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イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。 [文学中年的、考えすぎ的、]

イスラーム国について論じるなら、読んでほしいこの二冊。
池内恵 『イスラーム国の衝撃』文春新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4166610139
内藤正典 『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 集英社新書
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207706
全く違う、正反対の立場の専門家の本だからこそ、合わせて読んで、考えたい。
メリットその①正反対の立場の人でも同じように言うことは、きっと正しいし、大切なことなのだろうとわかる。事実認識として押さえておかなければいけないところがわかる。
メリットその②ふたりの意見が激しく違うところ、対立するところも、すごく大切。それは、この問題に「どう向き合うか」についてのいちばん大切なところ。自分の態度を決めるときに大切。


一冊目は、東大准教授・イスラム政治思想史が専門、池内恵氏の『イスラーム国の衝撃』文春新書 2015/1/20刊。
父も叔父も東大教授(それぞれドイツ文学と天文学)という学者一家に育ったためか、コンプレックスが強く屈折した人のようです。今回の事件で無礼で強引なマスコミ取材が殺到したためにぶち切れしたコメントをブログに書いて、安富歩さんに「典型的東大話法」と批判されたりしていました。その後、テレビに何本か出演した結果(早口で話し出すと止まらない頭の回転の速そうな人でした)、フェイスブックのフォロワーも激増中。フォロワーさんにすごく褒められるので、最近、屈折具合が解消してきて、素直でかわいらしい感じの人格に変貌中。と、キャラとしても今すごく注目しているのですが、思想研究の傾向としては、イスラムの暴力性や反近代性にはかなり厳しく批判的。イスラムに擁護的な(彼らには彼らなりの合理性がある的な)日本のイスラム周辺学会学者に批判的。反米思想や近代批判の憑代にイスラムを使う日本の思想家評論家たち(きっと内田樹さんあたりを想定しているのではないかと思うのですが)に批判的、という立場です。よって今回の事件でも、米国寄りの立場をとった安倍さんの行動にいちばん擁護的な発言をしているイスラム専門家の一人です。という政治的立場はあるとして、知識の正確さ、分析視点の幅広さは流石、東大准教授、という感じです。TVや新聞ではわからないことがたくさん書かれています。
いくつかびっくりした点を挙げると
◆ザルカーウィー(イスラーム国の前身組織を立ち上げたヨルダン人で2006年に米国の空爆で死亡)の立案していた「行動計画」。2000年から2020年にかけて七つの段階を抗争していたという。
(一)目覚め(2000年-2003年)
(二)開眼(2003年~2006年)
(三)立ち上がり(2007年-2010年)
(四)復活と権力奪取と変革(2010年~2013年)
(五)国家の宣言(2013年-2016年)
(六)全面対決(2016年~2020年)
(七)最終勝利(2020年)

ここまでのところ、なんだか計画通りに来ています。
2001年の911テロによる「目覚め」から、それによる世界のジハーディストの「開眼」「立ち上がり」そして2010年から始まったアラブの春による「復活と権力奪取と変革」そして2013年の「カリフ制国家の宣言」と、なんとなくここまで計画通りな感じがこわい。
 もうひとつ、「終末論的シンボル」についての分析。
イスラム国の広報雑誌に「ダービク」というのがあるんだそうで、その「ダービク」というのはシリア北部にある人口3000ばかりのの村なのだが、しかしこの町の名前はイスラムの教義の書に「終末の時の前に生じる最終戦争の始まる場として記されているのだ」だそうだ。細かいことは本を読んでほしいのだけれど、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様、死んだらすぐ天国地獄に行くわけではなく、死人はみんな最終戦争後によみがえって神の審判を受け、そこで初めて天国と地獄に行く、という「最終戦争⇒最後の審判」という世界観を持っているらしい。日本人の知っている言葉で言えば、ハルマゲドン的最終戦争観。イスラム国は終末論と、その前兆としての最終戦争を起こしている、というイメージを利用することで人を集めているというのだね。ちょっとながくなるけれど引用してしまおう。
「『ダービク』の紙面では、終末的な悲観論と楽観的な行動主義を両立させる巧みなストーリー展開がなされる。(中略) イラクでの反米武装闘争の発端の時点で、終末的な最終戦争は始まっており、運命づけられていた通りに、ダービクをめぐる善と悪の闘争が出現している、と説くことで、『イスラーム国』は、自らの勢力拡大そのものが神兆の一部であると論じている。そして、カリフ位への就任を宣言したバクダーディーの演説から、「世界が善と悪の二つの陣営に分かれた」という一節を掲げ、終末論的な善悪の闘争における善の勢力という意味付けを「イスラーム国」に与える。そして「ヒジュラの呼びかけ」「すべてのムスリムへの呼びかけーー医師、技術者、学者、専門家よ」といったバグダディーの発言の抜粋で、終末的な闘争において、世界のイスラーム教徒は「イスラーム国に移住(ヒジュラ)してこなければならない」と説く。』
日本人は、これを読むとオウム真理教を思い浮かべてしまうのではないかと思う。私はオウムの主要メンバーと全く同世代(中学時代の同級生は、高校で早稲田高等学院に進んで、そこから早稲田のESSまで上祐と同級生で親友だったと言っている)なので、この感じが実はすごくわかってしまう。僕らはノストラダムスの大予言で1999年にハルマゲドンが起きると思って子供の時から育ってきた。そして宇宙戦艦ヤマトから北斗の拳から未来少年コナンから風の谷のナウシカまで、最終戦争が起きて、ごく少数だけが生き残るという世界観にどっぷりはまって青春時代を過ごした。学歴だけ見ればエリートになりそうな人たちがなぜオウムに入るか、と言われれば、それはどうせ最終戦争が起きて地球が滅びるならば、弱者被害者として死んでしまうよりは、自らその最終戦争を起こす側になって、主体的に「主役になって」終末の時を生きたい、と思ってしまうからだ。単なるならず者や虐げられた人(イスラームであるがゆえに虐げられた人や、貧困ゆえに反社会的になった人たち)だけがイスラーム国に吸い寄せられているとしたら、あの洗練された高度な映像を制作可能な欧米人材がなぜイスラム国に参加するのかわからない。
という終末論最終戦争世界観とジハーディズムが結びついた運動としてイスラーム国を捉える、という視点は、なぜかテレビでも新聞でもほとんど語られないけれど、これは実はすごくおそろしい。最初に書いたザルカーウィーの計画の2020年「最終勝利」というのが、現実世界での真の「最終勝利」でなくても、「最終戦争に世界を持ち込んで、世界が破滅するような状態」になったとしても、つまり「終末の前兆としての最終戦争」を引き起こしてしまえば勝利だ、と考えているとすると、ほんとうに何をするかわからないではないか。

私の勝手な関心で終末論のところだけたくさん引用してしまったが、池内氏の分析は、まっとうな国際政治の歴史も、イスラーム文化や社会の背景もきちんと解説してくれている。こういう事実関係の整理は上手なので、もう一冊の内藤先生の本でいまひとつはっきりしなかったことがすっきりよくわかる。東大の人らしく、全部に目配りして、どれかひとつだけを悪者にすることを慎重に避けよう、という配慮が行き届いている。(というか、そのために「~が問題である」的指摘はいっぱいあるが、結局どうしたらいいかはよくわからない本でもある。)
もうすこし言うと、客観的だがイスラーム国だけでなく、イスラーム世界そのものへの視線が、基本「冷たい客観性」だ。日本を欧米と同じ側において、イスラーム世界をかなり警戒し、批判的に見ている。冷たい距離感の中で、どうつきあうべきかを考えている。

対照的なのが、、同志社大学教授 内藤正典氏の『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 (集英社新書) 新書 – 2015/1/16
この先生のイスラームへの視線は「温かい」。誤解なきように言うけれど、イスラーム国というテロリストに温かいのではなく、パレスチナ、ガザの人からトルコの人、西欧諸国に移民しているイスラームの人、日本人が理解できず、西欧の人が差別をしているイスラームの人への視線が温かい。親身であり、かつ、尊敬すべき存在としてとらえている。池内氏とはその点がまったく違う。そういうイスラームへの温かさをそもそも持っている人が、「イスラーム国」という残忍なテロも行い、奴隷制も復活させているこの集団をどう考えようか、どう向き合おうか、と苦しみながら書いている本がこの本。(本人も言っているけれど、ハサン中田先生とは違って、内藤先生はイスラム教徒ではないし、イスラム法学者でもない。イスラム地域研究が専門です。)
私がイスラム国についてのはじめに興味を抱いたのは、内藤教授と、元・同志社大学教授のハサン中田考氏のツイッターでのやりとりを見ていたとき。まだ北大生事件も起きる前のことで、おそらく内田樹氏をフォローしていたことから、内田氏のリツイートで私のタイムラインに表示されてきたのだと思う。その内田樹先生が帯にコメントを書いていて、私もまったくその通り、と思うので引用してしまいます。
「私自身は、日本人があまり知らないトルコのタフで粘り強い対米交渉についてとの記述から学ぶことが多かった。むアメリカの圧力をかわしつつイスラム国との全面的対を回避しようとするトルコの政治的ふるまいを、きわどい地政学的地位にある国が身に着けた外交的叡智として著者は評価している。その箇所を読みながら、著者は私たちに無言のうちに「トルコと日本を比較してみよ」と言っているのではないかという気がした。」

 今回の後藤さん救出を巡っても、つい先日、トルコが、自分たちは後藤氏の居場所を特定できていて、日本にも連絡していたが、ということを発表して話題になった。イスラーム国攻撃の先頭に立っているヨルダンではなく、空爆に参加せず、人質解放の実績もあるトルコを窓口に交渉すべきだったんじゃないかと批判をする人もずいぶん出た。ヨルダンもトルコもイスラム圏の中では親米的立場の国だが、アメリカとの付き合い方はずいぶん違う。、これまで多くの局面で、米国と軍事行動を国外でともにすることを拒絶してきた。今回の対イスラム国有志連合にも、名前は連ねていても、空爆には参加しない。王様が自ら空爆をするヨルダンとは全然違う。
内田樹先生もいうとおり、トルコは親米立場なのに、米国の言うことを聞かない。特に国外に軍を出すということに関しては、米国から要請があっても、自国民を危険にさらす可能性のあるときは、頑として拒否する。(自国民を守る必要がどうしてもあるときには出すことはあるが、米国の利害からの要請のときには拒否をする。)トルコは、イスラム国が近く、かつクルド人を国内に多数抱えて、あまりに利害が濃いからそうしているのだが、日本の場合は、あまりに遠いのだからこそ、そうすべきだろう。

 山本太郎議員だけが国会でのイスラーム国非難決議に賛成しなかったと言って、テロの味方か、というわけのわからない批判をする人がものすごくたくさん出た、というか、そういう批判しか出なかったけれど、読売産経など保守マスコミの「安倍さんを批判するやつ、有志連合欧米を批判するやつはテロリストの味方」という、ものすごく頭の悪い黒か白か論調があるけれど、「アメリカに追随する」という路線に反対するとして、選択肢はすごくたくさんあって、そのいちばんわかりやすい例として、トルコの、「アメリカ側にはいるけれど、アメリカの軍事行動要請は断る。自国民に利益にならない軍事行動はしない。イスラーム国とも交渉のチャンネルは確保しておく」という選択肢はあるのだよね。

 産経新聞が、ものすごく低劣な(頭悪い)論調になっているのに、なぜか同系列BSフジのプライムニュース2/6には、駐日トルコ大使と駐日パレスチナ大使をゲストに迎えて、(日本側のゲストが飯島勲内閣官房参与と佐藤正久参院議員、ひげの隊長さんというのはいかにも産経人脈だけど)、トルコの対応、パレスチナの意見というのをちゃんと聞いていて面白かった。番組最後にパレスチナ大使が日本に望むことは、と問われて「まず国として承認してほしい。そして、中東の地域を武器を売ってはならない地域にしてほしい」と言っていたぞ。トルコの大使は、このエリアへの欧米の干渉をやめてくれ、こエリアの人たちが自分で解決していく、その中で民主的プロセスが進むようにトルコは努力する、と言っていたぞ。安倍総理、耳かっぽじってよく聞け、と思ったよ。中東に行って武器ビジネスしようなんて絶対だめだよ。米国のおせっかいの尻馬に乗って自衛隊を派遣して、なんていうのもダメだぞ。

 話がすこし逸れたけれど、内藤先生の本で感動的なのは、後に国際的にDOSHISHA PROCESSと呼ばれた、同志社大学にアフガニスタンの政府側の大臣と、タリバンの幹部を呼んでの対話の会、和平会議を開いた話。世界中のどこでもそれまで一度も実現できなかったことを、内藤先生とハサン中田先生の尽力で実現したときのこと。アフガニスタンのスタネクザイ大臣はテロで目の前で盟友を殺され、自身も重傷を負い、この会の時も足をひきずっていたのに、そのテロを行ったタリバンの幹部と同席して、対話をした。もちろんそれですぐ和平が進展したわけではないけれど、その最初のきっかけを日本の大学が作ったのは事実。会議の場が同志社大学だったので、キリスト教の神学館チャペルだったのに、両者ともそのことはきにしなかった話や、その後全員で居酒屋で鍋を囲んだ話など、テロリストといっても人間なのだ、話し合うところからしか始まらないという姿勢が強く感じられるエピソードです。

 すごく長くなってしまったけれど、もし池内氏の見立て通り、終末論的世界観、最終戦争遂行としてイスラム国が今の戦争を進めているとしたら、それはオウム真理教と同じように、対話や交渉では解決できない可能性が高いと私は思います。世界を破滅の縁まで自らの手で持っていくこと自体を目標としていたら、対話では止められない。
 でも、そうではなく、あくまで英仏の植民地支配に始まる歴史的政治的混乱や西欧諸国でのイスラム移民差別、米国の軍事的干渉、米国の中東政策の失敗が原因でイスラム国が生まれたのであれば、それを反省し、テロが拡大する社会環境政治環境を地道に改善していくようにすべきだろう。
 今日もヨルダンが空爆して、イスラム国の拠点に大打撃を与えた、とか、イラクが近々地上作戦を展開予定、といったニュースが流れている。池内氏立場に立てば、そうするしかない、ということになるし、内藤先生の立場に立てば、そのことで犠牲者が増え、女性と子供の死者が出て、それが男性をジハードに向かわせるという悪循環を助長しているだけだ、ということになる。

 私が触れることができたのは、どちらの本についても本当に断片にすぎない。この二冊をしっかり読めば、この問題についてのかなり広範な視点が獲得できる。その上で、それから考えても遅くない。というか、その程度の知識を得ないうちに、判断してはいけないと思いました。読んでみて。

選挙権18歳に引き下げ NHK NEWS WEBを見て思ったこと。個人的備忘録。

昨日(2/6金曜日)のNEWS WEBの特集
NHKのHPから。
「選挙権18歳以上 改正案成立なら参院選から
自民党や民主党など与野党6党の実務者は、選挙権が得られる年齢を現在の20歳以上から18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案を今の国会に改めて提出することで一致しました。
今の国会で改正案が成立すれば、国政選挙では、来年の参議院選挙から選挙権年齢が引き下げられる見通しです。期待される効果や課題などについて津田塾大学の萱野稔人教授に聞きながら掘り下げました。」


萱野教授は私が最も信頼し、追いかけている政治学者でなのですが、今回は萱野教授のことではなく、一般視聴者からのツイッターコメントについて思ったこと。(この番組は画面下にツイッターコメントがどんどん出てきて、スタジオでそれについても一部触れる、という仕組みになっている。)
「年寄りの数が多いからな。若者全員が投票しても政策通らないなら選挙行かないよ」
「若者の一票が年寄りの二倍位の扱いされないと選挙行く気がしない」
WEB動画ではカットされていたけれど、生放送の時には使われた街角インタビュー映像でも、高校生くらいの女の子が「うちらの意見が聞いてもらえるとは思えないから、行かない」と答えていた。

「わからないから」でも「関心がないから」でもなく、「自分たちの意見は通るわけがないから行かない。」というのは、選挙に行かない言い訳としてはなんとなくもっともらしい。この前の総選挙の時に一部文化人が「今回の選挙自体に意味がないから行かない」とか「白紙で投票する」とか言っていたのにも通じる、意識高そうで、しかし本当は選挙の意味を理解していない、情けない意見。なのだけれど、

でも、そういう文化人のかっこつけよりも、もうちょっと複雑で深刻な、若者の心理が表れているような気がして、すごく気になった。たとえば、ネトウヨなどと呼ばれることもある、若くて貧しいのに自民党政権の右傾化政策を熱心に支持する若者たちの心理。明らかに自分たちにとって不利な政策を掲げる自民党政権を熱心に支持する理由と、「うちらの意見が通らないから選挙にはいかない」というのは、深層では共通している、というか、裏返せばまったく同じ心理に思えたので、忘れないようにメモしておいた。

この意見を裏返すと、「あらかじめ意見が通ることが保証されている政権与党に投票すれば、自分たちの意見が通ったことになるから、選挙に行くのも空しくない。」ということなのか、もしかして。自分たちがいちばん不利な消費税増税も(あ、この前の選挙はもちろん自民は消費増税延期、だったわけだが、延期つまりいずれぜったいやるよ、ということであり、法人減税とセットでいえば、大企業優遇、弱いものから取るという政策なのは間違いない)、自分たちがいちばん被害者になる可能性の高い、戦争できる国になっていくことも、自分たちがいちばん不利な、より非正規雇用を拡大していく方向の労働政策も、「うちらの意見を安倍さんが聞いてくれているからうれしい」と思えるから、安倍さんに、自民党に投票しているのか、もしかして。

海外の危険地帯に兵力として派遣されるのも、原発の延々と続く事故処理、廃炉作業に投入されるのも(今、事故処理をしてくれている作業員の方たちは、早晩、被ばく量が上限に達して、確実に人手不足になる)、今は無関係と思っているかもしられないけれど、これから大人になっていく若い世代なのだが。年金制度が崩壊していく過程で、いちばん割を食うのは若い世代なのだが。

50すぎのおっさんとして、これまでの人生で、たしかに、「うちらの意見が選挙で勝った」という体験はほとんどないのだが、それでも選挙には行っている。行っても変わらないのに、なぜ行くの?と若者に問いかけられた感じがした。「選挙に行く以上の、何かを変える行動をしないといけないんじゃないの?」と。

答えの出ない問題が多いなあ。今日は結論なし。おしまい。


後藤さん殺害の日に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

明け方まで起きていて、まさに眠りに落ちようかというときに、後藤さんが殺害されたというニュースがスマホのお知らせに表示された。ああ、なんていうことだ。ひどく重たい気持ちのまま、体も意識も石の重りを付けられたようになり、ニュースを確認したりテレビを見たりすることもできず、そのまま眠りに落ちた。
昼過ぎに目が覚めたとき、ひどい吐き気と頭痛と体の重さを感じた。インフルエンザかノロウイルスかなにかを発症したのかと思ったが、起き上がってみるとそうではないようだ。精神状態が身体に影響したようだ。身体にまで変調をきたすようなショックを、ニュースから感じたのは、人生の中で、福島の原発事故のニュースを見たときと今回の二回だけだ。

フェイスブックの友人知人の何人かは、今すぐ政治的な意見をうんぬんせず悲しむべきだ、その死を悼むべきだ、という意見をアップしている。一方、安倍総理は、「その罪を償わさせるため国際社会と連携していく」とか「日本がテロに屈することは決してない」とか「テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしていく」とか、「戦争続行宣言」的発言を続けているようだが、うまく報道記事が頭に入ってこない。

何か違う、という吐き気が僕の気持ちを支配している。どういう脈絡か、以前、友人のコピーライターに怒られたことを思い出した。彼と一緒に行った大きな仕事の(広告キャンペーン)のコンペで負けを知った直後のことだ。敗因を詳細に分析したメールを送ったところ、「全力を尽くし負けた直後に、いきなり敗因の分析をするな。今は、全力をつくして戦ったこと、負けた悔しさ、そういう感情的な体験に敬意を表し、それを労い、痛みを分かち合う時であり、冷静に敗因分析をしたりするときではない」という内容だった。

人が大きな痛みを感じ、その感情的な混乱と痛みを内的に消化し受容しようとしているそのとき、そのタイミングで、なぜだかわからないが、私の体と頭は、理性的に、理屈でその分析をしようというように働いてしまう。悲しみや怒りという石炭、熱源がくべられることで、理性的に分析するエンジンが猛烈に働いてしまう。申し訳ないが私はそういう人間なのだ。政治的に後藤さんの死を利用しようとしているのでもないし、悲しんでいないのでもないし、怒っていないのでもない。その反対だ。ものすごく落ち込んでいるし、ものすごく怒っている。後藤さんは知り合いでもないし、報道で見聞きした以外のつながりがあるわけではないが、その解放生還をほんとうに願ってここ一週間ほどを過ごしてきた。
私には六人の子供がいて、うち五人は男子だ。もう三人は成人しているが、どいつもこいつも人生に迷って、右往左往している。後藤さんも湯川さんも、道に迷った末に、うちの子供たちがなりうる存在だ。香田証生さんが殺害されたときも、長男は「自分もいろいろ迷って世界をさまよって、ああいうところにノリで行ってしまう可能性はある」と話していた。長男は今、二十代も後半にさしかかったが、就職もせず、うろうろしている。三男は大学を休学してうろうろしている。二男は就職が決まらずうろうろしている。みんなどこかで覚悟を決めて後藤さんのようになる可能性も、道に迷って湯川さんのようになる可能性もある。(五人男子がいたら、一人くらいは性的少数派になる可能性もあるなあ、と覚悟もしている。)少子化の時代、いったいどれだけの人が、湯川さんや後藤さんを「自分の子どもだってああなる」という可能性として見ていたか。自分の子供がオレンジの服を着せられて、テロリストの凶刃のもとにあると受け取っていたのか。だから、これから書くことは、表面的には理屈の話だが、書かせている原動力は理屈ではない。自分の子供が生きていく世界がどうあってほしいか、そのためにはどう考え行動しなければいけないか、という切迫した気持ち、焦りがこの文章を書かせている。

今日一日起きたことについてメディアに出る言説を以下三つに分けて考えてみる。
① こういう感情的な痛みを、政治家はなにがしかの方向に利用しようとする。政治的な立場と結びつけた言説。{安倍総理の「テロとの戦い続行宣言」。とか野党勢力側の「安倍総理の政治的責任を追及する。」とか}
② 専門家(イスラム政治、国際関係などの)は、「専門家以外は口をだすな、勝手に判断するな、感情的になるな」という専門家の意見を言う。
③ 倫理的な「いい人」は、「政治的に利用するな、まずは個人を悼め」という意見を言う。

こういう情報が組み合わさって押し寄せてくることに、私の身体全体が反発している。吐き気を催している。ひとつひとつそれぞれ、もっともらしいが間違っているし、それら三つが組み合わさることはもっと間違っている。

こういうときこそ、原理的に考えたい。そうでないと吐き気が止まらない。というのが私だ。素人だが、だからこそ、こういう大きなことが起きた時は原理的にことを考え直すべきだ。私はそう思う。そういう人間だ。語義のもともととしてのラジカルに考えたい。

 こういう感じを、福島原発事故直後にも味わった。だからわかる。まず、②の「専門家以外口を出すな」というのは絶対に間違っている。警戒すべき最たるものだ。細部についてはわからなくても、大きな状況しての判断は誰もができる。それを押しとどめる専門家の専横的態度は①の政治家の政治利用と結びつく。③の「いいひと」の行動も、大きな原理的判断に基づかないときは、①や②に利用される恐れがある。これらの組み合わせが間違って働くと、本当に大切なことがきちんと考えられないままに、状況が最悪な方向に動いてしまう。

 もつれた糸を解きほぐすために、まず②「専門家以外は口を出すな」への違和感から考えていきたい。

 イスラム国周辺の世界史的国際政治的歴史背景は、たしかに専門家以外にはわかりにくい。知識としても知らないことがたくさんあるし、ある程度わかったとしても、その中で取りうるどの立場が正しいかの判断はとても難しい。だから、知る努力無くして、判断をするな、という意見は正しい。しかし「専門家以外は口を出すな、あなたは判断をするな」という専門家の態度は正しくない。自分の人生、家族の将来に関係あることであれば、人は知る努力を素人ながらする。そしてなにがしかの判断をする。ガンにかかれば、病気に関して素人ながら勉強する。より信頼できる医師がどこにいるか。最新の治療法がどこで受けられるかについて勉強する。勉強熱心な患者は、不勉強な医師や、自分の治療法の学会的評価を気にするような偏った専門家、権威的医師よりも正しく自分の病気について判断できる場合がある。あるいは、病気そのものを治すことと、よりよい人生を送ることのバランスについては、医師ではなく、患者の方が判断できる場合がある。
 日本が中東にどう関わるかは、私や私の家族の将来、生命に直接かかわる問題だ。だから、知ろうとする。勉強しようとする。私は専門家としてではなく、自分と家族の人生と命にかかわる問題として、中東の問題に対して、ある判断をする権利と義務がある。そのために知る努力をしているし、特に今回のことを契機にさらに勉強を始めている。

 原発問題に関して「原子力の専門家以外は口を出すな」という議論がまったく意味をなさないのは、ここ四年間に僕らが学んだことだ。原子力専門家や政治家でなくても、自分の人生にかかわる問題として、知り、意見を表明することが大切だし、その権利はある。いや、義務がある。こうした問題に、第一義的に、政治的にではなく、「倫理的に」関わることができる。「こういう人生をよき人生と考える。そういう生き方をしたいと考えた時に、エネルギーについてはこのような立場でありたい」。これをすぐ「サヨク」という政治的批判をする人がいるが、これは違う。生活と人生に対する考え方、倫理的判断にもとづいて、二次的に政治的判断=ひとつひとつの政治課題への態度を決めるのだ。

 だから、③の「いい人」が、政治的課題への判断を留保排除して、感情的「悼み」だけに今回のことを限定するのには抵抗感がある。このような人生を自分と家族に送ってほしい、という願いがあったら、そのことと、今回のことをどう結び付けて判断するか。これは権利だけではなく、義務だ。

①の政治利用について。安倍総理の立場には反対だが、「自民党だから何でも反対」とか「安倍さんきらいだから反対」というような話ではなく、日本が政治的にどういう立場を取りうるかを、原理的に(現実にではなく、原理的に)考えてみたい。

国際紛争への関わり方はふたつの軸で考えることが可能だ。
① だれと一緒に行動するか。
② 何をもって貢献するか。
集団的自衛権の問題も、結局このことについて「同盟国」と一緒に「軍事行動も含めて」貢献する、という極端な選択をしている、ということで整理すればわかりやすい。

① は「国連とともに行動する」「西側(米国と西欧諸国)とともに行動する」「米国とともに行動する」「ご近所の国(東アジア、東南アジア)近隣諸国とともに行動する」「単独孤立主義」などの立場が原理的には取りうる。
結論から言うと、私の立場は「国連とともに行動する」である。これは「西側とともに」とも「米国とともに」とも明確に異なる立場なのは言うまでもない。軍事行動に関して、国連決議のない軍事行動には一切関与しない、というのが私の立場だ。今、国連決議ありで行われる戦闘を伴う軍事行動というのはほとんどない。(平和維持活動に伴い戦闘が生じてしまうことはあっても)。米国主導の軍事行動にはロシアと中国が賛成しないことが多いから。国連と一緒にしか行動しない、というのは、今の現実からすると、米国から距離を置く、という選択に結果としてなる。イスラム国に関する国連の決定(安保理での決議2170)は、資金源を断つ、外国人戦闘員の参加を阻止するなどという措置については求めているが、それ以上の具体的な軍事行動を加盟国に求めてはいない。日本は国連決議2170に沿った行動はしても、調子に乗って軍事行動をする米国の有志連合にまで同調しようというのはまずい。
米国と日本が軍事的に連携すべきは(もちろん日本に関する個別的自衛権を発動するときに、日米安保条約に基づいて米軍と共同行動をとることは当然そのまま保留してよい。その範囲はあくまで日本の周辺に限定すべきである。エネルギーを中東に依存しているから中東の紛争が日本の国の存立にかかわる事態だ、というのは正しくない。前の大戦に突入した原因の、国の外に防衛ラインを敷く考え方と一緒だ。)
私の立場はそういうことだ。できるできないではなく、そうすべきだと考えている。こういうことを書くとまた「サヨク」だという批判が来そうだが、違う。むしろ「ウヨク」だと考えている。対米従属を推し進める支えるのに利用されている偽物右翼ではなく、日本の文化と政治的立場を、いったん、しっかりと独自に決めた上で、米国の属国としてではなく、国際政治に関わっていくという立場は、これは純粋な意味で右翼なのではないかと私は考えている。

今回のことがつきつけているのは「アメリカとか、それが提唱する有志連合とか、そういう国連ではない勢力と一緒になって、日本国周辺以外の紛争に関わるのか、中東に関わるのか」という根源的な問いかけだ。イスラム国が残虐で非道なことは今回のことで、日本人にも身に染みた。として、歴史的背景も、国際政治的背景も複雑な中東の紛争に、日本が明確に敵味方を明らかにして関わるのか」という問いだ。そして答えは、NOだ。
 日本が中東での米国の行動に賛同参加しないからといって、米国が日米安保を廃棄して、日本から米軍を引き上げるか?もし引き揚げてくれるなら、お引き取り願えばよい。しかし、そんなことは絶対しないだろう。米国は米軍の国益にかなうから米軍基地を日本においているのだから。米国と日本の関係は日本国周辺に限定すればよい。

すこし別の話をする。
今回ここしばらく、「イスラム国」は国なのか、という議論がテレビでも新聞でも行われている。米国は一貫して国とは認めない、国という印象も国際世論に与えないように、その呼称について神経質になっている。しかし一方、たとえば政治学者の萱野稔人氏などは、「国際法的にまだ国とは認められていないが、原理的にはかなり国に近い形になってしまっているし、彼らが国を志向していることも事実だとしているし、一方で、国際法的には国であるところのシリアやイラクが、実態としては国として機能していない「破たん国家」化している。またあのエリアに存在するクルド人が、国際法上は「トルコ、シリア、イラクなどに分割された各国の少数民族」であるが、実際には人口3000万人からの、軍隊を持つ「国境をまたぐ民族集団」であることも露わになってしまった。(そして米国の全面的支援を受けていることも)

 敵が「テロ組織」であり、かつ、今回の人質事件は「テロ組織による営利/政治目的誘拐脅迫である」とするならば、テロと戦うことは犯罪者集団に対峙することであり、それは「戦争ではない」というのが、日本政府の立場だろう。戦争でない犯罪から邦人を保護するためであれば、自衛隊を派遣しても、それは「戦争しにいくのではない」というのが、政府の理屈の原理だ。そう言い張るためにはイスラム国は国であってはならない。犯罪集団だ。

しかし、かつての冷戦時代に左翼反政府勢力が、政権をとってしまえば国であり政府になったように、イスラム過激派もある領域を支配し政権を樹立してしまえば、国として考えざるを得ない。かつては過激派扱いだったパレスチナも、今は国連加入を申請中だし、国家承認する国も130か国に上る。米国と西欧と日本オーストラリアなどが認めていないけれど、世界地図でパレスチナ承認国を塗りつぶしてみれば、国家承認している国の方が圧倒的に多いことがわかる。(サッカーアジアカップの対戦国にパレスチナがあったよね)
話がちょっと横にそれるが、日本もパレスチナを国家承認していなく、それが国際世論的に当然なんだろうと漠然と考えているが、まさに「米国と歩調を一にしている」だけで、アジアアフリカ南米の大半の国はパレスチナを国家承認している。西欧諸国も承認に向けての動きが鮮明化している。UNESCOもパレスチナを加盟国として認めている。「誰と一緒に行動するか」というのは、まさにこういうことだ。無意識に「米国と歩調を合わせていれば、それが世界標準だ」と思い込んでいる日本人の視野狭窄についてもっと自覚すべきだ。
 イスラム国も今は「国ではない」「過激派だ」としていても、アルカイダなどと違ってイスラム国は「領土」も「民生施策」もおこなっている以上、もしイスラム国が「国になる一歩手前の、国になりうる反政府勢力」であるならば、そこに自衛隊を送ることは限りなく「戦争」に近い。日本は戦争をするのか。
 むしろ21世紀の戦争は、内戦と、そしてテロに形を変えている。21世紀型の戦争に積極的に参加するという選択を、私たちはいつしたのか。そんなことについて自民政権にOKと言ったのか。ましてやイスラム国は、アルカイダと比べると、「領域限定的」志向がもともとは強かった(無関係な世界にテロ輸出しようという動機はもともとは弱かった)ところに、おせっかいに手出しをしにいくべき対象なのかどうか。

私の意見は、イスラム国に対し軍事的に関わることにはっきりと反対だ。イスラム国の成立の前提となっている、シリア、イラク、ヨルダンあたりの歴史的経緯と、イラク国内のシーア派スンニ派の対立と、という日本にとっては判断不能な紛争に、わざわざ首を突っ込むことはない。アメリカのおせっかい&軍事ビジネスの尻馬に乗る必要は全くない。英国フランスの旧植民地政策の後始末に日本が関わる必要も全くない。少なくとも軍事的に関わることは一切すべきでないから、そう受け取られる可能性のある自衛隊の派遣もすべきではない。イスラム国と戦闘をする国を支援すべきでもない。お金も出すべきでない。人道支援をするのであれば、人道支援に限定されていることがわかる形の支援にすべきで、金を出したら金はどう使われるかその先は不透明だから金を出すべきではない。

人道支援だけをするなら良い。しかし、中東において軍事行動はもちろん、武器輸出ビジネスを展開することも絶対にすべきではない。武器ビジネスなのか通常のビジネスなのかグレーゾーン疑われうるイスラエルとのビジネスの拡大もすべきではない。



では何をもって、日本は国際的貢献を果たすべきなのか。中東とどうつきあうべきか。は、
力尽きたので次回、続きを書きます。

その前にイスラム国に対して、これだけは言いたい。
イスラム国に対して言うべきことは
① ジャーナリストの誘拐殺害をやめること。
② ヤズィーディーへの迫害(奴隷化、虐殺)をやめること。
この二点があるために、イスラム国をパレスチナのように捉えることが難しくなっている。単なる狂信的テロ集団としてとらえる立場を肯定したくなる。せざるを得なくなる。

日本政府に言いたい。イスラム国が上記二点を明確にするよう要求しつつ、それ以上のイスラム教宗派間の対立や、民族的抗争については、日本人はどちらにも与しないで、人道的立場から被害者支援を行うという立場を鮮明にすべき。

正直、スンニ派とシーア派の対立、クルド人との対立に、外国が関わるのは、どちら側についたとしても、憎しみの連鎖を助長するだけであり、資金も武器も、どちら側にも出すべきではない。その過程において出続ける民間人の犠牲、どちら側にも人道的支援を続けるという立場を明確にすべきだと思う。結果として、それは米国主導の有志連合とは距離を置く、という立場になると思う。

(ナチス台頭期に、それを擁護したり放置した英国や米国のようにならないか、という懸念はもちろんこれを書いている私にもある。あのときイスラム国を本気で殲滅すべきだった、と後で後悔しないかと。しかし、やはりそれはイスラム世界の中で、かれらの主体的選択としてなされるべきことであり、米国のおせっかい世界の警察行動や、ましてやそこにおける経済利権獲得のために、うろちょろすべきではない。)