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「教育の義務」と、親として生きる、生き物として生きるということ。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 今回は、今の状況とも関係あるけれど、もうすこし、状況に対して普遍的な、そして、ごく個人的な、ずっと考えていたとについて書きます。それは、「親」であるということについて。「親」という生き方について。

 今、ツイッターを読んでいて、いちばん共感できるのは、「子供を抱えて、避難疎開するべきかどうか悩んでいる親」として発言されている方々。お母さんが多い。福島や茨城の、本当に放射線量の高い地域の方はもちろん、首都圏の千葉埼玉東京神奈川で、夫やママ友たちはわりと無関心で、「まあ仕方ないか、気にしすぎても、かえって悪い」みたいな周囲の中で、食べるもの、給食の牛乳、外で遊ばせること、そういうことすべてに気を使って、疲れ果てて、自分と子供だけでもどこかに避難したいと思い悩みつつ、動けずにいるお母さんたち。
 私も、前のブログから、ずっと何も書けなかったのも、原発の状況の「お手上げ」化と、放射性物質の拡散、二次的三次的ないろんな形での生活環境への侵入が広がってきて、いよいよ本当に小さい子供だけでも避難させるべきだ、との思いが強まる中で、6人いる子供たちそれぞれにベストな形はどうあるべきかを考えて、毎日毎晩心が揺れて、まとまった文章を書けずにいたから。そして、このことについては、いまだ結論が出ていないのだけれど。だから、そのことについての具体的なことは、また結論が出たら報告するとして、今日書こうと思うのは、「親として考える、あるいはもっと大きく親として生きる」ということについて。

 まずはじめに、本音を書こうと思うので、それに対しては批判があるだろうことは、覚悟はしているけれど、はじめにいくつか基本的スタンスを書いておきます。子供がほしくてもできない人が、僕の友人にもたくさんいて、そういう方たちのことを傷つけたくはない、それから、友人、仕事仲間にも、子供を持たない生き方を選んだ人たちはたくさんいて、そういう人たちを非難批判するつもりは全くないということ。むしろ、子供をもたないという生き方を、主体的にしろ、結果としてにしろ生きてきた多くの方たちと、私のようにほぼ人生を子育てに費やしてきた人間が、すごく遠くにいるのだけれど、お互いを敵視せずに分かり合えるようにするには、どうしたらいいか、ということをずっと考えてきて。そのうえで、子育て親側が、子供を持たない人生を生きてきた、同年代の「大人」に対して、普段は遠慮して言えないことを、書きたいと思います。

 学生時代や若いときには、すごく仲が良く何でも話せて、いろんなことに共感できるな、と思えた友達のうちの何人かは、「結婚して、ほしいんだけれど、子供ができないんだ」だったり、「仕事ものすごくがんばっているうち、結婚は縁に恵まれず、結局子供は持っていない」というような人生を送っている。
 私は25歳で親になって、6人の子供を今でも育て続けていて、もう人生の半分を親として、ほぼ、ただひたすら、子供を育てるために生きてきた。そして今もまだ子育て真っ最中という人間と、「子供ができない、ということを受け入れて、あるいは子供を持たないということを自ら選んで、そのうえで人生を充実させようと生きてきた友達」との間には、あまりに大きな隔たりが25年の間にできているなあ。それは悲しいというよりは、「さびしい」という感覚なのだけれど。その「さびしい」「かなしい」を乗り越えて、未来について一緒に考えるために必要なことを考えた。、この震災後、他のいろんな条件もあるけれど、子供のあるなしで、「ものの感じ方考え方の違い」がすごくあるな、と強く感じたので。勇気をもって書いてみました。

それから、ツイッター上でいつも拝見している、ご自身は子供はいないけれど、福島の子供を救うために積極的に活動したり発言したりしているみなさん。みなさんのことはすごく尊敬しているし、感謝しています。そういう皆さんから見て、この文章、「こういうかきかたはまずいよ」というところがあったら、ぜひご指摘ください。


「教育の義務」と、親として生きる、生き物として生きるということ。

利己的遺伝子について、ドーキングの学説をかなりわかりやすく展開してベストセラーを書き、最終的にはトンデモ的境地に達してしまった、と批判もされた竹内久美子さん、私、けっこう好きなのである。生き物は遺伝子の乗り物であり、生き物の行動は遺伝子の生き残りに有利な戦略に従って決まっている、という説に、基本、賛成なのである。だって、自分と妻の出会い結婚から子育て行動って、利己的遺伝子の生き残り戦略として考えるとすごく納得できるから。

私と妻、は高校の同級生なのだが、かなり対照的性格と体型をしていて、(わたしチビ・やせっぽち、頭でっかち「うらみ魔太郎」みたいな典型的ガリ勉君体型で、性格的には攻撃性の強い孤独癖・自己中心的変人。一方、妻は、まんまる肥満でみるからに肝っ玉母さん、高校生なのに京塚昌子みたいと言われていたり、口の悪い友人に、妻と付き合ってるといったら、「菩薩ラブ」だもんな、と言われたことも。性格もすごくおとなしくて面倒見がいい良妻賢母になりそう。丸顔ドカ腰体型。外形も性格も高校時代から子だくさんお母さんになることはかなり固く想像できた。)なので、高校時代の友人たちからは「ある意味お似合い、ある意味、変」と思われていたようなのですが、連れ添って25年、付き合い始めて30年を超えてみると、ものすごく似たもの夫婦であることが明らかになってきた。深いところでの共通点というのは、「ずぼらで強欲、そして、生き物としての欲望に正直」ということだ。できた子供は全部育てたい。育てた子供は全部最強にしたい。最強の子供をたくさん作って、自分の遺伝子を生き残らせたい、という欲望にものすごく正直に生きてきたら、今のような生活スタイルになった。そもそも、お互いの体型性格についても、おそらく遺伝子生き残りの戦略的にお互いに利用価値が高いと判断したに違いない、と思うとすごく納得できる。六人子供を作るだけでも強欲だが、全員を「最強」に育てようという強欲さにおいても、とんでもないよくばりなのである。子ども「最強化」ということに、一致団結して私と妻は取り組んできて、そのことに迷いがなかった。生き物として、遺伝子の乗り物として、遺伝子を未来に運ぼうという欲望において、私と妻は、深く一致し、協力してきた。というのが、私たち夫婦の結婚生活、家庭生活の本質だと思っている。

子どもを最強に、というのは、抽象的目標ではなく、かなり具体的に、「ケンカしても強く、勉強競争しても強く、人間関係にもおいては敵を作らず、そして当然異性にもてる。そうでなくては遺伝子は残せない」という目標として追求されてきた。なので、子どもたちには柔道ラグビー水泳などをもれなくやらせ、すくなくとも上3人の男子たちは、柔道ラグビー大激戦区の神奈川県において、県で1番にはならなかったが、2番3番にはなって、全国大会にはでられなかったけれど関東大会出場、くらいの「ケンカして強い子」には育った。残念ながら、「異性にもてる」という点では苦戦しているようだが。そこアカンかったらアカンやないかい。そこのところは今後の課題だ。みんながんばれ。

子どもを「私と妻の遺伝子の乗り物」としてみると、すごく興味深い。みんな私に似ているけど、みんな、妻にも似ている。小さいころすごく妻似で肥満でどんくさいやつだと思っていた息子が、思春期になり顔も様子も自分にどんどん似て来たりする。私の完全コピーより、妻との合作の方が、生き残り戦略上有利な生き物になっている。自分の子供が自分を超えてどんどん強くなる。カナヅチの私の息子が、みんな水によく浮く。個人メドレー全種目で、いつまでも泳げるようになる。ひ弱ないじめられっこだった私の息子が、自分の二倍もあるやつをぶん投げる「地元じゃ負け知らず」の柔道少年になる。その恍惚たるや。

だから、今、原発のことでものすごく腹が立っているのは、政治がどうこうとか東電がどうこうとかいう左脳レベル社会政治レベルの話ではなく、単純に、遺伝子の生き残り戦略に著しい障害が生じていることへの、本能、遺伝子生き残り戦略上の不都合に対する怒り、だと思っている。ここまで苦労して、私と妻の遺伝子をいろいろ混ぜ合わせて、生き残り有利な生き物にして、未来に向けて残そうと努力してきたのに。台無しにする気か。子どもが若くして死んじゃったらどうする。子どもが不妊になったらどうする。子どもの結婚相手がみんなガンや不妊になったらどうしてくれる。遺伝子が未来に続いて行かなくなるじゃないか。バカバカバカ、という、ほんとに本能的怒りなのだ。

 この前のETV特集で、いちばん涙が出たのは、農家の若いお父さんが、「普通に幼稚園にやって、普通に小学校にやって、それだけ(の望みが、全部だめになって悔しい)」といって泣いたシーン。であって、犬のパンダが飼い主を追っかけたシーンじゃない。犬も猫もかわいそうだけど、ペットをかわいがるのと子供を育てるのは、絶対に違う。子どもができない人が、ペットをかわいがるのはいいと思うし、子ども育て終えた人がペットを育てるのもいいと思うけど、子どもを作って育てるべき年齢の健康な人が、本来子育てにそそぐエネルギーをペットを育てることにつぎ込んで満足、っていうのは、ぼくは反対なの。犬は、犬の遺伝子を未来に残すだけで、あなたの遺伝子を未来に残す乗り物ではないからね。でも、その人の遺伝子がそう命じて、自分の遺伝子生き残らせなくていい、と言っているのなら、まあその遺伝子君的にはいいのか。いいんだな。人の遺伝子的欲望に口を出すのはよそう。犬や猫をかわいがって、自分の遺伝子は残さないという利己的遺伝子戦略ってどういうことなのだろう。
仕事が遺伝子、という人はいるみたい。生物的遺伝子ではなく、文化的遺伝子ミームとして、自分の存在を未来につなげようという人。仕事がすごくできる人には、こういうタイプの人がいるように思う。その人が幸せなら、別に他人が口をはさむことではないね。

ただ敢えてここでこういうことを書くのは、「仕事が遺伝子」主義で、自分の子供、生物学的遺伝子は残さない、という生き方を選んだ人の中に、「子育てする親」に対して、すごく意地悪、冷ややか、批判的な人がいる、というのも事実だから。子どものいない女性上司や同僚は、子育てしている女性同僚・部下に対して、きつく当たる、内心ひどく不満をもっている、というのは、日常的によく見ることだから。仕事がすごくできて、犬猫かわいがって、自分の仕事と趣味に生きているあなた。が、どんなに素敵なライフスタイルをもっていても。そして、あなたの隣にいる子育てママが、どんなに「自分の子供のことしか考えていなくて、自己中心的で、ダサくて、面倒くさい人」だとしても、私は、二人が対立したら、子育てママの肩を持つよ、ということを言いたい。なぜなら、その人の方が、利己的遺伝子生き残り戦略にのって、頭では考えてなくても、切実に自分の行動の、未来に対する責任を感じていると思うから。
子どもを持たない人から、子育て親に対してされる「自分の子供の事だけしか考えていない」という指摘は、正しいと思う。私は、自分の子どもさえ元気に大人になって、楽しく暮らせて、ちゃんと結婚できて、子どももできるようになるなら、それでいい。そのためになら誰からどんな批判をされてもなんでもするよ、というのが本音だ。だから、地震直後、関西にあわてて避難したことを、後で人から批判されても、痛くもかゆくもない。子どものない人になんて、この気持ち、わかるわけがないと思ったし。
自分の子供以外の子供を大切に思うのは、「その子がいてくれることが、自分の子供が楽しく強く生きてい、結婚して子供を育てていくのに必要な存在だ」(心の成長に必要な親友だったり、柔道やラグビー強くなるのに必要な先輩後輩ライバルだったり、将来結婚して子供を産み育てるパートナーだったり)という計算が働くからだと思っている。もちろん明確にそんな打算的なことを考えるわけではないけれど、きっと私の中の遺伝子はそういう計算をしている。子育てしていれば、どうしたって、自分の子供がかわいい。それは理屈ではないのだ。
 「福島の子供を救え」ということにすごく共感して一生懸命になるのも、神奈川県にいる自分の子供の安全を確保するには、福島の子供たちの安全を確保するように政府も世の中も変わらないと、自分の子供の安全も確保されないからだと思う。「名前も知らない福島の子供」が大変だ、という抽象的な理由ではない、どの親も、自分の子供を守るために、遺伝子の命ずるまま、本気で怒ればいいと思う。「わが子が大事」という気持ちで、親たちが連帯共闘すればいい。利己的でいい。思い切り利己的に怒ればいい。私らは利己的遺伝子の乗り物なのだから。自分の子供を命がけで守りたいから、だから福島の子供を守りたいのだ。
私が原子力に対してはっきり反対なのは、利己的遺伝子の生き残り戦略から見て、まったくメリットがひとつもないから。遺伝子にこれだけ長期にわたって、直接的ダメージを与えるものは、ほかに全くないとはいわないけれど、少ないよ。あー、だから、私は喫煙もしないし、飲酒もしないし、農薬・化学肥料にも反対だし、ディーゼルエンジンの粉塵にも、高圧線や携帯その他の電磁波にも反対、遺伝子損傷リスクを高める人工的なさまざまなものには基本反対の立場なの。放射能原子力だけを目の敵にしているわけではないです。

 この文章は、子どもを持たない大人を批判する目的で書いているのではない。むしろ、お願いの文章。子どもを育てている親は、ものすごく利己的だ。その利己的な、あなたたちから見るとむかつく、子育てで頭がいっぱいで、利己的で独善的でうっとうしい子育て中の大人について、どんな気持ちでいるか、わかってほしいと思って書いている。
子育て真っ最中の親、と一般化したら悪いな、すくなくとも僕は、本当のことを言って、自分の子供のことしか考えていない。自分の子供の今と将来のことしか考えていない。未来のことを、自分の子どもが生きて、結婚して、そのまた子供を育てる時間空間としてしか考えていない。その未来の時間空間が、子どもにとって、健全で快適な環境であってほしいとしか考えていない。そのことを自分の子供のこととして切実に、思い描いて心の底から願っているだけだ。そのことを共有できないなら、私は子どもを育てていない大人のことを、悪いけれど、「未来を真剣に考える仲間」としては感じられない。まして、子どもを育てているのに、そのことを切実に想像できない大人がいるならば、私はその人のことを、親として、大人として、人間として認めない。東電の偉い人や役人が、自分の子供だけ関西に疎開避難させている、と言って批判する人がいるけれど、私は誰の子供であっても「子供を疎開させること」を批判はしない。親なら当然そうする。そうではなくて、自分の子供を疎開させるほど危険を認識しているのに、福島の基準を変えないから。福島や関東の他の子供たちにも危険を知らせようとしないから。そのことを批判する。ここのところをちゃんと分けて批判しないと、また、震災直後みたいな「子供を疎開避難させることが卑怯」みたいなわけのわからないことになるから。ちがうよね。今、危険のある子供たちは、みんな親の貧富や立場を超えて、避けられる危険は、ちゃんと避けられるようにしてあげないといけないのだ。


ここから、ちょっと話が抽象的なことになっていくのだけれど、今回の震災が起きるずっと前から、「教育の義務って何?」ということについて、ずっと考えていた。
人が、特別に知的だったり倫理的だったり宗教的だったりしない、普通の人が、ある切実さをもって、未来を考えるためには、子どもを真剣に育てることが必要だと思う。もし、生物学的に子供ができないとしても、「この子が生きる未来」と感じられる誰か具体的な存在と、深くかかわって生きることはできると思う。ペットをかわいがるのとは違う、「人間の文化を担っていく次世代の子供」と、深くかかわることを、大人の義務と考える必要があるのではないか。そもそも日本国憲法は、国民の三大義務として納税・勤労とともに、「教育」の義務を掲げている。子どもを作らない人だけ、子どもができない人だけ、「教育の義務」が免除されているのはおかしい。あらゆる国民は次世代の国民の再生産に対して「義務」を負っているはずだ。子育てをしている人間は、勤労、納税の義務を果たしながら、無償どころかやたら金と手間のかかる「教育」の義務も果たしているのだ。自分で子供をつくらない、あるいはできない大人たちも、「その分税金が高い」という納税義務の負担増だけですませる現行制度はよくない。なぜなら、具体的切実な「未来を担う子供」を通じて考えることが、未来社会と自己の行動のつながり、責任を意識する、最も有力有効な道だから。(それだけとはいわないけど、もちろん)。子どもなしで「自分がもう生きていない50年後100年後の未来に自分が責任を負わねばならない」ということを真剣に切実に考えうる人は、どれくらいいるのだろう。特別に知的に高度な訓練を受けてきた人、倫理的または宗教的に深く考えて生きてきた人、子供以外の「過去からひきつぎ、未来につなげるべき何か」と深くかかわって生きてきた人、そういう人はたしかにいるだろう。「私は未来への責任を、子どもがいないぶん、より強く果たそうと生きている」という方、ごめんなさい。あなたがそう生きているならば、私はあなたのことを批判しようと、この文章を書いているわけではありません。でも、そうであっても、あなたが果たしている国民の三大義務としての「教育の義務」ってどういうことですか。仕事の上で部下や弟子を教育することですか?それは勤労の義務の範囲におさまってしまっているのではないですか?
 「教育の義務」というのは、起源としては「子供を労働力としてこき使う親」という前近代の子供=労働力因習、から子供を守るために生み出された考え方であることは承知しているけれど、現在の少子高齢化の社会では、「子供を持たない大人にとって、教育の義務って何?」という意味付けを変化させたらいいのではないか、という提言。それは、納税勤労の義務では代替できない、「未来への責任を、具体的存在、いのち=子どもを通じて自覚するための義務」として、制度化すべきだという提言。すべての大人が、真剣に「教育の義務」ということに向き合ったなら、福島の校庭の問題も、子どもに、高濃度汚染地域で取れた、大幅に基準を緩めたがゆえに「基準内」に収まっている「グレーゾーン」食材を給食に使って「放射能に対してがんばらせてしまう」施策をとったりすることも、いかに馬鹿げた行為であるか、すぐ気付くと思う。
 マーケティングの仕事をしているので、いかに「結婚しない人」と「結婚しても子供をもたない人」が増えているかは、よくわかっていて、そういう人が、消費の場においても、政治的意思決定の場においても、重要な勢力として拡大していることは理解している。それから、犬猫ペット好き人口が、子供育てている人口より増えて多数派になっていることも知っている。こういうことを書くと、そういう多くの人たちを敵に回すことになるだろうな、ということは自覚している。それでも、「子どもがいなきゃわからんことがある」みたいな荒っぽい話をしたいわけではなく、「子供を作る作らないは個人の選択の自由」ということを認めたうえで、それでも果たすべき日本国民としての「教育の義務」ということについて、新しい捉え方をしていけないか。そのことが、日本人が、未来に対して責任をもって考え行動していく、新しい基盤になっていくのではないか。(逆に言えば、教育の義務について、深く考えない人が多いということが、未来に対して無責任な大人、政治がはびこることの元凶なんではないか)。そんなことをまた、みなさんと一緒に考えていきたいです。

初めにも書いたけれど、この文章が「子供が欲しくてもできない人を傷つける」ということについては、すごく考えたけれど、それでも、そういう方たちも一緒に考えられる、今の大人と、未来を切実につなげる契機としての「教育の義務」の意味の深化、ということについて、問題提起をしたいと思いました。もし気分を害された方がいらっしゃったらごめんなさい。
特に利己的遺伝子の話は、「子供ができない中で、養子を育てていらっしゃる方」の、遺伝子がつながっていなくても、子どもを愛し切実に未来を考えていらっしゃる方に、失礼な物言いになっている、ということも自覚しています。むしろ本当は、教育の義務の深化、ということにおいては、養子を育てられている方こそ、その理想的実践者だと思います。ただ、なんというか、子どもを思うということの中の、「動物的本能的な部分」ということが、私と妻にとっては、とても大事なことである、というそのことは、今回の震災と原発事故を通じて、よりはっきりしてきた。ああ、この怒りと悲しみは、ケダモノとしての怒りと悲しみだったのだ。前のブログ以降、ここのところかんがえていたのは、そういうことでした。


 
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官僚の無謬性って・・・・ 菅総理の浜岡原発停止要請についての議論に思うこと [文学中年的、考えすぎ的、]

直接的時事テーマでは書かないぞ、と思っていたのですが、このことについての議論の混乱の仕方の頭悪さと悪質さに頭が変になりそうになったので、書きます。

①安全上、浜岡原発は、とにもかくにもすぐに止めた方がいいかどうか、という議論と、
②菅総理の「要請」という法的根拠のないお願い、という手法に対する批判と、
③浜岡止めた時に電気がこの夏、足りる足りない、
という議論が、区分されないで、ごっちゃごちゃに議論されています。あるいは、どこかの主張を通すために、他の論点をその根拠として使う、という、おそろしく頭が悪い、または意図的悪質な論陣が方々で張られていて、もう怒りで体調まで悪くなってきました。

私の立場は
①安全上、浜岡原発は即時停止すべき。ひとこと追加しておくと、福島地震の揺れに対しては原子炉臨界停止には成功して、その後の冷却が津波により不可能になったとして、浜岡でも臨界停止は絶対正常にできて、冷却するための電源などの安全が津波に対して危険、という福島同様の問題だ、とすりかえて理解しようとする人たちがいるが、災害は同じ形では起きない。予想していない形で起きる。浜岡は津波に対しても弱いが、震源距離が福島より近く起きる可能性も高く、揺れ事態で原子炉の臨界停止がきちんと作動するかどうかも保証できない。地震に対しても津波に対しても極端に危険度が高いから、即刻停止して、対策をすべき。また、対策するから再開していい、と私が考えているわけではなく、本来、このまま廃炉にすべきと考えているが、廃炉まで時間がかかる中で、津波対策電源対策は当然進める必要があるから、とにかく止めて対策を進める。その間に浜岡に対して、または国のエネルギー政策全体の見直をする中で、浜岡は廃炉という決定に向かうべきと考えている。

②菅総理の要請という手法は、法的根拠がない官僚の行政指導と同様のものなので、好ましくはない。ここからが本論でいちばん言いたいところであるが、本来であれば、これまでの浜岡に関する行政の許認可や指導の不備を認めた上での要請であるとして、「中電の責任だけではなく、許認可した国の政策決定自体を再検討、見直すから止めて」とお願いすべき。しかし「官僚の無謬性」原則からして、こんなことを言うことを役人がOKするわけないから、不利益を全部中電に押し付けるような、わけのわからない「要請」になったわけで、批判されるべきは菅総理の手続きの背後にある「国、役人は間違っていないけれど、中電、浜岡止めろ」というものの言い方。
福島で明らかになったのは、一営利企業である電力会社にとって、原発というものは、安全管理上も、経営リスク上も手に余るものである、ということ。浜岡で事故が起きて首都圏に放射性物質を拡散させる事故が起きた時、中電も東電同様、単体で補償できない、国に支援を求めることは明らか。そうであるならば、本来は原発での発電という事業は、一営利企業の事業として成立しない。たとえば、損害保険会社は、原発事故に対する保険を、おそらく日本の電力会社に対しては引き受けない。引き受けるとすると保険料が高すぎて、それを料金に反映したら事業として成立しない。つまり、「国が許認可をし、地域ごとの営利企業に運営を任せる」という形で原子力発電を進めるという政策自体が根本的に誤り。ということを役人は認めるわけにはいかない。役人は間違っていないけれど、浜岡は止めたい。という矛盾の中で、それでも浜岡を止めようとすると、菅さんの、ああいう、法的根拠のない要請をするしかなかった、というのが本当のところだと思う。菅さんの手続き上の不備は、それ自体として責めるのではなく、自民政権と官僚が進めてきた原子力発電-電力行政のひずみの結果として批判されるべきもの。

③夏場の電力不足について。浜岡二基分の発電量が減ったことは事実なので、その分をどうするかを、具体策として示す必要があるだけ。自家発電設備のある企業からの拠出買電をどうするか、どの程度の節電を企業生活者にお願いするか、それが、浜岡の決定で、どの程度増加したのかを、菅さんはきちんと国民に話せばいいだけ。それをまだ言えていないのは落ち度だから、きちんと話しましょう。「浜岡二基を止めるということ」の「夏場の電力不足へのインパクト」をどの程度のことだ、と分析し、どの程度の負担増や代替施策をとるかを、菅さんは国民や企業に話す必要がある。

 役人は、すくなくともその時点では正しい手続きと有識者専門家関与者の幅広い意見と法律に基づいて、正しいことをし続けてきているから、「そのとき、そのときにおいて、役人は絶対、間違っていない、間違わない」という無謬性原則は、そうあるような目標としては役人がこだわるのは正しいと思うし、役人の勝手だと思うけれど。
 でもね、時代が変わり科学的知見が変わり、予想しない事態が起きた時に、「昔間違っていなかったから今も間違いないから、決めたことは変えない」という役人の「無謬性→行政の連続性」原則というのは、原理的に誤っているよね。誤謬性100%だよね。福島の事故が現実に起きてしまった現在、浜岡を今のような形で許認可したことが「今の判断として間違いでした」と認めることは、無謬性を貫くためにも必要なんではないのかね。間違いを認める方が正しいということが、ごく常識的な判断としてあるんではないのかね。「手続きにまちがいがなかった」ということと「結果として判断があやまりだった」ということは論理的に矛盾しないんじゃないのかね。どこまでたっても表に出てこない、役人のみなさんに、残念ながらこの国も、菅政権も、実効的には支配されているのだよなあ、という無力感をひしひしと感じつつ。であるならば、もし一人でも役人で、このブログを読んでいる人がいたら、あなたにとって官僚の「無謬性」って何?ということについて、意見をもらえると嬉しいです。


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