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制度を変更するのに個人を攻撃する必要は、本当にないのか。原発・いじめにおける「規制する立場の人の不作為」について。の一時削除について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

※一部新聞で、「加害者家族に警察OBという情報は誤りである」と報道されています。
ので、事実関係が明らかになるまで前回ブログを削除します。

本来被害生徒を保護すべき公的立場にある学校・教育委員会・警察が、加害者側と一体になることに対する批判と、そうした公的立場にある「不作為をもっていじめを放置した」個人は実名をもって責任追及されるべきである。という論旨については今も考えは変わりませんが、加害生徒家族に警察関係者がいないとすれば、「栃木リンチ事件に近い構造」とした部分は誤りでした。

前回ブログにも書いた、加害生徒本人を実名で攻撃すること=私刑には反対であるのと同様、無関係な個人が匿名で攻撃されることにももちろん反対です。

今回、事件が明るみに出てから、警察が、学校や教育委員会を捜査追及する姿勢を急に強めたことが、「自分たちは悪くない、学校や教育委員会のように及び腰なわけではない」という姿勢をアピールするためではなく、正しい使命感からであることを望みます。そのことを明らかにするためにも、(加害生徒の身内がOBにいなかったとしたらなおさら)、度重なる被害者父親からの告発を警察が受理しなかった点については、その経緯理由を明らかにすることを望みます。

制度を変更するのに個人を攻撃する必要は、本当にないのか。原発・いじめにおける「規制する立場の人の不作為」について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

※一部新聞で、「加害者家族に警察OBという情報は誤りである」と報道されています。
ので、事実関係が明らかになるまでブログを削除します。


といって、いったん削除したのですが、やっぱり復活します。

攻撃されているOBは加害者家族でない、と警察がコメントしています。
OB本人が被害届を出したので、事実のようです。

それでも、ブログを復活させたのは、この警察OBの方が、
いじめ加害者を擁護し、いじめ被害者を非難する内容のブログを公表していたのは事実であり、
このことが「加害者家族ではないか」という憶測を呼んだ、というのがことの経緯であるからです。
警察OBが、加害者側にたったブログを書いていた、という事実があるのであれば、
この地域社会全体の気分空気として、「本来いじめ被害者を保護すべき公的機関までもが
加害者側に立っていた」という下記文章の論は成立すると考えたからです。

赤下線部分が修正した部分です。




一年以上のご無沙汰でブログ更新します。

原発についての国会事故調報告書と大津のいじめ問題で、「個人ではなく社会全体の病弊の結果」だから、「特定個人を攻撃しても問題は解決しない」論が、良識派からどんどこ出てきて、そういうことをツイッターでつぶやいた人の「いいこと言ってやった」どや顔ツイートがあまりに横行しているので、怒りが抑えきれなくなったので、書きます。(毎日新聞には、芸能人の親の年金受給問題に関してですが、「制度を変えるのに個人を攻撃する必要はありません」という意見広告が載りましたが。少なくともいじめと原発に関しては、違うと思っています。)


 まず、大津のいじめ事件は、ふつうの意味でのいじめ事件ではないように私には推測されます。構造的にいちばん近いのは、1999年に起きた栃木リンチ殺人事件です。ウィキペディア参照「無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警察の不手際も世論に衝撃を与えた事件。」=加害者の中に警察の息子がいたために、捜査依頼が拒絶され、そのために最終的に被害者が殺されてしまった事件です。
 今回の大津事件で、ネット上の「加害者さらし」に批判が集まっているわけですが、加害中学生本人をさらすことには私も反対ですが、「加害者を応援し被害者を非難する警察OBがいたこと」「加害者父母がPTA会長、役員などを務める地元有力者であったこと」は、事件の本質理解のために、どうしても必要な情報です。被害者の絶望と加害者の増長の背景に、本来被害者を救うべき学校、教育委員会、警察までもが「加害者の身内・味方」という驚くべき事態があったことが想像されます。(もちろん、私はほんとの事実をしるわけではないので、これはネットや週刊誌などからの情報からの推測です、もちろん・)。「いくら先生に言っても、教育委員会に言っても、警察に言っても、無駄だ。おれらの親のことはわかっているだろう」という、この絶望感、逃げ場のなさというのが、自殺と無関係とは思えません。加害者によるいじめだけでなく、この「状況としての絶望感」が自殺の原因になったと想像するのは不適当でしょうか。想像するだけで醒めることのない悪夢の中にいるような気持ちになります。


 そして、これは、原発事故の構造にもそのままあてはまります。国民を守るための規制組織が、すべて電力会社、原発推進側の「身内」になっていて、どこにどう働きかけても、原発の危険を真剣にとりあってくれない。悪夢のような何十年間を原発に反対する人たちは戦い続けてきたのだと、改めて気づかされます。

 そして、これは、「組織の問題」なのか。「文化の問題なのか」。そうではない。もしそうであったとしても、これを変えていくには、規制し生徒や国民を守るべき立場にあったのに何もしなかった「不作為」を成した一人一人の役人警察教育委員会の個人が、実名を持つ個人として指弾されなければならないと私は考えます。村上春樹の「卵と壁」で言えば、多くの人が指摘したように、壁もよく見るとひとつひとつは卵でできている。壁を構成する卵一つ一つが、匿名の卵として不作為を成すことを許してはならない。壁の中にあっても、一人一人の卵が、「成すべきことをしない」ことに対しても、厳しく罪を問われるのだ、ということを断固として示すこと。そうでなければ、正義は実現されていかないのではないですか。

今日の東京新聞夕刊に、松原隆一郎氏「原発再稼働の問答無用」の中で、「東京電力には逮捕者の一人もでなかったのだから、事故を再発しても「責任は問われない」というメッセージを個々の関係者に与えてしまうことになってしまう」と書いています。そうであってはならないのです。国会事故調の海外向けの序文が、「日本の文化が原因」としたことに、英国のメディアなどが、「国民全員が事故を起こしたわけではなく、事故を起こした個人の責任が問われないというのはまったく変」と批判したのも、同様な論旨です。

 いじめ問題に戻ると、 「加害生徒をつるしあげろ」と私はいっているのではありません。(ただし、自殺との因果関係は立証は難しいのでしょうが、「恐喝」「傷害」などの犯罪行為があるはずなので、それについてはきちんと罪を償わせる必要はあるはずです。)むしろ、不作為=何もしないことで、被害者を自殺に追い込み、加害生徒を、ここまでひどい行為に走る前に止めることができなかった、「規制し、保護する立場にあった大人たち」は、徹底的に責任を追及されるべきです。

 もし加害生徒が補導されたり、少年裁判にかけられるという形になったのに、規制し保護する立場にあった学校や教育委員会、被害届を受理しなかった警察菅などの「不作為」に対する処分が「訓告」だのなんだのという、ごく軽微なもので終わるとしたら、それは著しくバランスを欠いた、社会正義に反するものであると思います。
(ちなみに栃木リンチ殺人事件のとき、9回も捜査依頼を拒絶した警察関係者への処分は、最も罰が重い者で「たった停職14日間」の処分だったそうです)

 まとめます。
「加害者叩いている人は、自分自身がいじめをしているということに気づけ」という、薄っぺらなきれいごと、というか、粗雑な論理に説得されちゃだめだ。加害者の子供と、周りの責任ある大人を追及することは分けて考えなきゃダメ。


加害生徒について
子供については、中二くらいっていうのは、カラダはでかくなるけど、ココロはみんな「中二病」なんだよ。どんないい子でも。ぐれたり暴れたり引きこもったり家出したり、中二には、一回、なんらかの形で壊れるものなんだ、大人になる過程として。そのときに、たまたまいじめる側になってしまって歯止めが効かなくなるっていうことは、可能性として起こりうる。そういうときは、周囲の大人が止めなきゃだめなんだよ。カラダはっても、なぐりとばしてでも。
だから、加害生徒を実名をさらしたり叩いたりすることは反対。それは私刑。私刑はいけない。かれらはあくまで未熟な子供であって、自分のしたことにきちんと向き合って、矯正していく可能性は多分にあるのだから。

しかし、かれらの行為を隠ぺいし、見て見ぬふりをし隠そうとした責任ある立場の大人たちは徹底的に責任を問われるべき。(だから、「県警が捜査を始めた」って、身内に対する調査もしっかりするの?という疑問がすごくある。
) 加害者の子供は、きちんと更生できるように、いちど自分の罪と向き合う機会を作らないといけない。そのためには学校、教育委員会、警察がきちんと責任を果たさないといけない。それを果たしていない学校、教育委員会、警察の罪は深い。加害生徒が矯正する機会を奪っているのだから。この人たちのことはマスコミも世論も徹底的に叩いて良い。個人として実名を出して責任を取らせなければダメ。大人なんだし、責任ある立場にあったんだし、それでお金もらってたんだから。


最後にね。 誰もが被害者にも加害者にもなりうるのが、いじめのこわいところです。自分の子供時代を振り返っても、なんどか、ひどくいじめられて登校拒否になったこともあれば、ああ、あのころは自分はいじめる側だったなあ、という時期もあります。そして、それら以外の多くの時期も周囲にはいじめがあって、「見て見ぬふりをしていた長い期間」があります。私の手が汚れていないわけではない。そういう苦い思いがあるからこそ「誰も悪くない」がいやなんだよね。「責任ある大人が、ちゃんと子供を守れよ。」と思うわけです。


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