So-net無料ブログ作成
検索選択
文学中年的、考えすぎ的、 ブログトップ
前の10件 | -

『大人のためのメディア論講義』石田英敬著 を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

フェイスブックに書き込んだ内容に、少々追加しておきます。
『大人のためのメディア論講義』 (ちくま新書) 新書 – 2016/1/6
石田 英敬 (著)
 この本のAmazon内容紹介は出来が悪いので省略。著者紹介の方が内容の参考になります。『石田/英敬1953年千葉県に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授・同大学院情報学環教授(兼担)。情報学環長、附属図書館副館長を歴任。専攻、記号学・メディア論、言語態分析。特に19世紀以後のメディア・テクノロジーの発達と人間文明との関係を研究』
 ここから私の感想。80年代から記号論研究していた著者が、「終わった、流行遅れになったと思われている記号論」を、より大きな文明論的視座から意味づけし直し、現在の情報技術化社会の本質を読み解こうとした力作です。ニコ生ゲンロンカフフェ生中継で東浩紀と対談をしていたのがものすごく面白く、物書き修行中の長男から薦められて読んだところ、これは本当に面白かった。いや、面白かったではすまないです。突き刺さった。心に。
 フロイトの「『不思議のメモ帖』についての覚書」という文章から、ipadなど最新情報機器と人の脳、心、メディアの関係を論ずるというスリリングな導入部分。バロック時代のライプニッツに記号論の起源を求めての大きな視座での文明論メディア論。そして、現代に入ってのメディアの発達と記号論の盛衰の理由をよみといていく中で、80年代記号論の衰退と、ソニーなど日本の電子機器産業の衰退までがリンクして分析されていく中盤。マーケティング、広告PRなどが、人の脳の時間を取り合う「文化産業」としてどう成立し、デジタル化する中でどんな変化が生じているかを論じた「現代資本主義と文化産業」の章は、私の職業の成立基盤と本質的意味づけを容赦なくえぐりだし、おぼろげに考えていたことがはっきりと、残酷なまでに突きつけられます。それは、私が最近考え続けている課題と直接つながる次の章『「注意力の経済」と「精神のエコロジー」』で、さらに切実な問いへとつながります。(人は、処理できる情報量、時間に限りがある。デジタル化時代はその限界を超えている。政治的にポピュリズムが拡大するのも、そのことと関係があるのではないか、という私の問題意識と直につながります。)その中で紹介されている、著者の大学研究室で開発した批評プラットフォーム『テレビ分析の〈知恵の樹〉Critical PLATEAU』は、驚きのシステムです。電通はこのシステムについて、何か関係しているのでしょうか。していないなら、是非ともアプローチして勉強した方がよさそうですね。
 職業として広告業界のマーケティング屋を30年以上続けてきて、仕事としては一生懸命やってきたけれど、果たしてそれにはどういう意味があったのだろう。それは本当に、意味、価値のある仕事だったのか。世の中に何かを残す仕事なのか。何も残さなかったのではないか。ここ数年、自問自答しつづけてきました。おぼろげに、こういうことかなあ、と掴みかけていたことを、意識化、言語化できそうだ、という手がかりになる一冊でした。
 80年代に記号論や消費社会論をかじり、広告業界あたりに就職し、デジタル革命からは少し疎外されているように感じている、というような同年代の皆さんには、特におすすめ。

 ここからブログ版追記。著者についてネット上で検索すると、学生運動自体に新左翼セクトのシンパであったという情報がでてきます。私のブログでいちばん初めに触れたとおり、私の母の弟二人は当時新左翼全学連の委員長副委員長をしていました。石田氏は、まさにそのセクトの活動家またはシンパだったそうです。年長叔父の方はセクトを抜けて名前も変えて地方国立大学で医者になる勉強をし直していたところ、反対セクトに発見されてしまったのでしょう、内ゲバて死亡しました。1978年のことだったと思います。下の方はもっと早い時期、たしか1973年に、内ゲバに合って、頭を割られましたが、悪運強く生き残り、失踪して、生きて入ればまだ活動家をしているのでしょう。立花隆氏の新左翼についての著作の中に、兄弟そろって実名で登場します。叔父たちとはほとんどあったことも話したこともないのですが、小学校五年六年と、札幌の母実家(つまり叔父たちの生家)の近くに二年間だけ暮らした折、持ち主は不在の彼らの部屋に潜り込んでは、伝説的漫画誌ガロの膨大なバックナンバー(白戸三平のカムイ伝や、つげ義春の「ねじ式」など名作や、林静一など)を読みふけったり、ギター弾きだった年長叔父の井上陽水ソングブックなどを拝借したり、大江健三郎の小説などをかじってみたり、という形で、私の精神思想形成に(中味、というより気分的なものですが、)影響を与えた叔父たちでした。彼らは死んだり、地下に潜伏したきりになったりして、話す機会も全くないままですが、同世代の活動家やシンパたちの中には、石田氏のように大学で研究者になったり、あるいは電通のような普通に体制側の企業に就職したりして、今となっては、この社会の一部になった人も多いのだろうなあ。そんなことを考えました。そんな経歴の石田氏が、私の関心や職業に極めて近いところで、私の悩みや迷いにヒントを与えてくれる本を出してくれた。なんとなく、亡くなった叔父と話ができたような、そんな気分に、ちょっとなった。そういう意味でも、とても印象に残る本でした。

生きてることが辛いなら。電通過労死によせて。 [文学中年的、考えすぎ的、]

今回の電通の事件、亡くなられた方のことは直接は知らないのだけれど、思った以上にひどくショックで、ずっと考えている。それは今も電通と仕事を続けていて、若い電通社員に厳しいことを言うことも多くて、(電通の管理職の皆さんはパワハラについて厳しく会社から言われているから、若手社員にすごく気をつかっていて、厳しい指導もできなくなっている。その分、私のような、OBで社外のフリーランスの人間が、若手に厳しいことを言う役回りになったりしている。)セクハラおやじではないつもりだけれど、面倒くさいパワハラオヤジだとは思われている自覚はある。その一方で、電通を辞めた時の、28年前の自分、25歳のときの自分は、電通の過酷な働き方に耐えられなくて辞めたわけだし。(いろいろな実績を残してから、優秀だから独立した多くの同期の人たちとは全く違って、僕は何の実績もなくて、単につらい仕事から逃げ出すためだけに、電通を辞めた。)「辞めます」と上司に伝えてから、本当に退職するまで3か月かかって、(その上司には、何の実績も実力もないお前が辞めても、仕事なんてないぞ、と言われた。)その間、仕事もないまま、ぽつんと机に座っていた。周囲の人の視線が「電通人としては自殺した人」なのに「幽霊のように職場をうろついている人」として僕のことを見ているなあ。そう感じながら過ごした3か月、不思議な感覚だった。辞めると言い出すまでは、朝、起きられず、独身寮で皆が出勤する足音を聞きながら、どうしても部屋から出られなかったり、首と肩が痛くて左手の握力がほとんどなくなったり、毎日じんましんが出たりしていのだけれど。辞めると言ってしまってからは、なんだかフワフワと楽ちんな気持ちになった。
本当に疲れてつらくなると、「今日は休みますと会社に連絡する」とか「病院に行く」勇気も気力もなくなるものだけれど。「死ぬ」よりは「会社やめる」方がいいよ。と若い人には伝えたい。
この森山直太朗の歌「生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい」という歌詞が、発表当時、自殺の薦めか、といって大批判を喰ったのだけれど、「小さく死ぬ」というのは、社会的に死ぬこととしての「会社辞める」とか、いじめならば「転校しちゃう」とかいうことだと僕は思っている。歌の歌詞を最後まで聞けば、そういうことだと思う。本当に死んじゃわないで、小さく死ぬ。せっかく入った電通をすぐ辞めちゃうって言えば、親も恋人も悲しむかもしれないけれど、3日もすれば元通り。そうやってとにかく生き続けていれば、その先楽しいことも絶対あるよ。
先にシェアしたいろいろな投稿でも、電通の、というか広告代理店の仕事の仕方はそう簡単には変わらないと思うから、(クライアントがいて、締切があって、正解が無くて、勝ち負けがあれば、期限ぎりぎりまで時間の限り頑張るしかない。)。電通を「ブラック企業だ」と批判しても、すぐには働き方は変わらないと思うから。合わないときは、本当に死んじゃだめだよ。「本当に死ぬ」んじゃなくて「小さく死ぬ」のがいいと思います。

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。 [文学中年的、考えすぎ的、]

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。
池内恵 『イスラーム国の衝撃』文春新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4166610139
内藤正典 『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 集英社新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207706
全く違う、正反対の立場の専門家の本だからこそ、合わせて読んで、考えたい。
メリットその①正反対の立場の人でも同じように言うことは、きっと正しいし、大切なことなのだろうとわかる。事実認識として押さえておかなければいけないところがわかる。
メリットその②ふたりの意見が激しく違うところ、対立するところも、すごく大切。それは、この問題に「どう向き合うか」についてのいちばん大切なところ。自分の態度を決めるときに大切。


一冊目は、東大准教授・イスラム政治思想史が専門、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』文春新書 2015/1/20刊。
父も叔父も東大教授(それぞれドイツ文学と天文学)という学者一家に育ったためか、コンプレックスが強く屈折した人のようです。今回の事件で無礼で強引なマスコミ取材が殺到したためにぶち切れしたコメントをブログに書いて、安富歩さんに「典型的東大話法」と批判されたりしていました。その後、テレビに何本か出演した結果(早口で話し出すと止まらない頭の回転の速そうな人でした)、フェイスブックのフォロワーも激増中。フォロワーさんにすごく褒められるので、最近、屈折具合が解消してきて、素直でかわいらしい感じの人格に変貌中。と、キャラとしても今すごく注目しているのですが、思想研究の傾向としては、イスラムの暴力性や反近代性にはかなり厳しく批判的。イスラムに擁護的な(彼らには彼らなりの合理性がある的な)日本のイスラム周辺学会学者に批判的。反米思想や近代批判の憑代にイスラムを使う日本の思想家評論家たち(きっと内田樹さんあたりを想定しているのではないかと思うのですが)に批判的、という立場です。よって今回の事件でも、米国寄りの立場をとった安倍さんの行動にいちばん擁護的な発言をしているイスラム専門家の一人です。という政治的立場はあるとして、知識の正確さ、分析視点の幅広さは流石、東大准教授、という感じです。TVや新聞ではわからないことがたくさん書かれています。
いくつかびっくりした点を挙げると
◆ザルカーウィー(イスラーム国の前身組織を立ち上げたヨルダン人で2006年に米国の空爆で死亡)の立案していた「行動計画」。2000年から2020年にかけて七つの段階を抗争していたという。
(一)目覚め(2000年-2003年)
(二)開眼(2003年~2006年)
(三)立ち上がり(2007年-2010年)
(四)復活と権力奪取と変革(2010年~2013年)
(五)国家の宣言(2013年-2016年)
(六)全面対決(2016年~2020年)
(七)最終勝利(2020年)

ここまでのところ、なんだか計画通りに来ています。
2001年の911テロによる「目覚め」から、それによる世界のジハーディストの「開眼」「立ち上がり」そして2010年から始まったアラブの春による「復活と権力奪取と変革」そして2013年の「カリフ制国家の宣言」と、なんとなくここまで計画通りな感じがこわい。
 もうひとつ、「終末論的シンボル」についての分析。
イスラム国の広報雑誌に「ダービク」というのがあるんだそうで、その「ダービク」というのはシリア北部にある人口3000ばかりのの村なのだが、しかしこの町の名前はイスラムの教義の書に「終末の時の前に生じる最終戦争の始まる場として記されているのだ」だそうだ。細かいことは本を読んでほしいのだけれど、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様、死んだらすぐ天国地獄に行くわけではなく、死人はみんな最終戦争後によみがえって神の審判を受け、そこで初めて天国と地獄に行く、という「最終戦争⇒最後の審判」という世界観を持っているらしい。日本人の知っている言葉で言えば、ハルマゲドン的最終戦争観。イスラム国は終末論と、その前兆としての最終戦争を起こしている、というイメージを利用することで人を集めているというのだね。ちょっとながくなるけれど引用してしまおう。
「『ダービク』の紙面では、終末的な悲観論と楽観的な行動主義を両立させる巧みなストーリー展開がなされる。(中略) イラクでの反米武装闘争の発端の時点で、終末的な最終戦争は始まっており、運命づけられていた通りに、ダービクをめぐる善と悪の闘争が出現している、と説くことで、『イスラーム国』は、自らの勢力拡大そのものが神兆の一部であると論じている。そして、カリフ位への就任を宣言したバクダーディーの演説から、「世界が善と悪の二つの陣営に分かれた」という一節を掲げ、終末論的な善悪の闘争における善の勢力という意味付けを「イスラーム国」に与える。そして「ヒジュラの呼びかけ」「すべてのムスリムへの呼びかけーー医師、技術者、学者、専門家よ」といったバグダディーの発言の抜粋で、終末的な闘争において、世界のイスラーム教徒は「イスラーム国に移住(ヒジュラ)してこなければならない」と説く。』
日本人は、これを読むとオウム真理教を思い浮かべてしまうのではないかと思う。私はオウムの主要メンバーと全く同世代(中学時代の同級生は、高校で早稲田高等学院に進んで、そこから早稲田のESSまで上祐と同級生で親友だったと言っている)なので、この感じが実はすごくわかってしまう。僕らはノストラダムスの大予言で1999年にハルマゲドンが起きると思って子供の時から育ってきた。そして宇宙戦艦ヤマトから北斗の拳から未来少年コナンから風の谷のナウシカまで、最終戦争が起きて、ごく少数だけが生き残るという世界観にどっぷりはまって青春時代を過ごした。学歴だけ見ればエリートになりそうな人たちがなぜオウムに入るか、と言われれば、それはどうせ最終戦争が起きて地球が滅びるならば、弱者被害者として死んでしまうよりは、自らその最終戦争を起こす側になって、主体的に「主役になって」終末の時を生きたい、と思ってしまうからだ。単なるならず者や虐げられた人(イスラームであるがゆえに虐げられた人や、貧困ゆえに反社会的になった人たち)だけがイスラーム国に吸い寄せられているとしたら、あの洗練された高度な映像を制作可能な欧米人材がなぜイスラム国に参加するのかわからない。
という終末論最終戦争世界観とジハーディズムが結びついた運動としてイスラーム国を捉える、という視点は、なぜかテレビでも新聞でもほとんど語られないけれど、これは実はすごくおそろしい。最初に書いたザルカーウィーの計画の2020年「最終勝利」というのが、現実世界での真の「最終勝利」でなくても、「最終戦争に世界を持ち込んで、世界が破滅するような状態」になったとしても、つまり「終末の前兆としての最終戦争」を引き起こしてしまえば勝利だ、と考えているとすると、ほんとうに何をするかわからないではないか。

私の勝手な関心で終末論のところだけたくさん引用してしまったが、池内氏の分析は、まっとうな国際政治の歴史も、イスラーム文化や社会の背景もきちんと解説してくれている。こういう事実関係の整理は上手なので、もう一冊の内藤先生の本でいまひとつはっきりしなかったことがすっきりよくわかる。東大の人らしく、全部に目配りして、どれかひとつだけを悪者にすることを慎重に避けよう、という配慮が行き届いている。(というか、そのために「~が問題である」的指摘はいっぱいあるが、結局どうしたらいいかはよくわからない本でもある。)
もうすこし言うと、客観的だがイスラーム国だけでなく、イスラーム世界そのものへの視線が、基本「冷たい客観性」だ。日本を欧米と同じ側において、イスラーム世界をかなり警戒し、批判的に見ている。冷たい距離感の中で、どうつきあうべきかを考えている。

対照的なのが、、同志社大学教授 内藤正典氏の『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 (集英社新書) 新書 – 2015/1/16
この先生のイスラームへの視線は「温かい」。誤解なきように言うけれど、イスラーム国というテロリストに温かいのではなく、パレスチナ、ガザの人からトルコの人、西欧諸国に移民しているイスラームの人、日本人が理解できず、西欧の人が差別をしているイスラームの人への視線が温かい。親身であり、かつ、尊敬すべき存在としてとらえている。池内氏とはその点がまったく違う。そういうイスラームへの温かさをそもそも持っている人が、「イスラーム国」という残忍なテロも行い、奴隷制も復活させているこの集団をどう考えようか、どう向き合おうか、と苦しみながら書いている本がこの本。(本人も言っているけれど、ハサン中田先生とは違って、内藤先生はイスラム教徒ではないし、イスラム法学者でもない。イスラム地域研究が専門です。)
私がイスラム国についてのはじめに興味を抱いたのは、内藤教授と、元・同志社大学教授のハサン中田考氏のツイッターでのやりとりを見ていたとき。まだ北大生事件も起きる前のことで、おそらく内田樹氏をフォローしていたことから、内田氏のリツイートで私のタイムラインに表示されてきたのだと思う。その内田樹先生が帯にコメントを書いていて、私もまったくその通り、と思うので引用してしまいます。
「私自身は、日本人があまり知らないトルコのタフで粘り強い対米交渉についてとの記述から学ぶことが多かった。むアメリカの圧力をかわしつつイスラム国との全面的対を回避しようとするトルコの政治的ふるまいを、きわどい地政学的地位にある国が身に着けた外交的叡智として著者は評価している。その箇所を読みながら、著者は私たちに無言のうちに「トルコと日本を比較してみよ」と言っているのではないかという気がした。」

 今回の後藤さん救出を巡っても、つい先日、トルコが、自分たちは後藤氏の居場所を特定できていて、日本にも連絡していたが、ということを発表して話題になった。イスラーム国攻撃の先頭に立っているヨルダンではなく、空爆に参加せず、人質解放の実績もあるトルコを窓口に交渉すべきだったんじゃないかと批判をする人もずいぶん出た。ヨルダンもトルコもイスラム圏の中では親米的立場の国だが、アメリカとの付き合い方はずいぶん違う。、これまで多くの局面で、米国と軍事行動を国外でともにすることを拒絶してきた。今回の対イスラム国有志連合にも、名前は連ねていても、空爆には参加しない。王様が自ら空爆をするヨルダンとは全然違う。
内田樹先生もいうとおり、トルコは親米立場なのに、米国の言うことを聞かない。特に国外に軍を出すということに関しては、米国から要請があっても、自国民を危険にさらす可能性のあるときは、頑として拒否する。(自国民を守る必要がどうしてもあるときには出すことはあるが、米国の利害からの要請のときには拒否をする。)トルコは、イスラム国が近く、かつクルド人を国内に多数抱えて、あまりに利害が濃いからそうしているのだが、日本の場合は、あまりに遠いのだからこそ、そうすべきだろう。

 山本太郎議員だけが国会でのイスラーム国非難決議に賛成しなかったと言って、テロの味方か、というわけのわからない批判をする人がものすごくたくさん出た、というか、そういう批判しか出なかったけれど、読売産経など保守マスコミの「安倍さんを批判するやつ、有志連合欧米を批判するやつはテロリストの味方」という、ものすごく頭の悪い黒か白か論調があるけれど、「アメリカに追随する」という路線に反対するとして、選択肢はすごくたくさんあって、そのいちばんわかりやすい例として、トルコの、「アメリカ側にはいるけれど、アメリカの軍事行動要請は断る。自国民に利益にならない軍事行動はしない。イスラーム国とも交渉のチャンネルは確保しておく」という選択肢はあるのだよね。

 産経新聞が、ものすごく低劣な(頭悪い)論調になっているのに、なぜか同系列BSフジのプライムニュース2/6には、駐日トルコ大使と駐日パレスチナ大使をゲストに迎えて、(日本側のゲストが飯島勲内閣官房参与と佐藤正久参院議員、ひげの隊長さんというのはいかにも産経人脈だけど)、トルコの対応、パレスチナの意見というのをちゃんと聞いていて面白かった。番組最後にパレスチナ大使が日本に望むことは、と問われて「まず国として承認してほしい。そして、中東の地域を武器を売ってはならない地域にしてほしい」と言っていたぞ。トルコの大使は、このエリアへの欧米の干渉をやめてくれ、こエリアの人たちが自分で解決していく、その中で民主的プロセスが進むようにトルコは努力する、と言っていたぞ。安倍総理、耳かっぽじってよく聞け、と思ったよ。中東に行って武器ビジネスしようなんて絶対だめだよ。米国のおせっかいの尻馬に乗って自衛隊を派遣して、なんていうのもダメだぞ。

 話がすこし逸れたけれど、内藤先生の本で感動的なのは、後に国際的にDOSHISHA PROCESSと呼ばれた、同志社大学にアフガニスタンの政府側の大臣と、タリバンの幹部を呼んでの対話の会、和平会議を開いた話。世界中のどこでもそれまで一度も実現できなかったことを、内藤先生とハサン中田先生の尽力で実現したときのこと。アフガニスタンのスタネクザイ大臣はテロで目の前で盟友を殺され、自身も重傷を負い、この会の時も足をひきずっていたのに、そのテロを行ったタリバンの幹部と同席して、対話をした。もちろんそれですぐ和平が進展したわけではないけれど、その最初のきっかけを日本の大学が作ったのは事実。会議の場が同志社大学だったので、キリスト教の神学館チャペルだったのに、両者ともそのことはきにしなかった話や、その後全員で居酒屋で鍋を囲んだ話など、テロリストといっても人間なのだ、話し合うところからしか始まらないという姿勢が強く感じられるエピソードです。

 すごく長くなってしまったけれど、もし池内氏の見立て通り、終末論的世界観、最終戦争遂行としてイスラム国が今の戦争を進めているとしたら、それはオウム真理教と同じように、対話や交渉では解決できない可能性が高いと私は思います。世界を破滅の縁まで自らの手で持っていくこと自体を目標としていたら、対話では止められない。
 でも、そうではなく、あくまで英仏の植民地支配に始まる歴史的政治的混乱や西欧諸国でのイスラム移民差別、米国の軍事的干渉、米国の中東政策の失敗が原因でイスラム国が生まれたのであれば、それを反省し、テロが拡大する社会環境政治環境を地道に改善していくようにすべきだろう。
 今日もヨルダンが空爆して、イスラム国の拠点に大打撃を与えた、とか、イラクが近々地上作戦を展開予定、といったニュースが流れている。池内氏立場に立てば、そうするしかない、ということになるし、内藤先生の立場に立てば、そのことで犠牲者が増え、女性と子供の死者が出て、それが男性をジハードに向かわせるという悪循環を助長しているだけだ、ということになる。

 私が触れることができたのは、どちらの本についても本当に断片にすぎない。この二冊をしっかり読めば、この問題についてのかなり広範な視点が獲得できる。その上で、それから考えても遅くない。というか、その程度の知識を得ないうちに、判断してはいけないと思いました。読んでみて。

後藤さん殺害の日に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

明け方まで起きていて、まさに眠りに落ちようかというときに、後藤さんが殺害されたというニュースがスマホのお知らせに表示された。ああ、なんていうことだ。ひどく重たい気持ちのまま、体も意識も石の重りを付けられたようになり、ニュースを確認したりテレビを見たりすることもできず、そのまま眠りに落ちた。
昼過ぎに目が覚めたとき、ひどい吐き気と頭痛と体の重さを感じた。インフルエンザかノロウイルスかなにかを発症したのかと思ったが、起き上がってみるとそうではないようだ。精神状態が身体に影響したようだ。身体にまで変調をきたすようなショックを、ニュースから感じたのは、人生の中で、福島の原発事故のニュースを見たときと今回の二回だけだ。

フェイスブックの友人知人の何人かは、今すぐ政治的な意見をうんぬんせず悲しむべきだ、その死を悼むべきだ、という意見をアップしている。一方、安倍総理は、「その罪を償わさせるため国際社会と連携していく」とか「日本がテロに屈することは決してない」とか「テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしていく」とか、「戦争続行宣言」的発言を続けているようだが、うまく報道記事が頭に入ってこない。

何か違う、という吐き気が僕の気持ちを支配している。どういう脈絡か、以前、友人のコピーライターに怒られたことを思い出した。彼と一緒に行った大きな仕事の(広告キャンペーン)のコンペで負けを知った直後のことだ。敗因を詳細に分析したメールを送ったところ、「全力を尽くし負けた直後に、いきなり敗因の分析をするな。今は、全力をつくして戦ったこと、負けた悔しさ、そういう感情的な体験に敬意を表し、それを労い、痛みを分かち合う時であり、冷静に敗因分析をしたりするときではない」という内容だった。

人が大きな痛みを感じ、その感情的な混乱と痛みを内的に消化し受容しようとしているそのとき、そのタイミングで、なぜだかわからないが、私の体と頭は、理性的に、理屈でその分析をしようというように働いてしまう。悲しみや怒りという石炭、熱源がくべられることで、理性的に分析するエンジンが猛烈に働いてしまう。申し訳ないが私はそういう人間なのだ。政治的に後藤さんの死を利用しようとしているのでもないし、悲しんでいないのでもないし、怒っていないのでもない。その反対だ。ものすごく落ち込んでいるし、ものすごく怒っている。後藤さんは知り合いでもないし、報道で見聞きした以外のつながりがあるわけではないが、その解放生還をほんとうに願ってここ一週間ほどを過ごしてきた。
私には六人の子供がいて、うち五人は男子だ。もう三人は成人しているが、どいつもこいつも人生に迷って、右往左往している。後藤さんも湯川さんも、道に迷った末に、うちの子供たちがなりうる存在だ。香田証生さんが殺害されたときも、長男は「自分もいろいろ迷って世界をさまよって、ああいうところにノリで行ってしまう可能性はある」と話していた。長男は今、二十代も後半にさしかかったが、就職もせず、うろうろしている。三男は大学を休学してうろうろしている。二男は就職が決まらずうろうろしている。みんなどこかで覚悟を決めて後藤さんのようになる可能性も、道に迷って湯川さんのようになる可能性もある。(五人男子がいたら、一人くらいは性的少数派になる可能性もあるなあ、と覚悟もしている。)少子化の時代、いったいどれだけの人が、湯川さんや後藤さんを「自分の子どもだってああなる」という可能性として見ていたか。自分の子供がオレンジの服を着せられて、テロリストの凶刃のもとにあると受け取っていたのか。だから、これから書くことは、表面的には理屈の話だが、書かせている原動力は理屈ではない。自分の子供が生きていく世界がどうあってほしいか、そのためにはどう考え行動しなければいけないか、という切迫した気持ち、焦りがこの文章を書かせている。

今日一日起きたことについてメディアに出る言説を以下三つに分けて考えてみる。
① こういう感情的な痛みを、政治家はなにがしかの方向に利用しようとする。政治的な立場と結びつけた言説。{安倍総理の「テロとの戦い続行宣言」。とか野党勢力側の「安倍総理の政治的責任を追及する。」とか}
② 専門家(イスラム政治、国際関係などの)は、「専門家以外は口をだすな、勝手に判断するな、感情的になるな」という専門家の意見を言う。
③ 倫理的な「いい人」は、「政治的に利用するな、まずは個人を悼め」という意見を言う。

こういう情報が組み合わさって押し寄せてくることに、私の身体全体が反発している。吐き気を催している。ひとつひとつそれぞれ、もっともらしいが間違っているし、それら三つが組み合わさることはもっと間違っている。

こういうときこそ、原理的に考えたい。そうでないと吐き気が止まらない。というのが私だ。素人だが、だからこそ、こういう大きなことが起きた時は原理的にことを考え直すべきだ。私はそう思う。そういう人間だ。語義のもともととしてのラジカルに考えたい。

 こういう感じを、福島原発事故直後にも味わった。だからわかる。まず、②の「専門家以外口を出すな」というのは絶対に間違っている。警戒すべき最たるものだ。細部についてはわからなくても、大きな状況しての判断は誰もができる。それを押しとどめる専門家の専横的態度は①の政治家の政治利用と結びつく。③の「いいひと」の行動も、大きな原理的判断に基づかないときは、①や②に利用される恐れがある。これらの組み合わせが間違って働くと、本当に大切なことがきちんと考えられないままに、状況が最悪な方向に動いてしまう。

 もつれた糸を解きほぐすために、まず②「専門家以外は口を出すな」への違和感から考えていきたい。

 イスラム国周辺の世界史的国際政治的歴史背景は、たしかに専門家以外にはわかりにくい。知識としても知らないことがたくさんあるし、ある程度わかったとしても、その中で取りうるどの立場が正しいかの判断はとても難しい。だから、知る努力無くして、判断をするな、という意見は正しい。しかし「専門家以外は口を出すな、あなたは判断をするな」という専門家の態度は正しくない。自分の人生、家族の将来に関係あることであれば、人は知る努力を素人ながらする。そしてなにがしかの判断をする。ガンにかかれば、病気に関して素人ながら勉強する。より信頼できる医師がどこにいるか。最新の治療法がどこで受けられるかについて勉強する。勉強熱心な患者は、不勉強な医師や、自分の治療法の学会的評価を気にするような偏った専門家、権威的医師よりも正しく自分の病気について判断できる場合がある。あるいは、病気そのものを治すことと、よりよい人生を送ることのバランスについては、医師ではなく、患者の方が判断できる場合がある。
 日本が中東にどう関わるかは、私や私の家族の将来、生命に直接かかわる問題だ。だから、知ろうとする。勉強しようとする。私は専門家としてではなく、自分と家族の人生と命にかかわる問題として、中東の問題に対して、ある判断をする権利と義務がある。そのために知る努力をしているし、特に今回のことを契機にさらに勉強を始めている。

 原発問題に関して「原子力の専門家以外は口を出すな」という議論がまったく意味をなさないのは、ここ四年間に僕らが学んだことだ。原子力専門家や政治家でなくても、自分の人生にかかわる問題として、知り、意見を表明することが大切だし、その権利はある。いや、義務がある。こうした問題に、第一義的に、政治的にではなく、「倫理的に」関わることができる。「こういう人生をよき人生と考える。そういう生き方をしたいと考えた時に、エネルギーについてはこのような立場でありたい」。これをすぐ「サヨク」という政治的批判をする人がいるが、これは違う。生活と人生に対する考え方、倫理的判断にもとづいて、二次的に政治的判断=ひとつひとつの政治課題への態度を決めるのだ。

 だから、③の「いい人」が、政治的課題への判断を留保排除して、感情的「悼み」だけに今回のことを限定するのには抵抗感がある。このような人生を自分と家族に送ってほしい、という願いがあったら、そのことと、今回のことをどう結び付けて判断するか。これは権利だけではなく、義務だ。

①の政治利用について。安倍総理の立場には反対だが、「自民党だから何でも反対」とか「安倍さんきらいだから反対」というような話ではなく、日本が政治的にどういう立場を取りうるかを、原理的に(現実にではなく、原理的に)考えてみたい。

国際紛争への関わり方はふたつの軸で考えることが可能だ。
① だれと一緒に行動するか。
② 何をもって貢献するか。
集団的自衛権の問題も、結局このことについて「同盟国」と一緒に「軍事行動も含めて」貢献する、という極端な選択をしている、ということで整理すればわかりやすい。

① は「国連とともに行動する」「西側(米国と西欧諸国)とともに行動する」「米国とともに行動する」「ご近所の国(東アジア、東南アジア)近隣諸国とともに行動する」「単独孤立主義」などの立場が原理的には取りうる。
結論から言うと、私の立場は「国連とともに行動する」である。これは「西側とともに」とも「米国とともに」とも明確に異なる立場なのは言うまでもない。軍事行動に関して、国連決議のない軍事行動には一切関与しない、というのが私の立場だ。今、国連決議ありで行われる戦闘を伴う軍事行動というのはほとんどない。(平和維持活動に伴い戦闘が生じてしまうことはあっても)。米国主導の軍事行動にはロシアと中国が賛成しないことが多いから。国連と一緒にしか行動しない、というのは、今の現実からすると、米国から距離を置く、という選択に結果としてなる。イスラム国に関する国連の決定(安保理での決議2170)は、資金源を断つ、外国人戦闘員の参加を阻止するなどという措置については求めているが、それ以上の具体的な軍事行動を加盟国に求めてはいない。日本は国連決議2170に沿った行動はしても、調子に乗って軍事行動をする米国の有志連合にまで同調しようというのはまずい。
米国と日本が軍事的に連携すべきは(もちろん日本に関する個別的自衛権を発動するときに、日米安保条約に基づいて米軍と共同行動をとることは当然そのまま保留してよい。その範囲はあくまで日本の周辺に限定すべきである。エネルギーを中東に依存しているから中東の紛争が日本の国の存立にかかわる事態だ、というのは正しくない。前の大戦に突入した原因の、国の外に防衛ラインを敷く考え方と一緒だ。)
私の立場はそういうことだ。できるできないではなく、そうすべきだと考えている。こういうことを書くとまた「サヨク」だという批判が来そうだが、違う。むしろ「ウヨク」だと考えている。対米従属を推し進める支えるのに利用されている偽物右翼ではなく、日本の文化と政治的立場を、いったん、しっかりと独自に決めた上で、米国の属国としてではなく、国際政治に関わっていくという立場は、これは純粋な意味で右翼なのではないかと私は考えている。

今回のことがつきつけているのは「アメリカとか、それが提唱する有志連合とか、そういう国連ではない勢力と一緒になって、日本国周辺以外の紛争に関わるのか、中東に関わるのか」という根源的な問いかけだ。イスラム国が残虐で非道なことは今回のことで、日本人にも身に染みた。として、歴史的背景も、国際政治的背景も複雑な中東の紛争に、日本が明確に敵味方を明らかにして関わるのか」という問いだ。そして答えは、NOだ。
 日本が中東での米国の行動に賛同参加しないからといって、米国が日米安保を廃棄して、日本から米軍を引き上げるか?もし引き揚げてくれるなら、お引き取り願えばよい。しかし、そんなことは絶対しないだろう。米国は米軍の国益にかなうから米軍基地を日本においているのだから。米国と日本の関係は日本国周辺に限定すればよい。

すこし別の話をする。
今回ここしばらく、「イスラム国」は国なのか、という議論がテレビでも新聞でも行われている。米国は一貫して国とは認めない、国という印象も国際世論に与えないように、その呼称について神経質になっている。しかし一方、たとえば政治学者の萱野稔人氏などは、「国際法的にまだ国とは認められていないが、原理的にはかなり国に近い形になってしまっているし、彼らが国を志向していることも事実だとしているし、一方で、国際法的には国であるところのシリアやイラクが、実態としては国として機能していない「破たん国家」化している。またあのエリアに存在するクルド人が、国際法上は「トルコ、シリア、イラクなどに分割された各国の少数民族」であるが、実際には人口3000万人からの、軍隊を持つ「国境をまたぐ民族集団」であることも露わになってしまった。(そして米国の全面的支援を受けていることも)

 敵が「テロ組織」であり、かつ、今回の人質事件は「テロ組織による営利/政治目的誘拐脅迫である」とするならば、テロと戦うことは犯罪者集団に対峙することであり、それは「戦争ではない」というのが、日本政府の立場だろう。戦争でない犯罪から邦人を保護するためであれば、自衛隊を派遣しても、それは「戦争しにいくのではない」というのが、政府の理屈の原理だ。そう言い張るためにはイスラム国は国であってはならない。犯罪集団だ。

しかし、かつての冷戦時代に左翼反政府勢力が、政権をとってしまえば国であり政府になったように、イスラム過激派もある領域を支配し政権を樹立してしまえば、国として考えざるを得ない。かつては過激派扱いだったパレスチナも、今は国連加入を申請中だし、国家承認する国も130か国に上る。米国と西欧と日本オーストラリアなどが認めていないけれど、世界地図でパレスチナ承認国を塗りつぶしてみれば、国家承認している国の方が圧倒的に多いことがわかる。(サッカーアジアカップの対戦国にパレスチナがあったよね)
話がちょっと横にそれるが、日本もパレスチナを国家承認していなく、それが国際世論的に当然なんだろうと漠然と考えているが、まさに「米国と歩調を一にしている」だけで、アジアアフリカ南米の大半の国はパレスチナを国家承認している。西欧諸国も承認に向けての動きが鮮明化している。UNESCOもパレスチナを加盟国として認めている。「誰と一緒に行動するか」というのは、まさにこういうことだ。無意識に「米国と歩調を合わせていれば、それが世界標準だ」と思い込んでいる日本人の視野狭窄についてもっと自覚すべきだ。
 イスラム国も今は「国ではない」「過激派だ」としていても、アルカイダなどと違ってイスラム国は「領土」も「民生施策」もおこなっている以上、もしイスラム国が「国になる一歩手前の、国になりうる反政府勢力」であるならば、そこに自衛隊を送ることは限りなく「戦争」に近い。日本は戦争をするのか。
 むしろ21世紀の戦争は、内戦と、そしてテロに形を変えている。21世紀型の戦争に積極的に参加するという選択を、私たちはいつしたのか。そんなことについて自民政権にOKと言ったのか。ましてやイスラム国は、アルカイダと比べると、「領域限定的」志向がもともとは強かった(無関係な世界にテロ輸出しようという動機はもともとは弱かった)ところに、おせっかいに手出しをしにいくべき対象なのかどうか。

私の意見は、イスラム国に対し軍事的に関わることにはっきりと反対だ。イスラム国の成立の前提となっている、シリア、イラク、ヨルダンあたりの歴史的経緯と、イラク国内のシーア派スンニ派の対立と、という日本にとっては判断不能な紛争に、わざわざ首を突っ込むことはない。アメリカのおせっかい&軍事ビジネスの尻馬に乗る必要は全くない。英国フランスの旧植民地政策の後始末に日本が関わる必要も全くない。少なくとも軍事的に関わることは一切すべきでないから、そう受け取られる可能性のある自衛隊の派遣もすべきではない。イスラム国と戦闘をする国を支援すべきでもない。お金も出すべきでない。人道支援をするのであれば、人道支援に限定されていることがわかる形の支援にすべきで、金を出したら金はどう使われるかその先は不透明だから金を出すべきではない。

人道支援だけをするなら良い。しかし、中東において軍事行動はもちろん、武器輸出ビジネスを展開することも絶対にすべきではない。武器ビジネスなのか通常のビジネスなのかグレーゾーン疑われうるイスラエルとのビジネスの拡大もすべきではない。



では何をもって、日本は国際的貢献を果たすべきなのか。中東とどうつきあうべきか。は、
力尽きたので次回、続きを書きます。

その前にイスラム国に対して、これだけは言いたい。
イスラム国に対して言うべきことは
① ジャーナリストの誘拐殺害をやめること。
② ヤズィーディーへの迫害(奴隷化、虐殺)をやめること。
この二点があるために、イスラム国をパレスチナのように捉えることが難しくなっている。単なる狂信的テロ集団としてとらえる立場を肯定したくなる。せざるを得なくなる。

日本政府に言いたい。イスラム国が上記二点を明確にするよう要求しつつ、それ以上のイスラム教宗派間の対立や、民族的抗争については、日本人はどちらにも与しないで、人道的立場から被害者支援を行うという立場を鮮明にすべき。

正直、スンニ派とシーア派の対立、クルド人との対立に、外国が関わるのは、どちら側についたとしても、憎しみの連鎖を助長するだけであり、資金も武器も、どちら側にも出すべきではない。その過程において出続ける民間人の犠牲、どちら側にも人道的支援を続けるという立場を明確にすべきだと思う。結果として、それは米国主導の有志連合とは距離を置く、という立場になると思う。

(ナチス台頭期に、それを擁護したり放置した英国や米国のようにならないか、という懸念はもちろんこれを書いている私にもある。あのときイスラム国を本気で殲滅すべきだった、と後で後悔しないかと。しかし、やはりそれはイスラム世界の中で、かれらの主体的選択としてなされるべきことであり、米国のおせっかい世界の警察行動や、ましてやそこにおける経済利権獲得のために、うろちょろすべきではない。)

イスラム国日本人・人質事件について [文学中年的、考えすぎ的、]

もう手遅れになりそうだし、何もできないのだが、書いておく。

今回の首相中東訪問外交の主眼は
イスラエルとの武器ビジネス(武器輸出や技術供与(してもらう)の拡大。それにのっかる企業の人を大勢連れて行ってる。
②それだけだと、産油国アラブ諸国(イスラム教)のご機嫌を損ねる。ので、イスラム国周辺諸国などへの人道的支援ということで、お金をばらまく。
③という形で、イスラエルとの関係を深めつつ、中東産油国のご機嫌もとる、どっちにもいい顔をするという中で、「イスラム国」はどの国から見ても敵だから、「2億ドルというお金は、対イスラム国、テロとの戦いを支援するもの」ということを言っておけ、という発言がちりばめられた。
④これが首相の勇み足だったのか、テロとの戦いにもっと深入りして、自衛隊派遣を進めようという親米官僚のシナリオだったのかは定かではない。
⑤国会への自衛隊海外派遣恒久法提出と人質事件が一日違いで起きるなどというのは、首相の勇み足ならばタイミングが悪すぎるし、親米官僚のシナリオ通りならばタイミングが良すぎる。

二人が殺された場合、世論が「これ以上イスラム国にかかわるな」となるのか「アメリカとともにテロとの戦いにより積極的に参加しろ」となるのかはわからない。

しかし、「イスラム国との関係をどうするか」ということばかりに世論の関心が誘導されているが、このブログの冒頭を見てほしい。①イスラエルとの武器ビジネスの拡大、というのがスタートである。

この前の総選挙で自民党に票を投じた人も、景気回復、成長のための具体策を進めてほしい、とは思っていても、その切り札の一つが「武器輸出、技術開発をイスラエルと協力して進めていくこと」などと説明された記憶はないだろうし、その政策を支持したわけでもないはずなのだが。

昭和の時代に、自民党の高度経済成長を支持した人たちも個別的政策としての「原発推進を積極的に選んだ」という自覚ははっきりなかった人が多いはず。それが「自民政権を支持したということは原発推進を支持したということですよね」というように原発は推進された。それが、後年、とんでもないことになるなどとは思わないままに。

イスラエルとの武器ビジネス、といのは二重の意味で重大な選択で、
①武器輸出を積極的に進めるという選択
②武器技術開発のパートナーとしてイスラエルと積極的に交流する、という選択
であり、その意味するところ、国際政治に日本がどうかかわっていくかの上で
将来への影響はものすごく大きい。にも関わらず
有権者が個別政策として「そのふたつのこと、OKと言った覚えはない」のに、
もうズンズンと進めている、ということなのだよね。これはまずいよ。

じゃあどうするのか。と言われると
日本は二億ドルの身代金相当の金額を用意する。
でもテロに屈するわけにはいかないからイスラム国には渡さない。

二人の救出を優先するなら、という現実主義的解決策としては
トルコが捕まえているイスラム国の有力者捕虜を、トルコから二億ドルで買う。
そのイスラム国捕虜と人質を交換する交渉をする。
というのが解決策そのいち。

その②。理想主義的空想的策。絶対しないだろうけど、こうしたい、という私の願望。
これでは人質は助からないけれど、今回の首相中東外交の「みんなにいい顔」をするなら、それを徹底貫徹しようという考え。
「日本は人道的支援しかしない」ということを世界に、イスラム国にも、それ以外の中東諸国やパレスチナ政府、ガザの難民、それを支えるハマスにもわかるようにするには
「新たに用意した二億ドルは、アメリカのイラク進攻駐留やイスラエルのガザ攻撃、西欧諸国の空爆や進駐に伴って生じた難民、犠牲者、遺族のための人道支援にあてる」とするもの。つまり、アメリカの行っている空爆や、イスラエルのガザ攻撃なども(日本が導入しようとしているイスラエル無人攻撃機でのイスラム過激派幹部の暗殺や、その誤爆による民間人被害者ももちろん)「イスラムの側から見れば国家レベルで行われているテロ」である。そのことを日本は理解するから、そうした難民被害者に対する人道的支援を日本は行う、と表明すること。
たとえばイラクでもアフガンでも、米軍の攻撃で死んだ市民への賠償を米軍はしていない。それを日本が本気でする。というようなこと。)

誰の攻撃であろうと、子供や女性や老人など一般市民の犠牲者は全部人道的見地からは被害者なわけなので、その人たちへの支援を、本気で行うのが日本だ、と表明するために、もう二億ドルを用意すること。

イスラム国からすれば「そんなの関係ない」といって人質を殺してしまう可能性が高いけれど、
「イスラム国という敵の犠牲者のための人道支援」って、敵を指定したのが今回のミスなわけなので、
「日本は誰がいいとか悪いとかは言わない。民間人の犠牲者は分け隔てなく支援する」と言い直すために二億ドル使おうよ。そのためなら国民一人250円くらい出すよ。俺、百人分くらい出しても構わないよ。


2014年9月11日という日。戦争への最終コーナーを回ったかも。 [文学中年的、考えすぎ的、]

9月10日は、電通をやめて路頭に迷っていた私を拾ってくれた大恩人、Iさんの命日なので、Iさんの奥様、ご友人(私にとっては大先輩)たちと会食をしつつ、いろいろなことを語り合うという時間を持った。大先輩、世代でいうと全共闘世代の最後尾の方たちだ。今回は政治的な話題は特に出なかったけれど、このメンバーで集まるとそちら方向に話が触れていくことは多い。

 日本時間で911午前、米国時間910深夜.オバマ大統領がISISイスラーム国への攻撃への有志連合づくりを呼びかけ、シリア空爆に踏み切る考えを発表した。911の前夜の発表には、もちろん意味があるだろう。この問題について対米従属することがどれほどの危険をもたらすかをきちんと報道しない。20140911はアメリカが再び、より深刻な戦争に足を踏み入れた日として記憶される可能性がある。それに対して日本はどういう立場をとるのか。吉田調書問題などよりも、この方がより重大な問題だと思うのだが。
 
 911.日本では、朝日新聞が吉田調書誤報を認め社長が謝罪訂正会見をした。他のメディアはこぞって朝日新聞を叩いた。ついでに原発事故当時の管首相民主政権のことも批判しなおした。そして東電は悪くなかったような印象を与えようとした。政権強化、原発再稼働への地ならし、東電悪くない、民主党叩き、朝日つぶし、という、政権にとって一粒で何度もおいしいネタであった。

 911深夜、何気なくスカパーの映画チャンネルを見ていたら、「フェア・ゲーム」FAIR GAMEという、イラク進攻時の、大量破壊兵器証拠ねつ造を告発したために、政権から過酷な攻撃をされた「元外交官の夫、CIA工作員妻の夫婦」を主人公とした、実話ベースの映画が放送されていて、つりこまれて見た。政権が、不都合な真実から目をそらすために、メディアも使いながら、「論点をすこしずらした騒動を起こし、肝心なことを国民が考えないようにする」戦略が、リアルに描かれていた。

 朝日叩きは、従軍慰安婦問題に続き、政権が政治的意図を露骨にむき出した圧力によるものであるにも関わらず、そのことを朝日自身も、他のマスメディアも全く触れようとしない。

 ふたつの誤報謝罪は、事実関係を追えば、ミスを朝日側がしたことは事実だ。朝日の政治的主張に沿う形で、事実を歪曲する、という、初歩的ミスの連発であることは否定できない。
 
しかし、より広くメディアの状況を見れば、「朝日の行う政権批判的歪曲」のみが厳しく断罪され、より幅広く行われている「他の多くのメディアが行う政権迎合的歪曲」は放置容認される、という非対称性が露わになりつつある、という問題として論じられなければならないはずだ。政権批判的な報道は、厳しく粗探しをされ、批判される。政権迎合的な報道のみが垂れ流される状況への大きな曲がり角に、一連の朝日叩きがなっている、という危惧を抱く。

大メディアと政権が、表面は批判的でも裏では意見調整をしてきたことは、今までもずっとあったことである。朝日新聞とテレビ朝日が、「いちばん批判的立場」ではありつつ、しかし最終的には権力との関係を維持し、体制維持に寄与してきたのではないか、という指摘はここ最近のマスメディア批判の中でも多く見られた論調である。政権お墨付きの政権批判メディア、という位置づけである。
ところが、今回の朝日叩きは、そういう「お墨付き批判メディア」であることも許さない、より政権迎合的になれ、という露骨な圧力がかかってきた、ということを示している。今までとは明らかに異なるフェイズに政権とメディアの関係が入ったことを示している。

「現場とトップ、組織全体」という、前項のテーマを敷衍していえば、政権とメディアトップとの関係は、あきらかに異常で露骨な接近を進めており、NHKの変質と朝日叩きという現象として表れている。

しかし、「現場」では、個々のNHK社員、朝日社員のレベルにおいては、メディアに携わる者としての職業倫理に基づく抵抗は今も続いている。そのことはひとつひとつの記事や番組の中から、今のところ見て取れる。

マスメディアにおいて何が報道されるか。何が報道されないか。そこにどのような意図や力が働いているかを知るには、海外メディアの報道、ネット(ツイッターなどでの論調)と比較して、日本のマスメディアの「現在」を常に監視し続けることが必要である。そして、日本のマスメディアの現場で抵抗を続ける人たちが、「危機のメッセージ」を発信しづづけられているかどうかを、注意深く見守らないといけない。今、息絶え絶えになっている現場の抵抗が途絶えたら、それは戦争への準備が完了したということになるのだろう。

という危機意識をさらに高めなければ、と意識した20140911でした。

吉田所長調書と朝日新聞問題について [文学中年的、考えすぎ的、]

今の報道議論が、おそろしく、そして意図的に粗雑な議論になっているのは、「現場とトップと組織全体」の問題を、わざとごちゃごちゃにしているから。
「現場、吉田所長含む東電」VS「官邸、管首相」でどうだった、という間違って簡略化された図式に対立構図をしている点。これだと、吉田所長は逃げていない=東電は逃げていない、悪いのは官邸、という結論になるように報道がいずれも組み立てられている。
結果、本来いちばん批判されるべき東電本店東電幹部がするっと免罪される、という報道の構図になっている。

 吉田所長は現場のトップ。その向こう側に「本店と官邸」というめんどくさいやつらがいた。「本店と官邸、どちらが事故をこじらせた犯人か論争」という議論がもともと存在する。
調書で吉田所長は「現場は逃げるなどということはなかった」ということを語っている。
「本店が完全撤退を考えている」「それに対して管首相が激怒した」「それに対して吉田所長が、現場は一時退避はしても完全撤退など考えたこともない。死んでも現場でなんとかしようとした。管首相には腹が立った」ということを言っているのであり、事実はそういう流れだったのだろうことは、うかがい知れる。それはこれまでの報道とも、実は特に齟齬がない。
 朝日の誤報の戦略的な大失敗は、「現場の東電社員が命令違反で逃げた」という、なかった事実をなぜか調書から作り出し、それをスクープとして報道したこと。そのことで東電批判を強めようとしたのだろうが、大失敗。なぜ失敗かというと、
① 極限状態で、死を覚悟しつつ逃げずに作業していた現場東電社員を誹謗中傷することは、国民の朝日に対する反感を強めこそすれ、東電トップ批判にはつながらなかったこと。(日本人は、トップが無能、現場が優秀で頑張る、というストーリーが好きなのだ。そこを無視して現場も逃げた東電は悪、というストーリーは国民受けが悪かった)
② より本質的な「死を覚悟して、逃げることを禁じられるような状況」に民間企業社員を置いてしまう、という原子力発電の「民間営利企業が行うことの不可能性」に焦点を当てなかったこと。こちらはわかりにくい論点なので、以下、詳述していきます。

 本店が完全撤退を考えたこと自体の善悪という議論が抜けている。朝日も管首相も、「重大事故が起きている、悪化しているときに東電社員が逃げるのは悪」という立場でいるが、これは本当にそうなのか。
一営利企業が、従業員が生命の危険にあるときに、そこから退避させるという経営者の行為。経営者としては当然、考えるべきことなので、批判されるようなことなのか、という点が議論されていない。
一般的な工場で大火災が起きた時、消防に通報したうえで社員が退避するのは悪ではない。その工場の社員なのだから死ぬまで逃げるな、消火しろ、というのはありえない。
責任感の強い現場社員が逃げずに消火を続けようとしても、上司経営者がはやく退避しろ、というのもこれまた当然。
 実は生命の危機があっても逃げてはいけない職業、などというのはこの世の中にごく少数しかない。職業の大前提としてそのことがうたわれるのは軍隊のみ。
消防警察、それに市役所などの公務員も、災害発生時には登庁を義務付けられているから、災害が起きたから自分だけ逃げる、というのは基本的にダメ。とはいえ、死ぬまで死んでも逃げるな、などとは規定されていない。当然。
民間では船や飛行機の操縦士や乗組員(お客様を見捨てて先に逃げてはダメ)など。韓国のフェリー沈没事故で、客を見捨てて先に逃げた船長たちが断罪されているのはこのため。

 原発が、従業員の生命が危険にさらされる、かつ放置すれば広い地域(東日本全体だったり、地球全体だったりまでする)が汚染され住民の生命健康財産に重大な危機及んだ時に、民間企業の社員たる現場の東電社員は、沈没船の船長や乗組員同様「逃げてはいけない」という職務上規定を持つ職業なのか?という点が議論されていない。

 チェルノブイリで事故が発生したときには、軍が投入されている。昔見たTVドキュメンタリーの記憶では、ものすごく線量が致死的に高くなっている場所に潜水してバルブを閉めに行かなければいけない、という任務が発生して、軍の潜水隊員が死を覚悟して行く(実際、任務完了後しばらくして死んじゃったはず)ということがあった。その後の石棺化までの工程も軍隊が大量投入された。この作業にあたった軍人は、のちに多くが癌になって死んだ。

 「死んでしまう可能性があっても逃げない」という職業であることをわかっている軍人にしか、事故を起きてしまった原発の処理はできないのだ。

 だから、東電トップが「民間人たる東電社員は生命の危機なので撤退させます。あとは自衛隊、よろしく」ということが、本当に悪なのか、という議論はきちんとなされていない。

吉田調書は「本店や官邸が何を考えようと、現場は最後まで戦った」という日本人の現場職業倫理の高さを語って立派なのだが、あの調書から導き出すべき結論は、
国家的危機を「現場職業倫理の高さ」だけに頼らざるを得ない、原子力発電という発電方式は、少なくとも民間企業が営利行為として行うことは不可能だ、ということ。

続いて、この吉田調書問題も含む朝日新聞バッシングは、後で振り返ると、日本が戦争になだれ込んでいくひとつの節目の事件として思い出されるのではないか、という危惧について。2014年9月11日に起きたこと、いくつかをつなげて考える、というのを、書きます。(続く)

脱原発を実現したい。そう思っているとき、総選挙での投票行動として最も合理的な選択は何か。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ブログに書こうと思ったが、うまくまとまらないので、連投、つぶやいてみる。わからないけれど、緊急の課題。支持政党とくになし。だが、できるだけ早く脱原発を実現したい。そう思っているとき、総選挙での投票行動として最も合理的な選択は何か。

今の野田政権が気に入らないからと、民主が総崩れ。自民党と維新の会が圧勝。となったら、原発推進派が一気に息を吹き返し、全国の原発つぎつぎ再稼働になるのではないか。

菅政権末期、菅総理が震災原発事故直後の対応にいろいろ不備はあったものの、浜岡を止め、孫さんと連携し、本気で脱原発に取り組みだしたとき、菅おろしが起きた。原発推進の仙石主導で野田政権が誕生してしまった。あのとき、脱原発派の中にも、菅さんの脱原発は手ぬるい、即時ではない、などと批判し、菅批判をし、結果菅おろしを容認した人は多かった。私は別に菅総理・民主党熱烈支持者ではないが、まがりなりにも、一国の総理が本気で脱原発を考えた、千載一遇のチャンスを、みすみす逃すべきではなかった、脱原発を望むなら、菅政権を見殺しにすべきではなかったと今でも考えている。菅さんのままでいたほうが、野田政権になるよりは百倍ましだったのではないか。

つまり問いたいのは、「いちばん理想論に近い脱原発方法、時期を主張する政党や候補者」に投票することが、本当に脱原発につながるのか。その一票は本当に生きるのか。それとも、民主や自民など、勝てば政権を担当する可能性が高い政党の中で、「即時」とは言っていなくても、本気で脱原発を主張している(これまでの行動や発言からして本気で取り組んでいると思われる)候補者に投票するほうが合理的な選択なのか。

脱原発派の投票スタンスは、かなりバラバラになりそうな気がする。票が複数政党複数候補に分散しそうな気がする。それに対して、原発推進派は、しっかりと組織だって、推進派議員の当選を実現しそうな気がする。(自民や公明の原発推進派議員は、原発のことには触れず、野田政権批判を展開して、気分的な与党批判浮動層を取り込むだろう。)

このままだと、脱原発を望むかどうかについての世論は、過半数が脱原発を望んでいるのに、総選挙の結果は、原発維持推進派の圧勝、原発推進内閣の誕生という結果が待っているのではないか、と悲観的なことばかり考えてしまう。

ツィッター上で脱原発に向けて発言を繰り広げ、活動を続けている人。また、支持政党は無いが、本気で即時脱原発を望んでいる人は、投票行動に対する合理的選択について、どのように考えているのだろうか。


あるいは選挙になる前に、どのような世論やネット上の仕組みを作れば、「脱原発実現に対して有効な選挙投票行動」をみんながとりやすくなるのだろうか。情けないことに、本当に、わからないのでつぶやいてみました。

と連投したものをブログにも掲載しました。ご意見ご批判大歓迎です。

制度を変更するのに個人を攻撃する必要は、本当にないのか。原発・いじめにおける「規制する立場の人の不作為」について。の一時削除について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

※一部新聞で、「加害者家族に警察OBという情報は誤りである」と報道されています。
ので、事実関係が明らかになるまで前回ブログを削除します。

本来被害生徒を保護すべき公的立場にある学校・教育委員会・警察が、加害者側と一体になることに対する批判と、そうした公的立場にある「不作為をもっていじめを放置した」個人は実名をもって責任追及されるべきである。という論旨については今も考えは変わりませんが、加害生徒家族に警察関係者がいないとすれば、「栃木リンチ事件に近い構造」とした部分は誤りでした。

前回ブログにも書いた、加害生徒本人を実名で攻撃すること=私刑には反対であるのと同様、無関係な個人が匿名で攻撃されることにももちろん反対です。

今回、事件が明るみに出てから、警察が、学校や教育委員会を捜査追及する姿勢を急に強めたことが、「自分たちは悪くない、学校や教育委員会のように及び腰なわけではない」という姿勢をアピールするためではなく、正しい使命感からであることを望みます。そのことを明らかにするためにも、(加害生徒の身内がOBにいなかったとしたらなおさら)、度重なる被害者父親からの告発を警察が受理しなかった点については、その経緯理由を明らかにすることを望みます。

制度を変更するのに個人を攻撃する必要は、本当にないのか。原発・いじめにおける「規制する立場の人の不作為」について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

※一部新聞で、「加害者家族に警察OBという情報は誤りである」と報道されています。
ので、事実関係が明らかになるまでブログを削除します。


といって、いったん削除したのですが、やっぱり復活します。

攻撃されているOBは加害者家族でない、と警察がコメントしています。
OB本人が被害届を出したので、事実のようです。

それでも、ブログを復活させたのは、この警察OBの方が、
いじめ加害者を擁護し、いじめ被害者を非難する内容のブログを公表していたのは事実であり、
このことが「加害者家族ではないか」という憶測を呼んだ、というのがことの経緯であるからです。
警察OBが、加害者側にたったブログを書いていた、という事実があるのであれば、
この地域社会全体の気分空気として、「本来いじめ被害者を保護すべき公的機関までもが
加害者側に立っていた」という下記文章の論は成立すると考えたからです。

赤下線部分が修正した部分です。




一年以上のご無沙汰でブログ更新します。

原発についての国会事故調報告書と大津のいじめ問題で、「個人ではなく社会全体の病弊の結果」だから、「特定個人を攻撃しても問題は解決しない」論が、良識派からどんどこ出てきて、そういうことをツイッターでつぶやいた人の「いいこと言ってやった」どや顔ツイートがあまりに横行しているので、怒りが抑えきれなくなったので、書きます。(毎日新聞には、芸能人の親の年金受給問題に関してですが、「制度を変えるのに個人を攻撃する必要はありません」という意見広告が載りましたが。少なくともいじめと原発に関しては、違うと思っています。)


 まず、大津のいじめ事件は、ふつうの意味でのいじめ事件ではないように私には推測されます。構造的にいちばん近いのは、1999年に起きた栃木リンチ殺人事件です。ウィキペディア参照「無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警察の不手際も世論に衝撃を与えた事件。」=加害者の中に警察の息子がいたために、捜査依頼が拒絶され、そのために最終的に被害者が殺されてしまった事件です。
 今回の大津事件で、ネット上の「加害者さらし」に批判が集まっているわけですが、加害中学生本人をさらすことには私も反対ですが、「加害者を応援し被害者を非難する警察OBがいたこと」「加害者父母がPTA会長、役員などを務める地元有力者であったこと」は、事件の本質理解のために、どうしても必要な情報です。被害者の絶望と加害者の増長の背景に、本来被害者を救うべき学校、教育委員会、警察までもが「加害者の身内・味方」という驚くべき事態があったことが想像されます。(もちろん、私はほんとの事実をしるわけではないので、これはネットや週刊誌などからの情報からの推測です、もちろん・)。「いくら先生に言っても、教育委員会に言っても、警察に言っても、無駄だ。おれらの親のことはわかっているだろう」という、この絶望感、逃げ場のなさというのが、自殺と無関係とは思えません。加害者によるいじめだけでなく、この「状況としての絶望感」が自殺の原因になったと想像するのは不適当でしょうか。想像するだけで醒めることのない悪夢の中にいるような気持ちになります。


 そして、これは、原発事故の構造にもそのままあてはまります。国民を守るための規制組織が、すべて電力会社、原発推進側の「身内」になっていて、どこにどう働きかけても、原発の危険を真剣にとりあってくれない。悪夢のような何十年間を原発に反対する人たちは戦い続けてきたのだと、改めて気づかされます。

 そして、これは、「組織の問題」なのか。「文化の問題なのか」。そうではない。もしそうであったとしても、これを変えていくには、規制し生徒や国民を守るべき立場にあったのに何もしなかった「不作為」を成した一人一人の役人警察教育委員会の個人が、実名を持つ個人として指弾されなければならないと私は考えます。村上春樹の「卵と壁」で言えば、多くの人が指摘したように、壁もよく見るとひとつひとつは卵でできている。壁を構成する卵一つ一つが、匿名の卵として不作為を成すことを許してはならない。壁の中にあっても、一人一人の卵が、「成すべきことをしない」ことに対しても、厳しく罪を問われるのだ、ということを断固として示すこと。そうでなければ、正義は実現されていかないのではないですか。

今日の東京新聞夕刊に、松原隆一郎氏「原発再稼働の問答無用」の中で、「東京電力には逮捕者の一人もでなかったのだから、事故を再発しても「責任は問われない」というメッセージを個々の関係者に与えてしまうことになってしまう」と書いています。そうであってはならないのです。国会事故調の海外向けの序文が、「日本の文化が原因」としたことに、英国のメディアなどが、「国民全員が事故を起こしたわけではなく、事故を起こした個人の責任が問われないというのはまったく変」と批判したのも、同様な論旨です。

 いじめ問題に戻ると、 「加害生徒をつるしあげろ」と私はいっているのではありません。(ただし、自殺との因果関係は立証は難しいのでしょうが、「恐喝」「傷害」などの犯罪行為があるはずなので、それについてはきちんと罪を償わせる必要はあるはずです。)むしろ、不作為=何もしないことで、被害者を自殺に追い込み、加害生徒を、ここまでひどい行為に走る前に止めることができなかった、「規制し、保護する立場にあった大人たち」は、徹底的に責任を追及されるべきです。

 もし加害生徒が補導されたり、少年裁判にかけられるという形になったのに、規制し保護する立場にあった学校や教育委員会、被害届を受理しなかった警察菅などの「不作為」に対する処分が「訓告」だのなんだのという、ごく軽微なもので終わるとしたら、それは著しくバランスを欠いた、社会正義に反するものであると思います。
(ちなみに栃木リンチ殺人事件のとき、9回も捜査依頼を拒絶した警察関係者への処分は、最も罰が重い者で「たった停職14日間」の処分だったそうです)

 まとめます。
「加害者叩いている人は、自分自身がいじめをしているということに気づけ」という、薄っぺらなきれいごと、というか、粗雑な論理に説得されちゃだめだ。加害者の子供と、周りの責任ある大人を追及することは分けて考えなきゃダメ。


加害生徒について
子供については、中二くらいっていうのは、カラダはでかくなるけど、ココロはみんな「中二病」なんだよ。どんないい子でも。ぐれたり暴れたり引きこもったり家出したり、中二には、一回、なんらかの形で壊れるものなんだ、大人になる過程として。そのときに、たまたまいじめる側になってしまって歯止めが効かなくなるっていうことは、可能性として起こりうる。そういうときは、周囲の大人が止めなきゃだめなんだよ。カラダはっても、なぐりとばしてでも。
だから、加害生徒を実名をさらしたり叩いたりすることは反対。それは私刑。私刑はいけない。かれらはあくまで未熟な子供であって、自分のしたことにきちんと向き合って、矯正していく可能性は多分にあるのだから。

しかし、かれらの行為を隠ぺいし、見て見ぬふりをし隠そうとした責任ある立場の大人たちは徹底的に責任を問われるべき。(だから、「県警が捜査を始めた」って、身内に対する調査もしっかりするの?という疑問がすごくある。
) 加害者の子供は、きちんと更生できるように、いちど自分の罪と向き合う機会を作らないといけない。そのためには学校、教育委員会、警察がきちんと責任を果たさないといけない。それを果たしていない学校、教育委員会、警察の罪は深い。加害生徒が矯正する機会を奪っているのだから。この人たちのことはマスコミも世論も徹底的に叩いて良い。個人として実名を出して責任を取らせなければダメ。大人なんだし、責任ある立場にあったんだし、それでお金もらってたんだから。


最後にね。 誰もが被害者にも加害者にもなりうるのが、いじめのこわいところです。自分の子供時代を振り返っても、なんどか、ひどくいじめられて登校拒否になったこともあれば、ああ、あのころは自分はいじめる側だったなあ、という時期もあります。そして、それら以外の多くの時期も周囲にはいじめがあって、「見て見ぬふりをしていた長い期間」があります。私の手が汚れていないわけではない。そういう苦い思いがあるからこそ「誰も悪くない」がいやなんだよね。「責任ある大人が、ちゃんと子供を守れよ。」と思うわけです。


nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | - 文学中年的、考えすぎ的、 ブログトップ