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農業についての、反響と、私の現状。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 前回のブログには、「都会から鹿児島に行ってお茶農家になった方」と、「日本からスペインに行ってオレンジ有機栽培をしている方」「東京から福島に嫁がれた方」「今は都会暮らしだけれど出身実家が石川県の方」がコメントをくださいました。ツイッターの方では「日本からサンディエゴにわたり、マーケティングとミュージシャンと週末農業」をしている方がDMをくださいました。(本論とは関係ないけれど、インターネットって、本当にすごいですよね。相模原の片隅で私が書いたものを、文字通り、日本中世界中の人が読んでくれている。今、あらためて、感動。)やはり農業問題が身近な方が、「ご自身の現実・実感と、私の空理空論との間のギャップ、違和感」をベースとしつつ、貴重なご意見を寄せてくださいました。ありがとうございます。
 一方、都会生まれ都会育ちの、今までのブログには欠かさずコメントをくれていた広告まわりの友人たちは、今回は、どちらかというと、静観状態です。いえ、「コメントくれよう」と言っているのではなく、やはり、「よく知らないこと、当事者じゃないことには、うかつに口をださないほうがいいよなあ」というのは、正しい判断だと思います。
 そう、原発問題と同じで、東京周辺都会に住む人間が、3.11の前まで、どんな仕組み(政治・制度・その他もろもろの利権の構造)で、東京で使う電力を、福島や新潟の人たちに押し付けてきたか、について深く考えていなかった、深くは知ろうともしていなかったように=もちろん、僕もそうだった。農業についても、なんとなくは聞いていても、自分たちが食べている農産物が、どんな政治的仕組み歴史的背景、利権の構造や、農家の人たちの負担の中で作られているのか、について、深くは知ろうとしていなかった。というのは、事実で。僕も前回内容のようなフワフワした机上の空論を書いて、みなさんの反応反論ご指摘をいただいて、それから貴重な情報もいただいて、今、もうすこしちゃんと地面に足をつけて具体的事実を確認しながら、まず学び、考えよ続けようと決意しました。

 僕には、人生の兄貴分、M先生という方がいます。その方は、わたしを拾ってくれたマーケティング会社の社長の弟分で、今は新潟で公認会計士をしていらっしゃいます。政治歴史文学芸術から科学技術まで、おそろしく多方面に造詣が深く、どんなことを相談しても、「具体的科学的実証的」に解決の視点を示してくださる、という「スーパーマルチ」な特殊能力才能をお持ちで、うちの妻などは、私が何かしようとすると「M先生にまず相談しなさい」と必ずいうのです。

 M先生は東京など全国に顧客を抱えて活躍しています。が、新潟拠点ですから、農家農業の実態についても、「農政、農業経済の歴史的経緯と制度」から「農家経営の生活的・経済的実態」まで、幅広く、把握しておられます。で、今回の私のブログについて具体的な問題点と、より正確な分析のための視座をいくつも提供してくださいました。まだ私の理解が浅いので、うまく書けないですが、原発と同じような利権の構造がそこには存在すること。分析の前提となる現状認識を、注意深く正確にしてから論じ始めないと説得力、共感が生まれないこと。 解決のための「芯」をどこに設定するか、をクリアにしないと、トンチンカンなことになって、攻撃すべきでない立場の人を攻撃してしまうことになるよ、というような指摘をくださいました。

 という課題は理解したうえで、それでも、何か、前回書いたような「ラジカルな視点の転換」がないと、農業の問題は解決しないのではないか、という点については、基本スタンスは変えずに考えていきたいと思っています。


 ごめんなさい、具体的に何をどう認識しなおし、どう考えたか、については、まだ書けないです。でも、考え、学び続けます。都会の友達のみんなも、原発について考えるように、農業についても一緒に考えてみませんか。

 
追記、たった今、報道ステーションで、福井で大規模農業に挑むも、壁に当たり、北海道に可能性を求める農家の特集がオンエアされている。それを見ながら書いています。前回私が書いたようなことに近いようなことをなんとなく言っている。もし私のブログを読んでいて、報道ステーションの特集見た人、ご意見くださるとうれしいです。
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共通テーマ:日記・雑感

農業ってなんだろう。農政の目的ってなんだろう。と考えてみた。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 今日は、日本の農業について、ずっと考えてきたことをまとめてみたいと思います。前回の子育ての話は、「子供六人育てている親」という、経験者当事者の立場で書く、ということだったわけですが、今回の「農業」というのは、私は全くの素人、田んぼにも畑にも、足を踏み入れたことすら、ほとんどない。東京港区生まれ、都内数か所と札幌大阪と相模原にしか住んだことがない。純、都会人です。あ、相模原は都会ではないか。そんな私が、農業について偉そうに何を語るのか?語れるのか?
なので、これから書くことは、およそ突拍子もない頭の中の妄想100%です。机上の空論です。「データの裏付け」もない、聞きかじり、メディアで見聞き、ネット調べものレベルの情報の中で、こねあげた広告屋の寝言だと思って、読んでください。
 今回、これを書こうと思ったきっかけは、ふたつあって、ひとつめは、先日、父80歳が東京での会合があったついでに我が家に泊まりに来て、震災原発その他いろいろ話をしたのだけれど、いちばん激しく意見が対立したのが、日本の農業をどうするか、だったこと。父は初めのブログにも書いたけれど、北海道稲作農家の息子で子供のころは農作業をずっとしていたし、北大農学部農業経済卒、役人のスタートは農林省、北海道開発庁・開発局の役人として、当然北海道の農政全体にもずっとかかわってきたので、農業政策は「専門家」。僕は書いた通り、ド素人。で、いつものように、僕の「ド素人にしか考え付かないトンデモ日本の農業改革法」は、父の役人的現実的頭の構造には、半分以上意味不明だったみたい。いちどちゃんと文章にまとめてみないと、父には伝わらないな、と思ったこと。

 もうひとつのきっかけは、一昨日、各種ニュースで伝えられた、佐渡の「世界農業遺産」認定へ、というニュース。報道ステーションでも取り上げられていて、棚田維持している高齢農家、若くして炭焼、植林などをしている人、伝統的塩づくりを代々している家族などが取材されていた。 このことを例に引きながらまとめると、僕の考えが、かなり明確になるんではないかなあ、と思った

 さて、ド素人は、まず、初歩的おばかさんな根源的疑問、問いかけから思索をスタートさせます。農業って、何?。何を目的とした産業なの?というところから、まず、見直そう。ふつう、「食糧の生産」だよね。でも、食糧の生産って、自家消費用の食糧生産?ではない。とすると?海外に売って外貨を獲得するような輸出産業にするの?でもない。日本の農業は、少数の例外を除いて輸出産業ではない。自国内消費される食糧生産が役割だから。農業の目的って、自国民向けの安全な食糧の安定的供給っていうことで、いいの?ほんと?

 戦後の食糧不足かつ工業生産輸出産業が立ち上がる前は、まさに飢餓に直面する国民の食糧生産が農業の目的だったけれど、工業製品輸出国になってからの農政の主眼は、そうではないような。日本は工業製品を輸出して豊かになっていく加工貿易工業立国なわけだから、できるだけ貿易自由化をしないといけない。貿易自由化をすると、海外の安い農産物を輸入しなければいけない。貿易自由化の中で一定の食糧生産を自国内で維持する、というのが農政の目標?貿易自由化しても輸入農産物に負けない競争力を持つようなコストで作れるような強い産業にすることが目的なの?なんで、負けちゃうような弱い農業を保護しなきゃいけないの?保守政党の支持基盤が農家だから?農家が困窮して農村から左翼運動が拡大すると困るから?農家の保護自体が農政の目的になったの?なんだかよくわからない。
 なら、食糧安全保障?もし国際関係がこじれて、もしくは日本が貧しくなって、海外から食糧を輸入できなくなっても、日本人が飢餓で苦しまないように、「日本人の食糧は日本で賄えるようにすること」。これならいいよね。うん。「国際競争力」とか「貿易自由化に耐えられる強い農業」とかよりは、こっちの方が共感できる。日本人が食べるものはできるだけ日本で作ろう。日本人は国産農産品が大好きだから、コストがどんなにかかろうと、国内でできるだけ食糧はまかなえるようにすること、それが農業政策の目標?
 
 でもね、僕は、そうも考えないことにした。
日本の農業の目的は、美しい国土風土文化生態系の保全。ということにこれからはしませんか。という、トンデモ提案。日本人が、これまで食糧生産と自然環境生態系のバランスを上手に取りながら進めてきた、日本的国土、生態系、風景景観、といったものを、できるだけ美しく健全な姿で残す。壊れてしまったものはもとに戻す。これからの農業の主目的は、美しい日本国土の維持保全再生。世界に誇る「さとやま」という、農業生産と国土生態系保全と生活文化が一体になったシステムを、そのまま後世に残していくということが、農業の「目的」。

まとめます。日本の農業についての、いくつかの視点論点

視点1工業製品輸出立国としての貿易自由化、それに伴う安い農産品輸入との価格競争の中で、自立していける強い農業に構造転換する。→貿易自由化前提、強い農業志向論
 大規模化・農業法人化・[小規模兼業農家の淘汰]

視点2 日本の農家規模では輸入農産品との競争は無理。輸入農産品との競争の中で農業が衰退し、競争力の弱い農家も生産を続けられるようにする。保守政党の支持基盤である農家の保護政策としての農政→弱い農業保護論
 農協による農家経営全体支援/支配→兼業小規模農家の保護が中心

視点3 食糧自給率が低下することは食糧安全保障上問題が大きいので、どのような形であれ、食糧自給率を上げるよう、国内農業は保護育成すべきである。

視点4 有機栽培・契約栽培・産直・地域ブランド化など、大規模化よりは、より自然回帰安全高品質のこだわり農業で、ネット通販など新しい直接的流通を介し、都市高感度エコ志向層や、中国はじめ新興国の高額所得グルメ層に向けた新しい農業に向かって進化すべき。→脱農協・アンチ大資本アグリビジネス型・日本的高付加価値農業志向

視点5 日本文化は自然と農業生産をひとつの生態系システムとして引構築してきた。「サトヤマ」など。農業は単なる食糧生産産業ではなく、生態系・文化・などを保全する多面的価値を持つ産業。生態系文化伝統を含む日本の国土維持再生産業。

政治経済的課題、政治・役所の議論では、視点1大規模化経営強化と視点2中小規模兼業農家というマジョリティ保護が対立しつつ、どちらを強化することが視点3食糧安全保障につながるか、が主論点。そうした役所行政から離れたところで視点4生産者-消費者の直接ネットワーク化アプローチが拡大のきざし、というのが、日本の農業周辺でのここ20年くらいの動き。視点5のような視点は、農業内部からではなく、環境保護運動、生物多様性など、どちらかというと、農水省というよりは環境省的視点で論じられてきた。

で、私の提案は、大下剋上。農業とは視点5のために存在する。と、まず価値転換。国土文化生態系保全事業である。そのひとつのアウトプットとして、視点3 食糧安全保障を実現する。また、生産された食糧は視点4のような消費者との関係を構築するのが望ましい。
 視点5を上位に4と3を進める。のが「未来の農政」の基本。

視点2で見られるような兼業農家保護政策はとらない。2には反対。

視点1については、視点4.3と矛盾しない法人化は進めるが、米国アグリビジネスの大規模参入のようなことは許さない。モンサントの遺伝子組み換え種子認可、などというのは絶対反対。です。

あー、なんか抽象的かつ政治的になってきて、「わかりにくい、長い」という皆様の批判の声が聞こえてきました。話題をちょっと変えます。


◆「どうしたら農家の高齢化や、兼業の増加、耕作放棄地の増加を防げるか」を、「就職問題」として論じる。

 古来、といって、いつ以来なのか、よくわからないが、ずっと、農家は「継ぐ」もので、「なる」ものではない。日本だけでなく、世界でも大抵、そう。親を継ぐ、というのがいちばん正当な農家へのなり方で、親が農家じゃないのに「農家になる」ということのハードルは、結構高い。というか、めちゃくちゃ高い。
いやいや、最近は都会の生活から農家になろうというIターン新規就労の人も増えているよ、というけれど。あるいは、農業法人も増えてきて、そこへの「就職」という形で農業を仕事にする人も増えているよ、というけれど、相変わらず少数派。都会の大学生が「将来どうしよう」と言って、今まで縁もゆかりもない土地で、「農家になる」っていう選択をするのは、すごく難しいでしょう。

 農家がほぼ「継ぐ」ものだとすると、もし子供が運よくみんな「継ぐ」でも、農家数は横ばい、「継がない」が出ちゃうと即、高齢化決定、やがて減少。なんだから、農家の減少、高齢化は「農家は継いでなるもの」ということの論理的必然なのだ。

 いままでは、「いかに継がせるか」というのが、農業保護振興の基本だったような気がするのだけれど、「継ぐ」の保護が「なる=新規参入」の障壁になるような施策には反対。(視点2 中小規模兼業農家保護政策に反対なのも、「継ぐ」保護施策が「なる」参入障壁になるから)。「農家になる」を、いかに魅力的な進路選択先とするか、というふうに変えなければ、日本の農業の未来はない。

(もちろん、気合と愛情の入った、本格派農家の、「継ぐ」方を否定しているわけではないです。どんな世界でも、本気のプロの親から、人生かけて継いだ子、というのは強い。---私のイメージの中では、柔道オリンピック選手の息子で、オヤジが取れなかった金メダルを取ることに命をかけている兄弟、というのが具体的イメージとしてあるのですが。そういうかんじ-----その人たちは、おそらく農家の中の超エリートとして、日本の農業をひっぱっていくリーダーになっていく人たちだと思います。尊敬し応援しています)

とはいえ、日本の農業を新しい時代に進めるには、
基本コンセプトとして

農業は「継ぐ」から「なる」へ。

という転換が必要だと思うのです。

で、「なる」の間口をどう広げるか、なのだが。これは、とにかく「複線化」する。どれがいいか、をひとつに決めるのでなく、複線化する。具体的に言うと、の前に、

たとえば「教育」に携わりたい、なんか「教師」のようなことをしたい、と若者が思った時には、以下のようにいろんな選択肢がある・

教職課程を取った上で、
「公立 教師=地方公務員になる」
「私立学校の 教師」になる。
教職なんか取らずに、「塾 講師」「個人 家庭教師」になる。
教育関係の会社、ベネッセみたいなところに就職する。
上記いろんな経験を経たうえで、「私塾経営」を始める。
というような、いろんな道があって、相互に人材交流しつつ、それぞれが補完し合うような日本の教育産業従事者の体系、というようなものを、形成している。

農業でも、おんなじようないろんな「農家になる」道を確立する。それだけ「いろいろ潰しが効く」感じがあれば、「継ぐじゃなくて農業方面に進もうと思う」というのが、「見も知らぬ村落共同体に一生根を下ろして、その人間関係の中で地道に生きる」ことだけというイメージを打破可能ではないかしら。
具体的に言うと、初めて農家になろうとする人が、どこかの地方自治体に申し込んで、地元農家の人や農協や、地元役場の人に営農指導してもらいながら、がんばる、というのは、なんというか、教師になりたい人に、いきなり、「教室は用意するし、指導法もちょこっと教えてあげるから、塾経営をはじめなさい、」と言っているくらい、ハードルが高いかんじがする。それ以外の道も、いろいろあるよ、ということを見せられないかしら。
やっぱり初めは「農業法人」への就職。それだけじゃなく「農家の国家公務員化」=国土環境保全・文化継承専門職として雇用。というのができるのが、いちばんいいと思う。なんか、「消防士」「自衛官」のような、からだを張って国土を守る感じと、「博物館や図書館の司書」のような文化保護継承の仕事を両方の性格を併せ持つ、すごく尊敬される仕事になる感じがするのだが。後継者不足の棚田維持とか、里山維持の仕事は、基本、全員、こういう専門職的国家公務員化するのがよい。と思うのだが。どうでしょう。

そしてこの「民間会社サラリーマン農業者」と「国家公務員農業者」から、腕のいい人が独立して「フリーランス農家」になる。そしてフリーランス農家の中でも腕のいい人や野心のある人が「フランチャイズ型・教育学校型農業者」となって、独自のノウハウを弟子に伝えて拡大していく。

ここで、「そんなことはもうやってるよ」と「そんな風にはいかないよ」という、専門の方からの両側からの突込みが聞こえてきました。
ああ、もちろん、こうならない理由は「「土地は生産手段であると同時に、土地それぞれに個性魅力困難さがすべて異なり、であるがゆえにこそ、愛着を感じるもの」。だから、会社に就職、みたいな部分的かかわりではすまない。また、育てる「土地 田畑の土壌・自然環境・植物動物」すべてが丹精込めた「子供」のような愛着の対象になる。という特性があるために、まさに「土着的」になる傾向があることは当然。
その愛着を否定しないが、「土着」を前提とすると「継ぐもの」としての農業に回帰してしまう。
さて、ここまで考えてくると、農業という行為は、生産手段を愛着の対象に替えていく「手塩にかけた」営みであるがゆえに、土地への固着を生み、「継ぐ」意志を発生させる、という構造が明らかになる。農業は「継がせたくなる」事業なのだな。

 歴史に思いを馳せるならば、近くは大戦後の「農地解放」は、小作農の、「生産手段としての自分の田畑への愛情」を「土地保有」と一体化させる施策であったがゆえに、せっかく手にした土地は自分の子供に継がせたい、という必然的欲求の対象となり、子どもが継がない場合は自分が死ぬまでは・・・という土着固着・衰退のモーメントを内在させた政策であったことがわかる。むむむ「継ぐ」から「なる」への転換は、そういう困難さを伴うのだな。

 ◆ここで、また話は飛躍します。千数百年、律令制度の昔まで、大ジャンプ。

 「地主の占有→小作による耕作」vs「自営農家が土地を保有する」という形態の他にもうひとつの土地と農家の関係があるのは、実はこの方が、起源が古く律令時代の「公地公民」。 (公民はもちろん公務員じゃなくて、天皇の民、ということだけど。)

 公地公民→三世一身の法→墾田永年私財法→荘園の成立→、という、中学受験的歴史の知識がよみがえってくるわけで、開墾した土地は自分のものにできるというインセンティブがないと、開墾が進まなかったんだなあ。開墾し営農する土地を私有し、子どもにも継がせたいという欲求がこの年表からあふれ出してくるなあ。

で、また千数百年時空を移動すると、ロシアで社会主義革命って、農奴解放が不完全で、保守的かつ悲惨な状態の農民がたくさんいたことと、関係あるんじゃないの?ソビエトの国営農場の仕組みは、農奴制からの移行としては受け入れやすかったの?みたいなことを漠然と考える。公地公民と、国営農場。農地の私有・継がせたい欲望の「前と後」について、考える。

 農業を国土文化保全事業とみなし、国家公務員化するという構想は、「農地国有化」という、社会主義革命のようでもあり、「公地公民」という律令政治への回帰のようでもある。という左翼だか右翼だかよくわからない結論になだれ込む。

というわけで、この農業について考える、も実は、「国を愛するとは、国土の自然、そこに営まれる伝統的生活と生産のありようを愛する、それを支えるこの国の民を愛する」ということにほかならず、右寄りの思想の居場所のように一見見えつつ、それを制度としてつきつめると、「保全されるべき農地は、個人保有→子供に残す私有財産」であるよりも、国有化され、従事者は公務員であるほうが自然、という制度上の「社会主義農場との類似化」に着地する、という不思議な結論にむかっていく。

実は、父も、「高齢耕作放棄」になった土地は、補償はしつつも、いったん国に返納し、再度、営農する個人/法人に払い下げる。山間地で耕作放棄になり、営農希望がない土地は植林し、自然に返す。「棚田」などの人手の掛かる営農を無理して継続する必要はない。針葉樹などの林業的植林ではなく、原生生態系に復帰させるような植林事業を公的資金で行い、100年スパンでは自然に戻す、というのがよいと考えているようだ。「開発」に生涯をかけてきた父の結論が、開発ではなく、「自然に返す」というのも、なんとも感慨深いものがある。日本の農業の高齢化もそこまできているということだ。で、この「自然に返す」という事業は、やはり国の予算で行うのなら、それは国家事業として国土自然回復を行うということで、それには私も賛成なのだ。

◆ ここまで、延々考えてきたうえで、佐渡の世界農業遺産認定、というニュース、
評価された固有の農業の、現状は、
① 棚田千枚田→高齢化で後継者難。
② 炭焼き→里山、広葉樹植林など、新規営農者による「農家になる」人により継承されている。すでに「継ぐ」から「なる」へのシフトが始まっている。
③ 塩づくり→後継者問題は抱えつつ、昔ながらの方法を守り続けている
今はビジネスとしてはぎりぎり。このまま放置すると消えてなくなる危機。世界遺産化でブランド化すれば、ビジネスとしても成り立つかも、という記事なのだけれど、ビジネスとして成り立たなければ後継者がいなくて、20年後には消え去ってもいいの?
よくないでしょ。だとすると、こういう伝統農業には「なりたい人を呼んできて、国家公務員として給料だしてあげて、技術を伝承してもらう」「土地は、営農が公務員に引き継がれた段階で国有地化する。」ということにしないと。単に「血縁者による継承」にだけ期待していたら、こんなもの、絶対もたないよ。

ということで、私の考え「棚田、里山」を保全するにしても、父の考え「後継者がいないんなら、荒廃放置せず、自然に返す」にしても、それは国家予算で事業化すべきこと。ではないだろうか。

 東北の震災からの復興と、このことがどういう関係になるのかは、まだよくわからないけれど。何か関係あるような気がして、ふと気が付くと、農業の意味の転換、ということについて考えています。

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