすべて左遷更迭され)、3万人もの兵士が死亡、その6割が戦闘ではなく、撤退時の餓死、病死。友軍兵を殺しその肉を食べるだけでなく、持ち歩いて物々交換するというまさに地獄の状況となった。牟田口中将に側で使え、その発言を記録していた齋藤少尉の手記記録を辿りながら、牟田口中将を初めとする将校参謀の無謀と、戦後も生き残って自己正当化を図る無責任さをひとつの極に、もうひとつの極として現場の兵士たちの味わった悲惨を、生き残った兵士の証言、亡くなった兵士の残した手記、現地住民の証言などで描いていく。

 より権力中枢にいた人間、作戦を立て進めた人間が、敗戦になると、いちはやく逃げだし生き延び、戦後も責任を取らず、中には知らぬ顔で地位を極め、自分のしたことを正当化していった。その一方、現場にいた多くの一般市民や下級兵士たちが犠牲となり、生き残っても大きな傷を抱えて戦後を生きてきたか。そして、この構図は「今の日本社会でも変わっていないのではないか」という問題提起。この、わかりやすい構図が貫かれているがゆえに、「NHKが良心を取り戻した」という賛辞とともに、保守勢力周辺からの激しい批判も巻き起こすことになった。

 私の基本的立場は「NHKがこのような番組をオンエアできるようになって良かった」側なのであるが、それだけではない、モヤモヤした想いも残る。

 単純な「悪である権力者、軍幹部」と「被害者としての下級兵士と市民」という二項対立では、戦争は描ききれないのではないか。
 例えば、日本軍のようには「愚かでない、合理的判断ができる軍」というのはどういうことなのか。そんな軍というものはあり得るのか。補給兵站をきちんとやった、と言う意味では、米軍は「合理的判断ができる」軍だったが、その一方で、「本土空襲全記録」を見れば、米軍が一般市民を大量虐殺する空爆を軍内部権力争いの中で正当化し実行していったことを見れば、(日本に対して行っただけでなく、ベトナム戦争でもその路線は継続したことを考えれば)米軍とて「合理的で善良」でないことは確かだろう。
 牟田口中将が「5000人殺せばインパールを落とせる」(自軍兵士を殺せば、とたびたび発言したこと)に批判が集まっているが、言葉が乱暴なだけで、軍の参謀にとっては一般的な思考回路ではないのか。ノルマンディー上陸作戦で連合軍の初めに上陸する部隊、兵に役目に当てられた部隊は、ほぼ「決死」であって、(特攻のような100%の死が確定しているわけではないものの)「上陸初期の想定被害」として計算されていたのではないか。軍の作戦上「任務遂行のためにどれだけの犠牲が必要か、許容しうるか」という冷徹な視点は、全ての軍隊に、現在の自衛隊にだって存在する。旧日本軍の「精神主義」や「非合理性」は批判されるべきだけれど、「一定の兵力の犠牲の上に、国益のために戦争をする」のは軍の本質であって、そのどこまでを批判すべきなのか。
「樺太」の番組が保守勢力に批判されたのは、この番組で樺太の悲劇の張本人とされた樋口季一郎中将という人物が、実は非常に良心的な人物として国際的にも評価が確立していることにある。ナチスに迫害されたユダヤ人をソ連→満州国ルートで逃がすことに尽力し数千人のユダヤ人の命を救った。後に戦犯として裁かれそうになったときにユダヤ人が救命に動いてくれた。アッツ島玉砕後のキスカ島撤退時、大本営の命令にそむき、無血撤退を実現し、多くの兵の命を救った。陸軍軍人の中では稀な良心の人として知られている。樺太の死守という判断も、ソ連軍の侵攻に対し、諸般の条件の中で苦渋の選択だったのではないか、という見方もできる。(占守島の防衛戦で善戦することで北海道へのソ連軍侵攻を防いだのも、この人の功績である。)(ソ連兵の行動特徴からして、戦闘せずに武装解除したとしても、女性への強姦や、多くの人が長期抑留などの悲惨な目にあった可能性が高かった。判断を誤ったと後に後悔したとしても、「無能無責任」による判断ではなかった、当時の情勢の中ではやむを得ぬ選択だったのでは、という見方ができる。)
 軍の上層部が「すべて悪かつ愚劣」で、被害者は一般市民や下級兵士だけ、という図式からこぼれおちる人物、というのも存在したはずであり、そうした人物であった可能性の高い樋口中将までも「無責任で無能な軍幹部」として描くことに批判が出たのである。
 また別の視点ではあるが、インパールの番組を見て、不思議に思ったのが、現在の現地(ビルマからインパールの行軍途上の村)の少数民族の村の人たち(当時を知る老人たち)の多くが、日本兵について好意的な記憶を持ち、好意的態度だったこと。中には、食料として大事な牛を取られたことを恨んでいる人もいたが、「殺された」とか「強姦された」とかいう記憶としては残っていない。「ジローは楽しい人だったよ、子供たちに人気があった」とか、遺品を今でも大切にとっておいてくれて、「日本人の遺族が来た時のために大切にとってあるよ」と言ってくれている。友軍兵士同士が共食いするほどの状態で撤退しながら、現地の人たちに「日本兵がたくさん死んだ」という記憶としては残っていても「日本兵にひどいことをされた」という記憶として残っていないのはどういうことなのだろう。インパール作戦自体は日本兵にとっては、悲惨なものであっても、アジア史全体の中では、イギリスからインドの独立に一定の影響を与えたという評価もあり、それが「ネトウヨの希望的捉え方」なだけでないことは、はからずも、今回の番組の、現地少数民族の村の人たちの態度ににじみ出ているようにも見えた。

 どんな国のどんな軍隊でも、戦争は一般市民や下級兵士に悲惨で過酷な犠牲を強いる。その中でも、戦前の日本軍トップ、大本営や将校たちの多数が持つ非合理性、精神主義、無責任さ、人命軽視はひどいものだった。ここまでは、事実として認め、反省すべきだと思う。
 だから、の、その先が大切だと思うのだが。
 「すべての権力者、すべての軍幹部」は、本質的、不可避的に巨悪である、と批判しては、その立場になろうという人が出てこない。「権力者」つまり政治家になろうという人と、「軍」に関わろうとする人は、すべて悪意に満ちた人、あるいは悪に落ちることを初めから肯定している人である、という規定をしてしまっては、優秀な人材が、政治家にも軍人にもなろうとしなくなってしまうではないか。その結果が、「二世しかいない政治家」と「制服組って本当はどの程度優秀な人たちなの?」がわからない現状に着地してしまっているのではないか。
 どのような理由があろうと、いったん戦争が起きれば、現場の兵士と、一般市民が悲惨な目に合う。だから戦争は極力さけるべきだ。政治家たるもの、そのために最大限の努力をすべきだ。ここまではOK。反対する人はほとんどいないと思う。
 政治家、偉い学者、軍司令部、こうした人たちが、愚かであったり、利己的であったり、無責任であったり、間違いを起こしたまま責任は取らずに済むような体制になっていたりすると、戦争の悲惨さは無限に拡大していく。これが今回の番組で強調されたポイント。これも事実だ。これもOK。
 では、どうあるべきなのか。最も知的で、利己的でない人物が、権力を握れるような仕組み。しかも、そんな人物であっても、政策を間違ったときには、きちんと責任を取らせられる体制ってどんな政治体制だろう。
 しかも、責任の取らせ方が、隣国韓国のように、大統領経験者が政権を追われた後はもれなく吊るし上げにあって、投獄されたり自殺に追い込まれたりするのでは、誰も権力者を目指さないと思う。
  今回の番組について、「昔の軍部の体質は」「現在の政権と変わらない」「ブラック企業と変わらない」「日本人のダメなところは全然変わっていない」という意見がツイッター上に溢れた。
 どうしたら、変われるのか。「あいつら最低だった」ではなく、どうしたら変われるのかを考え続けたい。そんなことを、番組を見ながら考えました。

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AIについて、思うこといろいろ。 「NHKスペシャル AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」炎上問題と、 『AIが神になる日』 Kindle版 松本 徹三 (著)を読んで。 [文学中年的、考えすぎ的、]

「NHKスペシャル AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2017080121SC000/
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170722
 このNHKスペシャルに対して、統計学者数学者やら、そのあたりを学んだ学生さんらを中心に「因果関係と相関関係の区別がついていない」「ビッグデータ解析であって、全然AIではない」などという批判が集中して炎上した。この批判も、表面的に見れば正しいが、AIの未来における役割や危険性や可能性についての理解の乏しさと言う意味では、かなり「低レベルな批判」だと思う。もっと低レベルなのは「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」というAIの(分析から番組製作者が勝手に作った刺激的な)提言に、ひとり暮らし40代が「自分たちに死ねと言うのか」という脊髄反射的低レベル反応をして、ツイッター上に溢れて、まあ炎上したわけである。(ツイッターコメントをおよそ読んだが、こういう批判をした人の大半は番組本編を見ていなかったようである。ネット上炎上情報や番組予告篇程度を見ての発言が大半だった。)
 NHKスペシャルのAIテーマを追いかけているチームは、昨年から、将棋の電王戦を追いかける、羽生さんをメインに立てて、国内外のAIの研究と実用化動向を取材するなどの実績を重ねてきて、ここに至っているので、AIについてわかっていないわけではない。ここで出ているような低レベル批判は出るのを承知の上で、将棋にもAIにも興味の無かった人まで取り込もうとしたのだと思う。炎上覚悟の刺激的提言と、マツコデラックスと有働アナという、お茶の間メジャー度でいうと横綱級の二人をMCに据えて、本当の一般大衆レベルに、AIが発達してくると、「今までの常識、普通の人間の感覚では受け入れにくい何かが起きるのだ」ということを伝えよう、という番組だった。

 将棋や囲碁において、最強のプロである将棋名人や、中国人最強(=人類最強)棋士がコンピュータに勝てない、つまり人類がコンピュータに勝てない、という時代が到来した。今までの「とはいえ、天才の直観力が」「人間にしかない××が」という期待をすべて否定するような、圧倒的な差が生まれてしまった。その差は今後、開く一方であり、人間側の巻き返しは見込めない、というところまでいってしまった。(囲碁は複雑性が高いので、まだしばらくはAIと人類の戦いは続きそうだが、将棋の電王戦は、これ以上やっても無駄、人類は勝てないということで、今回で打ち切りになった。)
 この事態を、普通の人はまだ呑み込めていないのだと思う。将棋や囲碁のようにルールが決められたことならまだしも、現実社会の複雑な事象に対応するのは、やはり人間でなければできないだろう。できないはずだ。こう思いたがっているのだと思う。
 NHKスペシャルは、「AIなんかに複雑な現実社会の問題など解決できるはずがない、されてたまるか」という、一般大衆の逆鱗に不用意に触れてしまったのだと思う。
 ここ5年10年ではたしかにそうかもしれないが、しかし、これから20年30年たつと、そうも言っていられなくなる。私は社会人になって32年なので、私が新入社員のときというのは、自動車電話はあるが携帯電話はない。インターネットも無い。GPSもカーナビもない時代だった。携帯電話はまだ想像できたとして、インターネットという概念自体がなかった。中国はまだひどく貧しく、GDPで日本が中国に抜かれる、などと言っても、誰一人信じなかっただろう。それくらいの社会変化が起きる。変化速度はこれまで30年よりこれから30年の方が早い。今の新卒社会人が、55歳になるころには、AIはおそるべき進化をとげて、人間社会、人間のありようを根本的に変えている可能性がある。というより、その可能性が高い。

 あの番組のシステムはまだ「AI」とは呼べない未熟なものである。提言は番組製作者のお遊びレベルの粗末なものである。しかし、AIがこれから進化したとき、何が起きるのか。それに対し、人間はどういう態度をとるのが正しいのか、そういうことを考えるスタートにしよう、というのが番組製作者の意図だったのだと思う。
 「AIの提示する解決策には、人間の理解の仕方・因果関係では理解不能なものが多い。しかし、実際にやってみると、人間以上に上手に課題を解決してしまう。そういうAIが発達していったら、社会的課題の解決は、AIの言うことを、(根拠はわからなくても、)検討してみる価値があるのではないか?」

 将棋囲碁のAIソフトでも、投資銀行のディーラー業務に関してすでに稼働しているAIについても共通してるのは、「なぜかは説明できないが、その判断が、人間の判断より有効性が高い、正解度が高い」という不思議な特性を持っていること。機械学習、ディープラーニングで、AI自身が学習し法則を見つけて自らを進化させていく、ということになった瞬間から、この特性がどんどん膨らんでいる。ディープラーニング以前であれば、「人間の作ったプログラムを超高速で演算するからコンピュータはすごい」だったのが、ディープラーニングが進化してくると、開発の人間が「AIがうまく進化するように微妙にプログラムをいじる」ことと「AIが自身を進化させていくこと」の間の関係性が、ブラックボックス化していく。
 冒頭、「このNHKスペシャルは相関関係と因果関係を混同している」という統計学者、数学者の批判を低レベルと言ったのは、そういうことだ。AIでは、なぜそうなるのかの「因果関係」がわからなくても、「その手を打てば、この課題解決に効く手段」を編み出す、作り出すことができる。「因果関係」はわからないが、単なる「相関関係」でもない。人間にはその因果関係は説明できないが有効な手段をAIは出すことができる。これがAIの、人間の常識に著しく反するところなのだ。人間の意思決定は、何がしかの因果関係メカニズム理解があり、それが説得力を持つ時しか意思決定できない。(民主主義では合意が形成されない。)のに対し、AIは、因果関係は説明不能だが、有効な解決策を提示できるように、いずれなる。人間の理解を超えた、様々な有効な社会課題解決手段をAIが作り出せるようになったら、社会はどうなるべきか。人間はどうすべきか。
 このあたりのことを、考えるベースを、網羅的かつ根源的に考えさせてくれる本として、『AIが神になる日』松本 徹三 (著) をお勧めしたい。著者は京都大学法学部卒→伊藤忠→クアルコム日本法人社長→ソフトバンクモバイル副社長という、商社マンからITビジネス黎明期から現在まで第一線を走ってきたおじい様である。ビジネス55年、御年77歳、一流ビジネスパーソンなだけでなく、哲学・歴史・政治などに幅広い知識を持ついわゆる「教養人」でもある。つまり、「若い理系のIT専門家とか学者」が、わけわからんことを語っている、という本では全然ない。大人ビジネスパーソンかつ教養人の立場から、AIの未来をどう考えているかを平明な言葉で語ってくれます。
私は、松本氏の意見に全部賛成というわけではないですが、これくらいの視野の広さ深さの認識をベースに、AIというのは議論すべきだというその基本スタンスに大賛成。
 特に、初期段階でAIに対するスタンスを人類共通でうまく管理しておかないと、AIが人類を滅ぼす可能性が高い、という点について、松本氏が真剣に考えた上で、この本を書いていること。(必ずしも全体が悲観的な未来を書いているわけではないのだが、)「AIのリスク」について、真剣に考えている点は大いに評価すべきだと思う。
この本を読んだ上で、NHKスペシャルを改めて見る、というのがお勧めです。
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日本×アイルランド戦は、前回ワールドカップの南ア戦と同じくらい胸が熱くなる試合でした。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 ほんとに、ナイスゲームでした。ワールドカップの南ア戦と同じくらい、いい試合でした。タックル、超えていこうとする気持ち、心が、第一戦とは、全然違った。前半の、巨大な相手のアタックに小倉順平が集中して狙われながら、タックルをし続ける姿に、涙ボロボロ。松島のトライで松島と小倉が抱き合うところで涙ボロボロ。後半も、ルークトンプソンが、稲垣が、とにかくみんながタックルしたと思ったら立ち上がり、次の瞬間、またタックルしているその姿に涙がボロボロ出てきた。エディージャパン全員にあった、この魂を、ルークトンプソンが今の、新しいジャパンのメンバーにも注入してくれたような。全員がタックルしては立ち上がってはタックルしては。
 ワールドカップメンバーと、新しいメンバーの間の「厳しさ」の落差を、埋めるきっかげに、この試合がなってくれると思います。第一戦では、稲垣が「エディージャパンのときに積み上げたものが失われている」と言い、田中が「規律を守れるかどうか、反則をしないかどうかは個人の意識の問題」と、簡単な反則から流れを相手に渡して失点を重ねたことを厳しい言葉で語っていました。新しく代表に入った選手は、自分たちと互角の相手との試合(ルーマニア戦)では、ディシプリンを守れても、本当にきついプレッシャーをかけてくる格上の相手には、簡単に反則をしてしまう。
 ワールドカップ南ア戦の勝利は、格上の、フィジカルでも圧倒的な南アに対し、反則をせずにタックルし守り続け、セットプレーに集中しきる、そこから生まれたのだということを、このアイルランド第二戦では、エディージャパンからの戦士たちが、新しくジャパンに加わったメンバーに、体で、プレーで伝える試合だったと思います。
 最後の10分間に、相手ゴール前まで迫りながらトライを上げられなかったのは、最後に投入された徳永、山中らが、体力的にはフレッシュだったけれど、ゲームのその緊迫感、ミスができないそのテンションに対応できずに簡単なところでミスを重ねたことも一因だと思う。
 今回、このレベルの「本当の戦い」で、初めて10番をつけた小倉順平について。小倉については、個人的に特別な思い入れがあって、もう、応援している気持ちとしては、自分の子供のような気持ちで見ている。高校の一年時から、ずーっと見続けている。(長男三男の母校、桐蔭学園初の日本一を、松島とともに達成。そのときのスクラムハーフの浦部君は明治大学で松橋と同期。その浦部君は電通に入社して、今は私の仕事仲間。小倉君ほど「ラグビー理解が深く」「キャプテンシーがあり」「体格が小さいハンディを努力で乗り越えようと努力し続け」「キック力の課題も、努力により今や日本トップクラスのキッカーになった」、いろいろな意味で尊敬し思い入れをもっさてみられる選手は、私にとってしはいないです。この試合も、ものすごく大きな期待と思い入れ満タン状態で見ていました。
 小倉は前半で下がってしまったけれど、通用しなかったわけではない。ただ、ワールドカップの南ア戦での南ア、パトリックランビー(小さな10番)を、ジャパンが徹底して狙ってアタックしたのと同じことを、アイルランドがしてきた。小倉のサイズでは、巨大な相手が自分めがけてアタックしてきたときは、斜め後ろに力をそらすようなタックルをせざるをえない。完全なタックルミスでぬかれたのは2回くらいだと思う。ほとんどは絡みつくようにタックルし続けた。ものすごい回数タックルしていたのだが、それでも「小倉のところを狙えば、一人では止まらないので他の選手がフォローに入る」ところで人数のズレが起きる。小倉個人としても、小倉を使う場合のチーム全体の課題としても、明らかになった。でも、小倉順平は、課題が出たら、それをものすごい努力で、常に乗り越えて、成長することができる選手なので、今日の経験は、絶対小倉を成長させると思う。

友人Sさんへの返答。共謀罪法案に関する大騒ぎによりセットされた時限爆弾について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

この前、共謀罪法案成立の朝に書いたブログに対して、大学以来の友人Sさんからこういう質問を受けた。
「でもどうしてこの法(やその他のひどいやつ)をこんなに急いでつくっているんだろう。経済にも支持率にも寄与しないし、加計などからの保身のためではないと思う。思想信念?無敵感?焦り?心情がわからない。きもちがわるい。何かもっと見逃しているものがある気がする。」

これに、大きく3つの視点で、私の考える理由を述べたいと思います。
視点1 安倍政権は日本をシンガポールのような国にしたいと考えている。と仮定する。
視点2 日本に残された「成長戦略」は、軍事産業の輸出産業化しかない。と安倍政権は考えている、と仮定する。
視点3 視点1,2を、国民に納得させる重要なきっかけとして「いつか必ず起きるテロ」を利用しようとしている。と仮定する。

この道筋で考えると、ここ数年の安倍政権の制定した「日本版NSCとその補佐機関NSS国家安全保障局の創設」「防衛装備品移転三原則と防衛装備庁創設」「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪をテロ等準備罪と名付けて法制化したこと」の意味が、一本の筋として見えてくる。

視点1 安倍首相の作りたい国家像を「シンガポールのような」と仮定してみる。シンガポールというと、観光地だし最近はアジアで一番の経済の中心、くらいのイメージしかない人が多いと思うが、政治体制を見るとびっくりする。その特徴は・・・
① いちおう選挙はあるのだが、実際は一党長期政権、実質、独裁世襲政権である。(初代首相建国の父の長男が現在の首相。)
② 「いちおう選挙はあるのに一党独裁」が可能なのは、厳しい言論メディア統制があるから。
③ そこらじゅうにある監視カメラ、AIまで活用した国民の行動と、携帯の通話と位置情報の分析など、国民生活の厳しい監視により、良好な治安を保っている。(明るい北朝鮮、と言われている。)。
④ 低い法人税、企業や外国企業の投資しやすい法制など、企業活動、経済最優先の、仕組みになっている。
⑤ 大学のレベルの高い学問研究水準は、産官学共同プロジェクトによる潤沢な資金が支えている。
⑥ 徴兵制のある軍事国家である。非常時は国民総動員体制になる仕組みが確立しており、国家予算の2割以上の軍事費を支出している。

視点2 日本の成長戦略で、残された可能性は「軍需産業の輸出産業化」だけである。
そもそもはもうひとつの柱として、インフラ輸出 原発、新幹線を掲げていたが、新幹線など交通インフラ輸出は諸外国との競争で必ずしも順調ではない。原発は福島原発事故による諸外国の原発政策の変化と、東芝の破たんで前途は不透明。そんな中で、安倍政権および財界は、軍事産業の輸出産業化を着々と進めている。
防衛装備移転三原則の閣議決定で、実質武器輸出を解禁し、その窓口として防衛装備庁を発足。世界的武器展示会でのセールス、イスラエルとの無人攻撃機共同開発やオーストラリアへの潜水艦輸出交渉、フランスやイタリアと、防衛装備品移転に関する協定を結ぶなど、大きなニュースにはならない中で、その流れは急拡大している。軍事技術化可能な研究を、大学と共同で進めるプロジェクトも進行している。
しかしながら、オーストラリアは結局、日本の潜水艦は採用せず、大学も、軍事転用可能な研究をするかどうかについては、反対の声を上げる学者も少なくない。憲法9条改憲への抵抗が強いのと同様、大学での軍事技術研究開発や、軍事技術、兵器の輸出産業化は(実質的には進行していても)おおっぴらに行おうとすると、国民意識の抵抗は大きい。武器、軍事技術の国際競争力を高めるためにも、本当は自衛隊の戦争参加による実力証明。自衛隊の練度の高さだけでなく、日本製技術、兵器の優秀さを実戦で証明することで、軍事技術輸出産業化を加速したいという思いは、政府と財界に存在するのでは。
とはいえ、自衛隊の実戦闘への参加、という事態を国民が許容するのは、おそらく日本国周辺におけるける以下の事態の場合のみ。
① 尖閣への中国軍(もしくは漁民を装った勢力)の上陸など、東シナ海から太平洋にかけての離島における武力衝突の勃発
② 北朝鮮情勢急変による自暴自棄化した北朝鮮の軍事行動。
中東、アフガンでの米軍との共同作戦や、北アフリカ、アフガニスタンなどでの国連PKO活動における自衛隊武力行使は国民的反対世論ハードルが高い。

視点3 いつかテロは起きる。そのとき、政権はどのような世論操作を行うか。操作を行うまでもなく、国民はどう反応するか。
 アメリカのブッシュ政権が、911のテロを受けて、「テロとの戦争」を宣言し、まず、アフガン・タリバンを攻撃し、ついで、911とは全く無関係のイラクフセイン政権を倒したのはご存じの通り。石油利権を求めてのこと、とも、戦争ビジネス軍事企業の意向を受けてのこと、とも言われている。フセインが大量破壊兵器を保有している、というブッシュの嘘は後になって明らかになったが、911テロによる世論の興奮を利用すれば、こういう無理がまかり通る。ということを安倍首相とその周辺はしっかり学習していると思う。また、スノーデンにより告発された、NSAによる、網羅的な国民監視体制、ネット企業にも協力させた国民監視体制も、このテロへの対応として始まったのは承知の通り。このことも安倍政権は同然学習、参考にしていると思う。

 さて、ここからが本題なのだが、今回の共謀罪決定の大騒ぎを経て、しばらく後、なんらかのテロが起きて、国民に大きな犠牲が出たら、世論はどのように動くだろうか。あるいはラグビーワールドカップや東京五輪などの国際イベント期間にテロが起きて、日本人だけでなく、外国からのお客様にも犠牲が出たとしたら、国民世論はどのように動くだろうか。

 「だから共謀罪法案ではテロは防げないと言ったではないか」と、野党の主張を想いだし、自民党政権を責めるだろうか。
 それとも、「あの時、共謀罪に反対した野党は、どう責任を取るのだ。テロの危険性を軽視し、野党がその運用を慎重にするようにうるさいことを言ったために、せっかく作った法律が十分に活用されず、こんな悲惨なテロが起きてしまったではないか」と野党を責めるだろうか。
 私は、後者の意見が大勢を支配すると思う。
 今国会での野党の反対の論理というのは「共謀罪法はテロ対策には効果が低い。現代のテロは共謀罪法案とは違う行動原理の単独者が行う場合が多くあり(ソフトターゲットを狙ったローンウルフ型)、全ては防ぎきれない。それに対し、以下のデメリットが大きすぎる。=国民の監視、反体制勢力抑圧に乱用される危険性が高い。そうした可能性のある法律があるだけで、すぐにそのように運用されなくても、政治活動、自由な言論活動が抑制されてしまう。」
つまり、テロが起きてしまった場合、「共謀罪法案があってもテロは防げない」という、野党の主張が論理的には正しいことが証明されたはず。なのであるが。
 しかし、国会論戦を通じて関心の低い国民が受け取った印象は「野党はテロのリスクは低い」と主張している印象。この法案を推し進めている与党はテロのリスクと本気で向き合おうとしている印象である。(21日の『ワイドナショー』(フジテレビ)でもこの問題が取り上げられたが、松本人志がなんと、「いいんじゃないかな」と共謀罪賛成の姿勢を示したのだ。しかも、テロ防止のために「冤罪もしょうがない」とまで言い切ったのである。)ニュースサイト{LITERA」http://lite-ra.com/2017/05/post-3176.html
この松本発言の感じ方が、与党支持、漠然と低関心な国民が受け取った印象だと思う。
 とすると、いったん、大規模テロが起きた時には、「やはりテロのリスクと本気で向き合おうとした安倍政権、与党は正しかった」「テロのリスクを軽視して、反対のための反対をした野党はけしからん」という世論が形成されると、僕は、予想する。おそらく、そうなると思う。
 こうなると、「非常事態宣言」などの強硬措置に出なくても、マスコミもその世論に乗って、「実質一党独裁が永続する日本」への大勢翼賛体制がさらに一気に加速する。様々な監視システムの運用が国民的にも容認される。(というより、待望、要請するされるのではないか。)
 そのテロが、イスラム過激派のものであれば、中東や北アフリカへの自衛隊の派遣、参戦を受容しやすい国民世論が加速するだろうし、北朝鮮工作員によるものであれば、北朝鮮への敵基地先制攻撃容認論(アメリカと協働しての、北朝鮮現政権打倒を支持する声)も容認されやすくなるかもしれない。

 共謀罪法案を通じて形成された「自民党はテロ対策に本気。野党はテロリスクを軽視し過ぎ」印象は時限爆弾のようにセットされた。テロが起きると、この時限爆弾がさく裂。それにより、「日本のシンガポール化」「自民政権の永続世襲独裁政権下」「自衛隊・実戦闘参戦ハードルの低下」「軍事産業の輸出産業化」という、安倍政権の目指すことが、一気に連鎖的に加速して実現する。
 こういうシナリオを書いている人が、安倍政権の後ろにいるのではないかと、僕は想像しています。

共謀罪法案が可決してしまいそうな朝に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

政権支持構造図.png

 共謀罪法案が参院を非常にイレギュラーな形で通過可決、成立しようとしている今(6/15 午前4時過ぎ)、どのテレビチャンネルも国会の中継はしていない。早朝朝四時のフジテレビのニュース、トップニュースはロンドンの火事。次にお笑いタレントの交通事故ニュース。そのあと、やっと「テロ等準備罪法案まもなく可決成立へ」だ。なんていう国だろう。
 しかし、成立した悪法は、政権を交代しさえすれば、改正も、廃案も可能なのだ。そもそもこんな悪法を、こんな不正な手続きで成立させてしまうことになったのも、ここ三回の国政選挙で、現政権与党に2/3もの議席を与えてしまった国民のせいだ。
 この政権がどうして支持され続けるのか、反対する勢力がなぜマジョリティにならないのかを、構造図にしてみた。この政権の特徴は「頭が悪い、お勉強ができない」人(国民の多数派)の、お勉強ができる人(官僚やメディア)へのルサンチマンを共感の基盤にしていることだ。本来なら、「お勉強ができるできない」軸の対立よりも、「生まれながらにお金持ちの苦労知らず」と「働いても働いても暮らしが楽にならない」の対立の方が切実なはずなのに。「貧乏で頭の悪い人=マジョリティ」が、「お金持ちで頭の悪い」権力者を、「頭が悪い」共感(頭がいいやつらへの反感)をベースとして、支えている、というのが、現政権の本質だ。首相や副首相が漢字を読めないことを笑っても、失言閣僚の頭の悪い言動を批判しても、「頭が悪いもの同士の共感、頭いいやつへの反感」が政権支持感情の基盤にあるのだから、政権には全くダメージにならないのだ。頭の良いリベラル派が頭の悪い政権幹部の振る舞いをバカにすればするほど、頭が悪いマジョリティの感情的反発を招くので、けして多数派を取ることができないというからくりだ。
 この政権の積極的支持層中心は「情弱年金老人」だ。彼らは、金持ち層を敵だとは考えない。むしろ、福祉予算を子育て世代に回せ、という主張をする現役世代を敵だと考える。弱いものが弱いものを叩く愚かさに気が付かない。NHKと読売新聞の言うことをまるまんま信じるので、夜7時のNHKニュースと夜9時のニュース9と読売新聞さえ情報コントロールすれば、この層はいつまでたっても従順に政権を支持し続ける。
 次に、消極的に、無関心であることで政権を支えているのが、勉強できないまま大人になった若い世代だ。地元の仲間と地元のイオンと居酒屋とカラオケと、車があれば、特に不満は無い。政治には無関心で選挙にもいかない。選挙に行かないことで現政権を支えている。勉強ができて地元を捨てて都会の大学に進学し、都会で就職したやつらのことは、いけすかないやつらと感じている。彼らが国政や国際政治の問題を知ることも考えることも、まずない。
 左下象限に位置する、この「マジョリティ」が動かない限り、選挙結果が大きく変わることは無い。
 ネット世論は、意識の高い「右下」象限含有率が高いから、政権支持率はそもそも低いし、森友→加計問題と、共謀罪審議のプロセスを通じてさらに支持率は低下している。が、いざまた国政選挙となると、左下の「頭悪い貧乏」象限の、まさに頭が悪いが故の政権支持態度(情緒的なものであり、かつ頭いいへの反発をベースにしているから、変化しない)により、政権は維持されてしまうのだ。
 だから、多くが右下象限に属すると思われる私の友人の皆さんは、その内輪でだけ意見を交換していても、何も変わらないことを、よりはっきり自覚しなければ変化は起こせない。左下象限にいる家族友人知人と会話をして、投票所につれていく、投票先を変えさせる努力をしなければ。悪法の成立を嘆いても、この情けない現実は変わらない。変えるには、身近な、左下象限の誰かの投票態度を変えさせるしかないのだから。
 

『ゲンロン0 観光客の哲学』読んだ。これはちょっとすごい。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『ゲンロン0 観光客の哲学』 単行本 – 2017/4/8
東 浩紀 (著)
Amazon 内容紹介
「否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――。
ナショナリズムが猛威を振るい、グローバリズムが世界を覆う時代、新しい政治思想の足がかりはどこにあるのか。
ルソー、ローティ、ネグリ、ドストエフスキー、ネットワーク理論を自在に横断し、ヘーゲルのパラダイムを乗り越える。
著者20年の集大成、東思想の新展開を告げる渾身の書き下ろし新著。」
 ここから僕の感想。いやー、これはすごい。①東氏のこれまでの仕事・著作とのつながりを解説しながら、②近現代思想史・総おさらいをしてくれながら、③現在と未来を考える、まったく新しい視点を提案してくれる本です。特に②の近現代思想のおさらいのわかりやすさが凄まじい。これまで30年間くらい、なんだかよくわからなかいままごまかしてきた、哲学思想まわりのもやもやがすっきり晴れる。(ルソーはもちろん一般意志2.0の流れで触れるとして、)カント、ヘーゲルからカールシュミット、ハンナアーレントという西欧19~20世紀前半の政治哲学の流れから、ノージック、ローティ、ロールズあたりの「リバタリアンとコミュニタリアン」という米国系最新思想の流れから、ドゥルーズからネグリハートという小難しい系現代思想まで、おそらく、基礎知識なしでもすらすらわかるくらい明晰に平明に解説してくれます。
 私の長男は東氏が早稲田の文化構想学部の先生だったときに教えを受け、その後、ゲンロンの「批評再生塾」というところで半年ほど修行をしたのですが、長男と議論をして、ちょっとやりこめるたびに「でも東先生の方が父ちゃんより頭がいい」という超あたりまえの謎の反撃をしてくるのですが、そりゃそうだ。浅田彰氏や柄谷行人氏がびっくりして認めてかわいがったのも納得。すさまじい頭の良さ。初めの頃の思想関係の論文や本は読んでいなかったので、(小説と、最近の数冊しか読んでいなかった)、ここまでとは。「アタマがいい人は、難しいことを、誰にでもわかるように説明できる」とは、東氏のことを言うのだな。ヘーゲルってこんなこと言っていたんだ。ヘーゲルについて、なんか、はじめて腑に落ちた。カールシュミットについても、ずっとすごく気になって、読み散らかしてみたものの、いまひとつ分からなかったことが、すごくクリアに解説されています。
 第一部が「観光客の哲学」。この前、読んだ、水野和夫氏の「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』と同じ、グローバリズムとナショナリズム(リバタリアニズムとコミュニタリズム)に覆い尽くされる、帝国とテロの時代に対する解決の糸口として、「観光客」「誤配」というキーワードで考察を重ねます。端的に言うと、現代の政治・哲学は「他者」をどう扱うか、どう考えるかということなのだが、その他者を「移民」とか「難民」としてではなく、「観光客」としての視線、体験をもって考える、という、なんというか、非常に面白いアプローチです。
 第二部は「家族の哲学(序章)」。私が東氏にすごく親近感を覚えたのが、震災・原発事故直後、氏も私も、家族を連れて(氏は静岡まで、私は京都まで)、東京を離れたのですが、(そのことで批判もされたのですが)、このことと、この章で書かれていることは、表面的なこととしてではなく、関係あると思う。ここでのドストエフスキー論も、ものすごく面白いです。
それから、偶然なのですが、この本を読む直前に西加奈子さんの『アイ』を読んだのですが、この小説と、東氏のこの哲学書、ほとんどまるまんま、相似形のように同じテーマに、同じ側から向き合っていると思う。併せて読むこ、とお勧めです。
 なんというか、私の読書友達は、みんな同年代のおじさんばかりなわけですが、もちろん、おじさん読書友達にも、本当におすすめなのですが。こういう本は、東氏と同年代や、それより若い人たちにこそ読んで欲しい。
 
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ゲンロン0 観光客の哲学
ゲンロン0 観光客の哲学
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共謀罪が衆院を通過してしまう日に思うことあれこれ。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 今日は共謀罪が衆議院を通過しそうで、今、国会中継をネットで観ながらこれを書いています。ひとつのまとまった意見は、ありません。思うことを、バラバラと書いておきます。今日の日の記録として。
 海外のニュースでは、マンチェスターで人気歌手アリアナ・グランデのコンサートで終了直後に自爆テロ?らしき爆発があり、今現在の情報では22人が死亡、負傷者が多数出ています。BBCとCNNを交互にチャンネルを変えながら見ています。
 国会での与党側の意見では、もれなくこのマンチェスターテロへの言及があり、法案正当化にたまたま起きた外国の不幸はすかさず利用されるわけです。

 共謀罪は、まったくテロ防止のためではない、テロ防止ではなく、警察の恣意的取締りを行い検挙実績を上げるためではないか。政権が反政府活動を抑圧するためという目的もあるが、それ以上に大きな隠された目的、弊害は、警察組織が恣意的に人権抑圧を行う可能性が高い。そのことが内心の自由、表現の自由の抑圧につながる可能性が高い。という問題点があるわけです。この立場からの意見分析は、京都大学大学院の高山教授のコラムに詳しいので見てください。リンクは以下
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51376

 とはいえ、「国民の監視によるテロの防止」ということを大真面目に考えている人もいるではないかなあ、ということも、私は思うのです。アメリカが911テロの後にNSAを使って、国民監視を驚くべき規模で行うようになったこと(prism計画)がスノーデンの告発で明らかになっています。(大手ウェブサービス9社Google、Yahoo!、Facebook、Apple、AOL、Skype、YouTube、PalTalkが協力させられて、メールの内容がチェックできる体制にしてしまいました。その網羅的規模は、ちょっと想像を絶するものだったわけです。)

 この件に関連して、以前にブログでスピルバーグの「マイノリティ・リポート」に触れたことがあります。殺人のような重大事件を、発生の前に阻止できないか、というのは、これは普通の感覚の人にとっては「まあ、そうなったらいいよなあ」と思うわけです。あの映画では、「プリコグ」という未来予知超能力者三人が犯罪を予知し、発生前に犯人を逮捕する、という未来社会になっているわけでず。
現実社会において、超能力者はいないので、様々な手法による国民生活全体の徹底的監視によって、予防したい、という考え方は、警察および、権力側にはたしかにあると思います。犯罪抑止にビッグデータ分析が活用されるようになっており、その方向にアメリカは進んでいるのです。さらに極端にこの方向に進んでいるのがシンガポールです。
 安倍政権が理想とするのは、この件に限らず、シンガポールの故リー・クアンユー(今の首相の父親)の作った国家像ではないかと思います。形だけは民主制だが、実態は独裁政治。一党独裁の長期安定政権。徹底した監視社会(いたるところ監視カメラだらけ)実現による犯罪の抑圧防止。
一方で大企業・グローバル企業と、それを支える富裕層・エリート階層の優遇。実学系理系学問の優遇による産学協同体制の推進。国民所得はアジアでトップ、大学の世界ランクも常に世界でも上位、アジアトップ。グローバル企業と利害が一致する人にとっては天国のような国。一方で権力側、経済エリートらなりそこねた人にとっては、シンガポールはとても息苦しい国であるのです。経済指標ではアジアトップのシンガポールですが、「報道の自由度ランキング」では180か国中153位、米調査会社ギャラップが12年に発表した日常生活の「幸福度」調査では、シンガポールは148カ国中最下位。

 警察が「本当にテロを予防したくて」真面目に、なのか、「検挙件数実績を上げたくて」なのか、「政権の手先となり反政府活動を抑圧するため」なのかはわかりませんが、今回の法案を恣意的に拡大解釈運用していく恐怖、というのは残念ながらスタートしてしまいました。
 私はときどき国会前のデモをしているところに出かけるのですが、(デモに参加する、というよりも、やっているあたりをウロウロ歩き回って帰ってくる、という意味不明な動きをするのですが。)、こういうことにも、共謀罪が成立すると、「こんなところをウロウロするだけで、一般市民ではない、テロを企てている組織の一員として警察のデータベースに登録されてしまうのではないか」という恐怖が生じます。内心の自由への侵害と言うのが、確かに起きるのです。

 このことに関連して、さらに話はとびますが、思い出すこと。ものすごく昔のことで1995年の春先。1月に阪神大震災が起きて、3月に地下鉄サリン事件が起きた、そのあとのこと。
とても心配性な私は、もし都内にいるときに大地震が起きたら、どうやって相模原まで帰ったらいいのかなあ。ということがとても不安になって、当時、電通は聖路加タワーにあったので、その近くの駐輪場を借りて自転車を置くようにした。その上で、携帯用防災グッズ
マニアになってしまい、アラミド線維軍手とか、防塵防炎マスクとか、スイスアーミー、いろいろついているナイフとか、そういうものをリュックにいれて持ち歩くようになっていた。そして自転車で都内仕事場を走り回るようになっていた。そんなある日、赤坂見附交番の前で、おまわりさんに停められて職務質問されたんだよね。
 私は世代的にオウムの幹部連と同年代。(上祐と、僕の中学同級生の上田君は、早稲田高等学院から早稲田のESSまで大親友だった。もちろん、僕自身は上祐とは何のつながりもない。)あきらかにオウム年齢の、あやしげインテリぽい、しかも坊主頭の、自転車でリュックに防毒マスクを入れたやつを職務質問!!。はじめはにこやかに話しかけてきていたのですが、リュックの中身を見て、おまわりさんの目つきが変わった。「こいつ、あやしい、あやしすぎる」。しばらくいろいろ聞かれたのだけど、「地震が怖いので防災グッズを持ち歩くようになっているだけです。広告屋です」と必死に弁解して、放免してもらったのだが、すごく動揺した。
 もし、今、ああいう事態になったら、SNNで「こいつは上祐の友達の友達である」ことがすぐ調べられてしまい、その上、フェイスブックでもブログでも、いつも政権に批判的なことを書いているなあ、ということもすぐわかってしまう。無事ではすまないのじゃないか。そんなことを考えると、本当に怖いなあ。とはいえ、書くのはやめないけどね。

『大人のためのメディア論講義』石田英敬著 を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

フェイスブックに書き込んだ内容に、少々追加しておきます。
『大人のためのメディア論講義』 (ちくま新書) 新書 – 2016/1/6
石田 英敬 (著)
 この本のAmazon内容紹介は出来が悪いので省略。著者紹介の方が内容の参考になります。『石田/英敬1953年千葉県に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授・同大学院情報学環教授(兼担)。情報学環長、附属図書館副館長を歴任。専攻、記号学・メディア論、言語態分析。特に19世紀以後のメディア・テクノロジーの発達と人間文明との関係を研究』
 ここから私の感想。80年代から記号論研究していた著者が、「終わった、流行遅れになったと思われている記号論」を、より大きな文明論的視座から意味づけし直し、現在の情報技術化社会の本質を読み解こうとした力作です。ニコ生ゲンロンカフフェ生中継で東浩紀と対談をしていたのがものすごく面白く、物書き修行中の長男から薦められて読んだところ、これは本当に面白かった。いや、面白かったではすまないです。突き刺さった。心に。
 フロイトの「『不思議のメモ帖』についての覚書」という文章から、ipadなど最新情報機器と人の脳、心、メディアの関係を論ずるというスリリングな導入部分。バロック時代のライプニッツに記号論の起源を求めての大きな視座での文明論メディア論。そして、現代に入ってのメディアの発達と記号論の盛衰の理由をよみといていく中で、80年代記号論の衰退と、ソニーなど日本の電子機器産業の衰退までがリンクして分析されていく中盤。マーケティング、広告PRなどが、人の脳の時間を取り合う「文化産業」としてどう成立し、デジタル化する中でどんな変化が生じているかを論じた「現代資本主義と文化産業」の章は、私の職業の成立基盤と本質的意味づけを容赦なくえぐりだし、おぼろげに考えていたことがはっきりと、残酷なまでに突きつけられます。それは、私が最近考え続けている課題と直接つながる次の章『「注意力の経済」と「精神のエコロジー」』で、さらに切実な問いへとつながります。(人は、処理できる情報量、時間に限りがある。デジタル化時代はその限界を超えている。政治的にポピュリズムが拡大するのも、そのことと関係があるのではないか、という私の問題意識と直につながります。)その中で紹介されている、著者の大学研究室で開発した批評プラットフォーム『テレビ分析の〈知恵の樹〉Critical PLATEAU』は、驚きのシステムです。電通はこのシステムについて、何か関係しているのでしょうか。していないなら、是非ともアプローチして勉強した方がよさそうですね。
 職業として広告業界のマーケティング屋を30年以上続けてきて、仕事としては一生懸命やってきたけれど、果たしてそれにはどういう意味があったのだろう。それは本当に、意味、価値のある仕事だったのか。世の中に何かを残す仕事なのか。何も残さなかったのではないか。ここ数年、自問自答しつづけてきました。おぼろげに、こういうことかなあ、と掴みかけていたことを、意識化、言語化できそうだ、という手がかりになる一冊でした。
 80年代に記号論や消費社会論をかじり、広告業界あたりに就職し、デジタル革命からは少し疎外されているように感じている、というような同年代の皆さんには、特におすすめ。

 ここからブログ版追記。著者についてネット上で検索すると、学生運動自体に新左翼セクトのシンパであったという情報がでてきます。私のブログでいちばん初めに触れたとおり、私の母の弟二人は当時新左翼全学連の委員長副委員長をしていました。石田氏は、まさにそのセクトの活動家またはシンパだったそうです。年長叔父の方はセクトを抜けて名前も変えて地方国立大学で医者になる勉強をし直していたところ、反対セクトに発見されてしまったのでしょう、内ゲバて死亡しました。1978年のことだったと思います。下の方はもっと早い時期、たしか1973年に、内ゲバに合って、頭を割られましたが、悪運強く生き残り、失踪して、生きて入ればまだ活動家をしているのでしょう。立花隆氏の新左翼についての著作の中に、兄弟そろって実名で登場します。叔父たちとはほとんどあったことも話したこともないのですが、小学校五年六年と、札幌の母実家(つまり叔父たちの生家)の近くに二年間だけ暮らした折、持ち主は不在の彼らの部屋に潜り込んでは、伝説的漫画誌ガロの膨大なバックナンバー(白戸三平のカムイ伝や、つげ義春の「ねじ式」など名作や、林静一など)を読みふけったり、ギター弾きだった年長叔父の井上陽水ソングブックなどを拝借したり、大江健三郎の小説などをかじってみたり、という形で、私の精神思想形成に(中味、というより気分的なものですが、)影響を与えた叔父たちでした。彼らは死んだり、地下に潜伏したきりになったりして、話す機会も全くないままですが、同世代の活動家やシンパたちの中には、石田氏のように大学で研究者になったり、あるいは電通のような普通に体制側の企業に就職したりして、今となっては、この社会の一部になった人も多いのだろうなあ。そんなことを考えました。そんな経歴の石田氏が、私の関心や職業に極めて近いところで、私の悩みや迷いにヒントを与えてくれる本を出してくれた。なんとなく、亡くなった叔父と話ができたような、そんな気分に、ちょっとなった。そういう意味でも、とても印象に残る本でした。

生きてることが辛いなら。電通過労死によせて。 [文学中年的、考えすぎ的、]

今回の電通の事件、亡くなられた方のことは直接は知らないのだけれど、思った以上にひどくショックで、ずっと考えている。それは今も電通と仕事を続けていて、若い電通社員に厳しいことを言うことも多くて、(電通の管理職の皆さんはパワハラについて厳しく会社から言われているから、若手社員にすごく気をつかっていて、厳しい指導もできなくなっている。その分、私のような、OBで社外のフリーランスの人間が、若手に厳しいことを言う役回りになったりしている。)セクハラおやじではないつもりだけれど、面倒くさいパワハラオヤジだとは思われている自覚はある。その一方で、電通を辞めた時の、28年前の自分、25歳のときの自分は、電通の過酷な働き方に耐えられなくて辞めたわけだし。(いろいろな実績を残してから、優秀だから独立した多くの同期の人たちとは全く違って、僕は何の実績もなくて、単につらい仕事から逃げ出すためだけに、電通を辞めた。)「辞めます」と上司に伝えてから、本当に退職するまで3か月かかって、(その上司には、何の実績も実力もないお前が辞めても、仕事なんてないぞ、と言われた。)その間、仕事もないまま、ぽつんと机に座っていた。周囲の人の視線が「電通人としては自殺した人」なのに「幽霊のように職場をうろついている人」として僕のことを見ているなあ。そう感じながら過ごした3か月、不思議な感覚だった。辞めると言い出すまでは、朝、起きられず、独身寮で皆が出勤する足音を聞きながら、どうしても部屋から出られなかったり、首と肩が痛くて左手の握力がほとんどなくなったり、毎日じんましんが出たりしていのだけれど。辞めると言ってしまってからは、なんだかフワフワと楽ちんな気持ちになった。
本当に疲れてつらくなると、「今日は休みますと会社に連絡する」とか「病院に行く」勇気も気力もなくなるものだけれど。「死ぬ」よりは「会社やめる」方がいいよ。と若い人には伝えたい。
この森山直太朗の歌「生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい」という歌詞が、発表当時、自殺の薦めか、といって大批判を喰ったのだけれど、「小さく死ぬ」というのは、社会的に死ぬこととしての「会社辞める」とか、いじめならば「転校しちゃう」とかいうことだと僕は思っている。歌の歌詞を最後まで聞けば、そういうことだと思う。本当に死んじゃわないで、小さく死ぬ。せっかく入った電通をすぐ辞めちゃうって言えば、親も恋人も悲しむかもしれないけれど、3日もすれば元通り。そうやってとにかく生き続けていれば、その先楽しいことも絶対あるよ。
先にシェアしたいろいろな投稿でも、電通の、というか広告代理店の仕事の仕方はそう簡単には変わらないと思うから、(クライアントがいて、締切があって、正解が無くて、勝ち負けがあれば、期限ぎりぎりまで時間の限り頑張るしかない。)。電通を「ブラック企業だ」と批判しても、すぐには働き方は変わらないと思うから。合わないときは、本当に死んじゃだめだよ。「本当に死ぬ」んじゃなくて「小さく死ぬ」のがいいと思います。

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。 [文学中年的、考えすぎ的、]

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。
池内恵 『イスラーム国の衝撃』文春新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4166610139
内藤正典 『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 集英社新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207706
全く違う、正反対の立場の専門家の本だからこそ、合わせて読んで、考えたい。
メリットその①正反対の立場の人でも同じように言うことは、きっと正しいし、大切なことなのだろうとわかる。事実認識として押さえておかなければいけないところがわかる。
メリットその②ふたりの意見が激しく違うところ、対立するところも、すごく大切。それは、この問題に「どう向き合うか」についてのいちばん大切なところ。自分の態度を決めるときに大切。


一冊目は、東大准教授・イスラム政治思想史が専門、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』文春新書 2015/1/20刊。
父も叔父も東大教授(それぞれドイツ文学と天文学)という学者一家に育ったためか、コンプレックスが強く屈折した人のようです。今回の事件で無礼で強引なマスコミ取材が殺到したためにぶち切れしたコメントをブログに書いて、安富歩さんに「典型的東大話法」と批判されたりしていました。その後、テレビに何本か出演した結果(早口で話し出すと止まらない頭の回転の速そうな人でした)、フェイスブックのフォロワーも激増中。フォロワーさんにすごく褒められるので、最近、屈折具合が解消してきて、素直でかわいらしい感じの人格に変貌中。と、キャラとしても今すごく注目しているのですが、思想研究の傾向としては、イスラムの暴力性や反近代性にはかなり厳しく批判的。イスラムに擁護的な(彼らには彼らなりの合理性がある的な)日本のイスラム周辺学会学者に批判的。反米思想や近代批判の憑代にイスラムを使う日本の思想家評論家たち(きっと内田樹さんあたりを想定しているのではないかと思うのですが)に批判的、という立場です。よって今回の事件でも、米国寄りの立場をとった安倍さんの行動にいちばん擁護的な発言をしているイスラム専門家の一人です。という政治的立場はあるとして、知識の正確さ、分析視点の幅広さは流石、東大准教授、という感じです。TVや新聞ではわからないことがたくさん書かれています。
いくつかびっくりした点を挙げると
◆ザルカーウィー(イスラーム国の前身組織を立ち上げたヨルダン人で2006年に米国の空爆で死亡)の立案していた「行動計画」。2000年から2020年にかけて七つの段階を抗争していたという。
(一)目覚め(2000年-2003年)
(二)開眼(2003年~2006年)
(三)立ち上がり(2007年-2010年)
(四)復活と権力奪取と変革(2010年~2013年)
(五)国家の宣言(2013年-2016年)
(六)全面対決(2016年~2020年)
(七)最終勝利(2020年)

ここまでのところ、なんだか計画通りに来ています。
2001年の911テロによる「目覚め」から、それによる世界のジハーディストの「開眼」「立ち上がり」そして2010年から始まったアラブの春による「復活と権力奪取と変革」そして2013年の「カリフ制国家の宣言」と、なんとなくここまで計画通りな感じがこわい。
 もうひとつ、「終末論的シンボル」についての分析。
イスラム国の広報雑誌に「ダービク」というのがあるんだそうで、その「ダービク」というのはシリア北部にある人口3000ばかりのの村なのだが、しかしこの町の名前はイスラムの教義の書に「終末の時の前に生じる最終戦争の始まる場として記されているのだ」だそうだ。細かいことは本を読んでほしいのだけれど、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様、死んだらすぐ天国地獄に行くわけではなく、死人はみんな最終戦争後によみがえって神の審判を受け、そこで初めて天国と地獄に行く、という「最終戦争⇒最後の審判」という世界観を持っているらしい。日本人の知っている言葉で言えば、ハルマゲドン的最終戦争観。イスラム国は終末論と、その前兆としての最終戦争を起こしている、というイメージを利用することで人を集めているというのだね。ちょっとながくなるけれど引用してしまおう。
「『ダービク』の紙面では、終末的な悲観論と楽観的な行動主義を両立させる巧みなストーリー展開がなされる。(中略) イラクでの反米武装闘争の発端の時点で、終末的な最終戦争は始まっており、運命づけられていた通りに、ダービクをめぐる善と悪の闘争が出現している、と説くことで、『イスラーム国』は、自らの勢力拡大そのものが神兆の一部であると論じている。そして、カリフ位への就任を宣言したバクダーディーの演説から、「世界が善と悪の二つの陣営に分かれた」という一節を掲げ、終末論的な善悪の闘争における善の勢力という意味付けを「イスラーム国」に与える。そして「ヒジュラの呼びかけ」「すべてのムスリムへの呼びかけーー医師、技術者、学者、専門家よ」といったバグダディーの発言の抜粋で、終末的な闘争において、世界のイスラーム教徒は「イスラーム国に移住(ヒジュラ)してこなければならない」と説く。』
日本人は、これを読むとオウム真理教を思い浮かべてしまうのではないかと思う。私はオウムの主要メンバーと全く同世代(中学時代の同級生は、高校で早稲田高等学院に進んで、そこから早稲田のESSまで上祐と同級生で親友だったと言っている)なので、この感じが実はすごくわかってしまう。僕らはノストラダムスの大予言で1999年にハルマゲドンが起きると思って子供の時から育ってきた。そして宇宙戦艦ヤマトから北斗の拳から未来少年コナンから風の谷のナウシカまで、最終戦争が起きて、ごく少数だけが生き残るという世界観にどっぷりはまって青春時代を過ごした。学歴だけ見ればエリートになりそうな人たちがなぜオウムに入るか、と言われれば、それはどうせ最終戦争が起きて地球が滅びるならば、弱者被害者として死んでしまうよりは、自らその最終戦争を起こす側になって、主体的に「主役になって」終末の時を生きたい、と思ってしまうからだ。単なるならず者や虐げられた人(イスラームであるがゆえに虐げられた人や、貧困ゆえに反社会的になった人たち)だけがイスラーム国に吸い寄せられているとしたら、あの洗練された高度な映像を制作可能な欧米人材がなぜイスラム国に参加するのかわからない。
という終末論最終戦争世界観とジハーディズムが結びついた運動としてイスラーム国を捉える、という視点は、なぜかテレビでも新聞でもほとんど語られないけれど、これは実はすごくおそろしい。最初に書いたザルカーウィーの計画の2020年「最終勝利」というのが、現実世界での真の「最終勝利」でなくても、「最終戦争に世界を持ち込んで、世界が破滅するような状態」になったとしても、つまり「終末の前兆としての最終戦争」を引き起こしてしまえば勝利だ、と考えているとすると、ほんとうに何をするかわからないではないか。

私の勝手な関心で終末論のところだけたくさん引用してしまったが、池内氏の分析は、まっとうな国際政治の歴史も、イスラーム文化や社会の背景もきちんと解説してくれている。こういう事実関係の整理は上手なので、もう一冊の内藤先生の本でいまひとつはっきりしなかったことがすっきりよくわかる。東大の人らしく、全部に目配りして、どれかひとつだけを悪者にすることを慎重に避けよう、という配慮が行き届いている。(というか、そのために「~が問題である」的指摘はいっぱいあるが、結局どうしたらいいかはよくわからない本でもある。)
もうすこし言うと、客観的だがイスラーム国だけでなく、イスラーム世界そのものへの視線が、基本「冷たい客観性」だ。日本を欧米と同じ側において、イスラーム世界をかなり警戒し、批判的に見ている。冷たい距離感の中で、どうつきあうべきかを考えている。

対照的なのが、、同志社大学教授 内藤正典氏の『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 (集英社新書) 新書 – 2015/1/16
この先生のイスラームへの視線は「温かい」。誤解なきように言うけれど、イスラーム国というテロリストに温かいのではなく、パレスチナ、ガザの人からトルコの人、西欧諸国に移民しているイスラームの人、日本人が理解できず、西欧の人が差別をしているイスラームの人への視線が温かい。親身であり、かつ、尊敬すべき存在としてとらえている。池内氏とはその点がまったく違う。そういうイスラームへの温かさをそもそも持っている人が、「イスラーム国」という残忍なテロも行い、奴隷制も復活させているこの集団をどう考えようか、どう向き合おうか、と苦しみながら書いている本がこの本。(本人も言っているけれど、ハサン中田先生とは違って、内藤先生はイスラム教徒ではないし、イスラム法学者でもない。イスラム地域研究が専門です。)
私がイスラム国についてのはじめに興味を抱いたのは、内藤教授と、元・同志社大学教授のハサン中田考氏のツイッターでのやりとりを見ていたとき。まだ北大生事件も起きる前のことで、おそらく内田樹氏をフォローしていたことから、内田氏のリツイートで私のタイムラインに表示されてきたのだと思う。その内田樹先生が帯にコメントを書いていて、私もまったくその通り、と思うので引用してしまいます。
「私自身は、日本人があまり知らないトルコのタフで粘り強い対米交渉についてとの記述から学ぶことが多かった。むアメリカの圧力をかわしつつイスラム国との全面的対を回避しようとするトルコの政治的ふるまいを、きわどい地政学的地位にある国が身に着けた外交的叡智として著者は評価している。その箇所を読みながら、著者は私たちに無言のうちに「トルコと日本を比較してみよ」と言っているのではないかという気がした。」

 今回の後藤さん救出を巡っても、つい先日、トルコが、自分たちは後藤氏の居場所を特定できていて、日本にも連絡していたが、ということを発表して話題になった。イスラーム国攻撃の先頭に立っているヨルダンではなく、空爆に参加せず、人質解放の実績もあるトルコを窓口に交渉すべきだったんじゃないかと批判をする人もずいぶん出た。ヨルダンもトルコもイスラム圏の中では親米的立場の国だが、アメリカとの付き合い方はずいぶん違う。、これまで多くの局面で、米国と軍事行動を国外でともにすることを拒絶してきた。今回の対イスラム国有志連合にも、名前は連ねていても、空爆には参加しない。王様が自ら空爆をするヨルダンとは全然違う。
内田樹先生もいうとおり、トルコは親米立場なのに、米国の言うことを聞かない。特に国外に軍を出すということに関しては、米国から要請があっても、自国民を危険にさらす可能性のあるときは、頑として拒否する。(自国民を守る必要がどうしてもあるときには出すことはあるが、米国の利害からの要請のときには拒否をする。)トルコは、イスラム国が近く、かつクルド人を国内に多数抱えて、あまりに利害が濃いからそうしているのだが、日本の場合は、あまりに遠いのだからこそ、そうすべきだろう。

 山本太郎議員だけが国会でのイスラーム国非難決議に賛成しなかったと言って、テロの味方か、というわけのわからない批判をする人がものすごくたくさん出た、というか、そういう批判しか出なかったけれど、読売産経など保守マスコミの「安倍さんを批判するやつ、有志連合欧米を批判するやつはテロリストの味方」という、ものすごく頭の悪い黒か白か論調があるけれど、「アメリカに追随する」という路線に反対するとして、選択肢はすごくたくさんあって、そのいちばんわかりやすい例として、トルコの、「アメリカ側にはいるけれど、アメリカの軍事行動要請は断る。自国民に利益にならない軍事行動はしない。イスラーム国とも交渉のチャンネルは確保しておく」という選択肢はあるのだよね。

 産経新聞が、ものすごく低劣な(頭悪い)論調になっているのに、なぜか同系列BSフジのプライムニュース2/6には、駐日トルコ大使と駐日パレスチナ大使をゲストに迎えて、(日本側のゲストが飯島勲内閣官房参与と佐藤正久参院議員、ひげの隊長さんというのはいかにも産経人脈だけど)、トルコの対応、パレスチナの意見というのをちゃんと聞いていて面白かった。番組最後にパレスチナ大使が日本に望むことは、と問われて「まず国として承認してほしい。そして、中東の地域を武器を売ってはならない地域にしてほしい」と言っていたぞ。トルコの大使は、このエリアへの欧米の干渉をやめてくれ、こエリアの人たちが自分で解決していく、その中で民主的プロセスが進むようにトルコは努力する、と言っていたぞ。安倍総理、耳かっぽじってよく聞け、と思ったよ。中東に行って武器ビジネスしようなんて絶対だめだよ。米国のおせっかいの尻馬に乗って自衛隊を派遣して、なんていうのもダメだぞ。

 話がすこし逸れたけれど、内藤先生の本で感動的なのは、後に国際的にDOSHISHA PROCESSと呼ばれた、同志社大学にアフガニスタンの政府側の大臣と、タリバンの幹部を呼んでの対話の会、和平会議を開いた話。世界中のどこでもそれまで一度も実現できなかったことを、内藤先生とハサン中田先生の尽力で実現したときのこと。アフガニスタンのスタネクザイ大臣はテロで目の前で盟友を殺され、自身も重傷を負い、この会の時も足をひきずっていたのに、そのテロを行ったタリバンの幹部と同席して、対話をした。もちろんそれですぐ和平が進展したわけではないけれど、その最初のきっかけを日本の大学が作ったのは事実。会議の場が同志社大学だったので、キリスト教の神学館チャペルだったのに、両者ともそのことはきにしなかった話や、その後全員で居酒屋で鍋を囲んだ話など、テロリストといっても人間なのだ、話し合うところからしか始まらないという姿勢が強く感じられるエピソードです。

 すごく長くなってしまったけれど、もし池内氏の見立て通り、終末論的世界観、最終戦争遂行としてイスラム国が今の戦争を進めているとしたら、それはオウム真理教と同じように、対話や交渉では解決できない可能性が高いと私は思います。世界を破滅の縁まで自らの手で持っていくこと自体を目標としていたら、対話では止められない。
 でも、そうではなく、あくまで英仏の植民地支配に始まる歴史的政治的混乱や西欧諸国でのイスラム移民差別、米国の軍事的干渉、米国の中東政策の失敗が原因でイスラム国が生まれたのであれば、それを反省し、テロが拡大する社会環境政治環境を地道に改善していくようにすべきだろう。
 今日もヨルダンが空爆して、イスラム国の拠点に大打撃を与えた、とか、イラクが近々地上作戦を展開予定、といったニュースが流れている。池内氏立場に立てば、そうするしかない、ということになるし、内藤先生の立場に立てば、そのことで犠牲者が増え、女性と子供の死者が出て、それが男性をジハードに向かわせるという悪循環を助長しているだけだ、ということになる。

 私が触れることができたのは、どちらの本についても本当に断片にすぎない。この二冊をしっかり読めば、この問題についてのかなり広範な視点が獲得できる。その上で、それから考えても遅くない。というか、その程度の知識を得ないうちに、判断してはいけないと思いました。読んでみて。
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