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水戸黄門とジャックバウアー。に見る。日本的政治風土。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 まず、はじめに、水戸黄門とジャックバウアーの共通点。これは、わかりやすいですね。正義とは、権威に裏付けられた暴力性である、を体現している二人が、水戸黄門様と、ジャックバウアーさんです。もし、もしも、水戸黄門様と助さん格さんが、「自分は副将軍だと妄想している老人と、それにくっついている暴力的青年」だとすると、かれらのやっていることは、善行ではあるけれど、暴行でもあるわけです。困っている人を、勝手な暴力で助けてしまう。かれらのふるう暴力が正当化されるのは、葵のご紋のついた印籠=実は天下の副将軍だからで、もし普通の老人と付き人があんなことやったら、正規の奉行様が放っておかないでしょう。
 ジャックバウアーも、彼はもちろんCTUという政府組織の一員なわけですが、たいてい、彼はCTUの指揮系統からすら外れて、勝手に正義の暴力をふるいまくるわけですが、彼は特権的に、「大統領から個人的に信頼されている」ということで、組織の命令系統を超えて、大統領と電話したりなんかして、その行動を承認される、という構造になっています。もちろん「24」では、そうした逸脱的行為を、後で査問委員会みたいなもので裁かれたりするわけですが、少なくとも事件進行中の24時間内においては、かれは、大統領からの個人的信任を背景に、かなり、やりたい放題にその場の決断をしまくるわけです。最高権力にお墨付きをもらいながら、その場の自分の判断で、悪と自由に戦う、というヒーローは、「融通のきかない権力」と「反社会的悪」の間にあって、理想的存在にかんじられるわけですね。これは洋の東西を問わない、絶対的ヒーローの条件のようです。
 水戸黄門やジャックバウアーが大人気なのは、現実の政治権力がなしえない「まと゜ろっこしい手続きを省略して、ピンチに間に合う決断をする」という決断速度性にある、と私は考えています。現実の「実力組織」である警察はじめ国家権力組織というのは、「起きてしまった違法行為」について捜査するのが基本で、運よく犯行現場に居合わせた時以外は、被害者がひどいことになっちゃったあとに、捜査、逮捕、という力をふるってくれるわけです。
 ことが起きちゃう前に犯罪行為を防止できないか、というのは、庶民感情からすると、極めて切実なわけですが、じっさいにはなかなかそうはならない。それは、恣意的運用をしないように、手続きが厳格に決められているからですね。映画「マイノリティレポート」は、殺人事件を予知する超能力者の存在によって、殺人事件を未然に防げるようになった未来社会、というのが舞台になっていますが、そういう超能力者でもいないかぎり、犯罪が起きる現場に、国家権力実力組織が居合わせて、犯罪を防止してくれる、などということは現実には起こり得ないのです。

 さて、では、水戸黄門とジャックバウアーの決定的違いは何か。今日、本当に書きたいのは、こっちのテーマです。このテーマは、「日本の政治家は総理大臣になるまではそこそこ優秀そうに見えるのに、総理になったとたん、無能になってしまうように思えるのはなぜか」という、日本人政治権力特徴と深く関係していると、私は考えています。

 水戸黄門になくて、ジャックバウアーにあるもの。それは、正義の遂行のためには、「悪くない人、善意の第三者を傷つけ、時には殺してしまうことも引き受ける覚悟がある」ということです。

 マイケル・サンデル教授の命題に似ています。5人の命を助けるためなら、罪のない1人の命を奪うことは正当化されるか。ジャックバウアーは、「正当化されるかどうかはわからないが、そうするしかないなら、悪と思われてもおれはやる」という決意があるということです。そして、こういう決意を水戸黄門様はじめ、日本のヒーローたちは持ち合わせていないように思えます。

 ここからはネタバレ注意です。まだ24を見ていなくて、これから見ようと思う人は読まないで。

 ジャックバウアーは、かつて、テロリストから、多くの一般人の命を救うために、CTUの上司を自らの手で射殺したことがあります。この上司、そうとういやな奴で、ジャックと折り合いが悪かったことはたしかですが、職務には忠実で有能でした。別にテロリストに通じていた裏切り者、というわけではなく、単にいやなやつだっただけです。だから、ジャックは、彼を殺さなければならなくなったとき、ものすごく苦しみますが、それでも、多くの市民の命を助けるために、罪のない上司を射殺します。

 日本のテレビドラマでは、このような選択を主人公がすることは、まずないと思います。日本の権力者は、「敵を殺す」ことはあっても、「悪くはない人を、正義の遂行のために殺してしまう」覚悟、というのを持つことに慣れていない。あるいは、国民が、権力者はときにそういう決断をしなければならない、ということを理解していないのではないかと思います。

 さて、ここで「殺す」という恐ろしい言葉を使いましたが、政治の場においては、「本当に直接命をうばう」というだけでなく、「生活の場や、生業を、人から奪う」ということも、ある意味、部分的に、「人を殺す」として、ここでは話を進めたいと思います。これを「広義の意味での殺人」として、論を進めたいと思います。

 たとえば、有明海諫早湾の干拓事業について考えてみます。「開発の思想と龍の子太郎」を読んでいただいた方はご理解いただけると思いますが、あの事業が、発端から、「巨大利権に結び付いた自然破壊事業」という巨悪としてスタートしたというのは、ものの見方として公正ではないと思います。企画された当初は「食糧増産」が正義であった時代があり、ただ、その正義が時代環境の変化の中で失われる中で「利水」とか「防災」という理屈づけが追加され、「一度動き出すと止まらない、利権と結びついた典型的公共事業」として進行実現してしまったのではないかと私は考えています。少なくとも、あの干拓地に営農にはいった農家のみなさんは、公共事業を進めた「利権の構造」の外におり、人生を賭けて、幾多の困難と闘いながら、新しい農地での稲作はじめ農業に取り組んでこられたことと思います。
 一方で、あの干拓事業が、有明海の生態系を決定的に破壊したことは、もう否定もしようもない事実であると私は思うわけですが、少なくとも裁判でも結論が出た通り、開門実験をして検証しなければならないことは明らかなわけです。
 「野党」の立場で批判するときは、「利権型開発・自然破壊」をする巨悪を糾弾していれば、すごく恰好がよかったわけですが、いざ政権を取り、水門を開けるという決断をすると、「開発利権に群がった巨悪」ではなく、「人生をかけて農業に取り組んだ農家のみなさん」を、「広義の意味で、殺す=土地と生業とそれまでの人生の成果を奪う」という、「殺人者」にならなければいけない。という現実に直面するわけです。八ツ場ダムでも同じですね。脱ダム、というのは理念として正しいと私は思いますが、理念として正しい脱ダムを、権力者となって推進しようとすると、「巨悪」でない、普通の人たちを、「広義の意味で殺す」決断をしないといけない。

 最近の政治家にかけているのは何か。自分が正しいと思うことを推進するときに、結果として「広義の殺人を行うのだ」という覚悟が欠けている、と私は思うわけです。飯館村の、住民や子供の命・健康を守るために、「村を捨てさせる」という決断を政治家がするとき、「ここまで村の産業を育ててきた、という村民の生活基盤を奪う」という「広義の殺人」を決断しなければならないわけです。こういう議論をすると、日本人はきまって「どっちも殺さない道があるはずだ」という、なんとか人を殺さずにすむ道を探して、途方にくれて、決断ができなくなるわけですが。ここで、日本人に固有の、弱点がでてくるわけです。「あってはならないことだから、ないことにする。」です。水戸黄門のドラマの中には、このようなジレンマはほとんど存在しません。それは、日本人が、そのような事態を見ることを好まないからです。一方、24では、ジャックバウアーは、常にこうした事態に直面します。大きな正義を行うために、善意の第三者を巻き込み、時に彼らを死に至らしめ、時には先に述べたように、自らの手にかけて、罪のない人を殺すことすらあります。アメリカ人の考える正義とは、単に「悪を懲らしめて殺す」だけではなく、大きな正義のためには「善意の第三者さえ犠牲にしなければいけない」「行為としての悪を包含した正義」という認識が、アメリカ人にはあるのでしょう。
 私は典型的日本人ですから、できれば、みんなが幸せになる第三の道があったらいいな、と一庶民としておもうわけですが、政治家、特に国の最高権力まで上り詰めようという人は、「善人ではいられない」という覚悟をもつべきではないか。その覚悟がなく「みんなにいい人だと思われたい」だけの人は、そもそも政治家を目指すべきではない、とすら思うのです。

 悪い奴を批判するのは簡単です。子供でもできます。政治家とは、正しいと思うことを実現するためには、「悪くない人をも、部分的に、広義の意味で殺す覚悟」を持つ人だ。そのことについての「お前は悪人だ」という批判を受ける覚悟のある人だけが、最高権力をめざすべきではないかと思うのです。鳩山さんも、菅さんも、あまりに「みんなに好かれたい、善人でありたい」という気持ちが強い人のように思われます。「いい人だから総理大臣」に選んでも、何もできずに終わってしまうのです。
 日本人も、いまどきの若い世代は、水戸黄門より、24、ジャックバウアーの方か好きな人は多いのではないかと思うのですが。もしそうであるならば、政治家に「みんなに好かれる善人」ではなく、「あえて悪になれる強さ」を持つ人を、選ぶよう、意識は変わっていくのでしょうか。

 誰かの命を助けるために、他の誰かを「広義の意味で殺す」というのが、政治的決断の本質だ。それをする覚悟があるものだけが、政治家として、最高権力につくことができる。ジャックバウアー(と、彼を信頼する大統領)にはその覚悟があるが、水戸黄門様には、残念ながらそこまでの覚悟も決意もない。そういう政治風土、国民の政治家理解の中からは、今のような、就任一年で成果も残せず次々交代する首相しか生まれない。というのが、本稿の結論でした。

追加補訂です。なぜ生活基盤・生業を奪うことも「広義の殺人」という刺激的な言葉使いをしたか、について。
開発をめぐる考察や、今回の原発をめぐる多くの対立が、英語で言えば「LIFE」というひとつの単語に対するふたつの和訳、「生物学的生命」と「社会経済的生活」をめぐる対立として展開されている、と考えたからです。「殺人」=英語にすると「Life」を殺すこと、と考えた時に、生物学的生命を殺す殺「人命」と、生活基盤を奪う殺「人生・生活」、というものをめぐる悲しい対立が方々に起きている、と感じたからです。妊婦や幼児、小学生の命や健康を重視する「人命」ライフ主義と、その土地に根差した生活、その土地での仕事に根差した「人生・生活」ライフ主義。どちらも大切なのに、それぞれを大切にしようとする人が、もう一方の立場の人を「悪」として批判し合う、という事態が、ものすごくたくさん起きていると思うのです。で、そのうえで、「どっちも大切だから決断できない」というのは、いかんなあ、と思った。この決断は、どんなに批判されても、どちらかの立場で、有効な速度をもって、最高権力者が、「悪だ」と批判されても、するべきだ。そして、私の個人的立場は、「ライフ=生物学的いのち優先」です。いのち優先の決断をするということは、生活基盤・生業に対しては、全然悪くない、罪のない人に対して、広義の殺人を行ってしまうという「覚悟」が必要だ、ということを理解しつつも。そのことが残酷な決断だとわかっているとしても。

政治とはなにかを、ドラえもんと、水戸黄門と、ジャックバウアーを通じて考える。1どらえもんの巻。選挙はなぜ大切か。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 ぼくら、高度成長以降にそだった、70年安保も子供すぎて記憶にない、といういまどきの50歳以下の人たちというのは、「政治」の本質にある「暴力性」について、考えたり、あるいは本気でそれを生活感覚として感じている人は少ないと思います。(いない、とは言っていませんから。あなたが、政治についていつも真剣に考えている人だとしたら、腹を立てないでくださいね。本気で政治にかかわってきた人は、もちろん考え、感じていると思います。今、読者として想定しているのは、そういうことをいままであんまり考えてなくて、選挙を人気投票のように考え、とりあえず、テレビでよく見たことある人に投票してしまうような人たち。政治家を、国民のためにいいことしなきゃいけないのに、できない愚図な人たち、とかんがえている、そういう人たちです。そういう人たち、と他人のように言ったけれど、僕もそういう人たちの一人です。でした。その認識を、どういうふうに僕が変えていったかについて、今日は書いていきたいと思います。)
 そしてまた、「その政治の暴力性をどうコントロールするか」という仕組みとしての、議会制民主主義とか、三権分立とかいった政治の仕組みが、なんというか、効率は悪く、特に日本ではその現実的運用のされかたのひどさといったら、目も当てられないにしろ、出来は悪いが必死の努力の結果なんだ、ということについても、書いていきたいと思います。

 ああ、ここまでで、ひどく回りくどくてね、ややこしそうですね。もうすこし、我慢して。いまから、ドラえもんの話をしながら、「権力って、実力って、暴力って」ということについて、まず、考えていきます。

 ジャイアンは、暴力的な子供です。のびたが買った、まだ読んでいないマンガも、公園で遊ぼうと思って持ち歩いていたラジコンカーも、道端で、ジャイアンに会ったが最後、取り上げられてしまいます。マンガの、子供の世界だから、みんな普通に「ああまたジャイアンが」と思うだけですが、現実世界にそんな子がいたら、犯罪者です。恐喝常習者ですよね。でも、学校で、先生がみているときには、さすがのジャイアンも、のびたにそういう無茶な暴力的犯罪行為を働くことはできません。先生がみているからです。先生が見ている前で、ジャイアンがのびたの持ち物を取り上げようとしたら、先生は「やめなさい」と怒るはずです。それでもジャイアンが無理やりのびたの持ち物を取り上げようとしたら、先生は、ジャイアンの首根っこをつかんで、やめさせるはずです。
 さて、ここで先生がジャイアンの首根っこをつかまえて、ジャイアンの恐喝略奪行為を止める行為は「暴力」でしょうか。これは一般に「暴力」ではなく「実力行使」と呼ばれますよね。人が人に対して、物理的な力で、本人の意思に反する行為を強制する。これが、「法的な裏付けがない」と暴力になって、法的な裏付けがあると、「実力行使」になるんですね。学校の中で、先生が、暴力的生徒に対してこういうことをすることは、法律の範囲および社会通念として認められているので、「実力行使」にはなるけれど、「暴力」だとか゜体罰」だとかいうことにはならないはずですね。ただ、どこまでが「実力行使」で、どこからが「体罰や暴力行為」になるかは、微妙なので、ジャイアンのお母さんが、もしモンスターぺアレントだと、面倒なことになりますね。話がそれました。

 さて、権力というのは、最終的には、社会秩序の維持のために、それに反するものに対して、「実力行使」ができる、唯一の存在ということですね。私の暴力と政治、国家についての思索の師匠と私淑する茅野稔人さんの「国家とはなにか」の中で、さらに茅野さんが引用しているマックスウェーバーによると、「国家とは、ある一定の領域内で、--この「領域」という点が重要なのだが---正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」あーーー、難しいですね。根性のある人は、茅野先生の著作を直接読むのがいいですね。根性のない方は、我慢して私の駄文を読み続ける方が、すこしは楽だと思います。
 
 学校という一定の範囲の中において、先生は暴力というか、実力行使を正当に独占しているんですね。「先生がやると実力行使」で生徒がやると「暴力」なんですね。先生が見ていないところでジャイアンがのびたに恐喝行為をしようとしたのを、出木杉くんがとめたとします。「やめろよ」「やめないよ」「やめろ、えいっ」出木杉君は、喧嘩も実は強かったりするんですね。ジャイアンに大外刈りをかけて、頭部強打させてしまったりするわけです。すると、いかに出木杉くんで、いきさつはあるにせよ、出木杉くん、暴力行為で謹慎処分、になったりするわけです。正当防衛の成立要件というのはなかなかに厳しくて、この場合、こういういきさつなのに、けがをさせた出木杉君は、おそらく傷害罪になってしまうんですね。出木杉君のやったことは、法律の範囲を超えた部分については「暴力」になっちゃうんですね。
 
 さて、「先生と生徒」という、あきらかに年齢発達段階上下関係があり、しかも体力筋力的にも強弱関係がはっきりしている小学校くらいだと、このどっちが「権力=実力」で、どっちが「暴力」かっていうのは、自然自明にわかりやすいので、あんまり問題はないわけですが。フラットに大人同士の社会の中で、ジャイアンみたいな人がいたとします。体が大きくて、威圧的で、言うことをきかないやつには暴力をふるう、というような人ですね。この人を、一対一でおさえつける「実力」をもった人がひとりもいないとします。そうすると、原始状態では、この人が「王様」になるんですね。この人の言うことが、法律になるんです。ジャイアン王国です。いやですね。住みたくないですね。ジャイアンの言うことを聞かないと、殴られるし、ジャイアンに殴られたくないために、食べ物やいろいろをジャイアンに渡さないといけないんですね。私的暴力団体がやると、「みかじめ料」ですが、なんといってもジャイアンは王様ですから、これは「税」なんですね。そのかわり、ジャイアンは、ほかのところから攻めてくる乱暴者とは戦ってくれるんですね。守ってくれもするわけです。この国が、住みやすい、いいかんじにの国になるか、すごくいやな感じになるかは、ひとえに「喧嘩の強いジャイアン」が、人格的にいい人かどうかにかかってくるわけです。通常オンエアされるTV放送版ジャイアンだと、そうとう住みづらいんです、でも、劇場映画版ジャイアンくらいいいやつだと、その国はかなり暮らしやすい国になるはずなんですね。
 
 で、話が飛びますが、「誰なら暴力振るっても、その人なら実力ってことにしていいか」ということについて、みんなで選ぼうっていうのが、民主主義、民主選挙っていう仕組みだと考えると、わかりやすいよね、という話なんですね。ジャイアンだといやだ。出木杉くんが「柔道の実力」を出して、みんなを守ったり、ジャイアンを取り締まったりしてくれるのがいい。だから、ジャイアンじゃなくて、出木杉君を権力者にしようっていうことを決めるのが選挙。
できすぎくんなら、いいひとだし、普段は暴力ふるわないけど、いざっていうとき強い。そういう人に権力者になってもらおう。これが為政者、行政の長を選ぶ選挙ですね。国政なら大統領。地方なら知事を選ぶ選挙です。
 で、現実には、「国家が実力をふるう装置」っていうのは、警察とか、軍とか、徴税組織とか、いくつかあって、一人の人間ではなく、より強力に組織されて、非合法な暴力や、外からの暴力から国民を守るようになっているわけですね。おまわりさんと自衛隊のおかげで、みんな安心して暮らせるし、国税のみなさんのおかげで、税金払わない悪い人から、無理やり資産差し押さえたりできるわけです。でも、そういう実力組織が「どういうときに、どれくらい実力だしちゃっていいか」ということが、恣意的に運用されちゃうと、ものすごく怖いですよね。誰がそういう人たちに命令できるか、というのが、為政者を決める選挙です。

 一方、立法者、議員を決める選挙というのは何かを考えるためには、まず、法律って本質的に、何、っていうことについて考えないとわからないわけてす。
 法律っていうのは、普通の人の感覚だと、国民に対して、「こういうことをしていい、わるい」ということを決めたもの、という理解が普通だと思うのですが、これだと、政治構造の本質理解から遠くなってしまう、というのが、私の基本的考えですね。そうではなくて、「為政者権力者が、どういうときにはどれくらい実力出しちゃっていいか」を決めるのが法律だ。と考えた方が、すっきりするとおもうわけてす。
 すると、議員を選ぶということは、「為政者が、どういうときにどれくらい実力ふるっちゃうっていいか」を決められる人を選ぶわけですから、選挙っていうのは大事っていうことですね。

 ここまで説明してくると、大統領制と、議院内閣制の制度上の違いの本質が見えてきますよね。大統領制の場合は、「実力ふるう本人を選ぶ」選挙と「どういうときにどの程度実力ふるっちゃっていいかのルールを決める人=議員」を選ぶ選挙が別々に行われる、ということですね。だから、三権のうち二権について、完全に選挙として分離しているので、より強くけん制し合える制度だということがわかります。
 これに対して、議院内閣制というのは、「どういうときに実力ふるえるかを決められる議員さん」というのを選ぶ選挙を国民がして、「実力ふるう本人」は、その議員さんの中から選ぶ、という仕組みですね。こうすると、「決めた法律」にしたがって「その多数派の代表が実力ふるう」わけですから、本来は効率重視システムなはずですよね。そのかわり、二権の間の相互けん制作用が働きにくいですよね。政治についてあんまり考えたことがない人にとって、「立法の人 国会議員」と「行政の長 総理大臣」の関係が、どっちも「政治家じゃん」ということで、なにがなんだかわからなくなって、とにかく政治家=なんか偉い人ってなってしまうのは、議院内閣制度というもののもつ、わかりにくさに原因があるような気がします。

 まとめます。みんなを守るために、他の人がやったら暴力になるはずの「実力行使」をできる、唯一の人を選ぶ、というのが、主長・大統領を選ぶ選挙の本質です。゜あんたなら、悪い奴、やっつけてくれるよね。あんたいい人だよね。だから、信頼して、「わるいやつ殴る権利」まかせるよ。」というのが選挙の一票ということです。人気投票ではありません。もしまちがって、悪い人にこの権利をわたしてしまったら、いい人、悪くない人をぶん殴り始めます。大変なことが起きます。だから、選挙って、すごく大切なんです。・

 次に、議員を選ぶ選挙について。議員というのは、法律を決める人なのですが、法律というのものの本質は「権力者がどういうときには、どの程度、どういう人をぶん殴っていいか、実力をふるっていいか」のルールを決める、ということです。いい人だと思って選んだ大統領や主長さんでも、自由に実力をふるったら大変なので、議員さんに、ちゃんと「実力ふるいかたルール」を決めてもらうわけです。これも人気投票ではありませんし、単純な「どっちが税金安くしてくれるか」とか「どっちがばらまいてくれるか」という政党選びでもありません。「この人は、どういうときなら、権力者が、いうこと聞かない人を実力でおさえつけていいと考えているか」について、よーく考えて判断しないとまずいわけです。

 政治家、というと、何してる人かよくわからなくなるわけですが、基本的には「何か国民のためにいいことをしたい」人がなるわけですが、それを実行する力というのは、具体的には、いいことを推進する力というよりも、「いいことをするのに反対する人を、押さえつける実力」として与えられてしまう、というのが、政治権力の不思議、なわけですね。
 善意でスタートした人が、権力まで上り詰めるが、最終的に過ちを犯し、裁かれる立場に立つ。というのが、政治にかかわった人のたどりやすい道筋なのは、以上述べたような道筋によるもので、政治家がもともと悪い人なわけではありません。「いいことをしたい意志」の実現のために与えられる政治権力とは「自分の考えるいいことの実現に反対する人を押さえつける力」だ。という政治というものの持つ本質構造によるのです。

 ああ、また難しい話になってしまった。

次回は、日本人が水戸黄門が好きで、アメリカ人も日本人もジャックバウアーが好きな理由。について考えながら、権力と実力行使と暴力の関係について、さらに考えていきたいと思います。
 

2つのNOについて考えた。その2 政治的・政治的ではない、とはどういうことか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 具体的にやってみると、読む人にとって相当めんどくさいことになっているのに、ブログをわざわざ二つに分けたのは、この文章を書くことについての自分の中での躊躇と葛藤が、すごく強かったから。いまこの瞬間も書かない方がいいかな、という気持ちがかなり強い。でも書きたい、、読んでもらいたいという気持ちもすごく強い。あっちのプロジェクトを進めている「私」とこの文章を書いている「私」が同じ人だけど別の人。みたいな感じにならないか。

なんで、そんなこと考えたか。というと。

 脱原発を、政治的な対立課題にせずに進められないか。そう思った理由は、初めのブログで書いたとおり、まずは実効性の問題。政治対立になると、ことはなかなか進まない。そして、推進しようとする方は、なかなかしたたかでしぶといので、若者や市民運動やが「盛り上がって、勝てそうな気分」になっても、政治的現実はなかなかそうは進まない。だから、大企業も、保守的政治家の一部も、役人の一部だって乗っかりたくなるような、新しい成長とビジネスビジョンを、「楽しそうな我が家わが社」で実現しちゃえ、と思ったということ。それは本心だ。だから、楽しい、政治的じゃない脱原発、と言っているのに、政治的な話を書いたら、裏切りだよ。と何人かの近しい人には言われた。それから、政治的に読める文章を書いた瞬間、あらゆる方向から足を引っ張られ、攻撃され、大変なことになるよ、とも注意された。そうだよな、政治的じゃなくておしゃれで楽しいから、たくさんの人が賛成してくれたんだよな。裏切っちゃだめだ、せっかくたくさんの人が賛同してくれたんだから、大切に、用心深くすすめなくちゃ。という思い。

 でも、ほんとうのことを言うと、もうひとつは「脱政治」とわざわざ言いたかったのか、というと。
「政治的」というか「イデオロギー的対立」というものの行きつく先が、とても怖かったから。というのが、本当のところ。

 国+大資本vs若者・市民運動・その後ろにちょっと左の人たち。という対立構図だと、
 なかなか進まない。そのうえで、怖い。怖いからいやだ、と私が感じる理由を、はじめは、私が育った子供時代からの家族親族の物語として、書こうかと思った。というか、実は何度も書いては、アップしかけては、やっぱり削除したり、ということを繰り返した。アクセス記録を見ると、何人かの人は読んでしまったような気がする。いや、あれはアップしたのを自分で読んだ回数なのかな。

「正しい」の反対は、「間違い」、のはずだけれど。「正義」の反対は「悪」になってしまう。

 イデオロギー対立は、初め、自分は「正しい」、あなたは「間違い」と言っているはずなのに、
いつのまにか、自分は「正義」、相手は「悪」という話になっていく。「間違っちゃった」というのと「悪」というのは、違うはずなのに。自分の反対の立場の人を「悪」だとして断罪しようとする。存在すべてを否定しようとする。誰しも存在すべてを否定されたくはないから、否定しようとする相手を否定しようとする。

 原発推進の人も、今回、あんな大事故が起きたのだから、「どこか間違った、ミスをした」ということは、認めているのだと思う。でも、だからといって、自分がやってきたことすべてが「間違い」だとは思っていなく、まして、「悪意」をもっていたとは、まったく思っていないと思う。反原発を主張する人の多くは原発推進してきた側を、初めは「間違い」を指摘していただけなのに、だんだん「悪」だと追及し始める。そうすると、推進派の人たちはどんどん頑なになって、むしろ、反原発派を攻撃してくる。

 もちろん、原発推進の具体的プロセスで、地元の人を説得懐柔するプロセスの中に、「悪」としか言えないようなさまざまな具体的圧力があったことは、事実だと思う。だから、地元のそういう思いをされた方が、国や東電を「悪」として追及することに、私のような遠く離れた人間は異を唱える資格はない。

 でもね、脱原発を本当に進めようとしたら、原発を推進した人を、「悪」とはじめから決めつけて、その存在を全否定するような運動にしたら、むしろ、ダメだと思う。本当はかなり悪の要素が濃くなっているとしても、そもそもの初めには、ある善意からスタートした、と認めるところからスタートしないと、話が進まないと思う。本当はそうじゃないにしても。嘘でも性善説に、一回、立ってみようよ。原発をめぐる問題というのは、実は「みんなが豊かになるにはどうしたらいいか」という、善意について、異なる善意実現方法同士が、対立してしまっているのだ、ということを最初にお互いに、一回、認めてみようよ。特に雰囲気として、明らかに「悪」にされやすい、原発を推進してきた、既得権益側にいる、年齢的にはじいさまたちを、いったん、善意のひとだったんだよね、初めはね、と認めてあげるところからスタートしようよ。嘘でもね。

 あさってはうちの父の、80歳の誕生日です。その父と、それから今は亡くなっている叔父と、そして私についての、家族の話を、やっぱりしないと、言いたいことは伝わらない。本当に長くなるけれど、僕の家族の話から、考えた、脱原発についての、今、思っていること。ほぼすべて。ああ、本当は、このことを僕はみんなに読んでほしかったんだと思う。

『いままで原発を推進してきた誰のことも憎まないようにしたい。
でも、原発はなくなるべきだと思う。その判断について迷いはない。
これは、父についての思い出と(まだ生きているのだけどね)、六人のわが子たち、息子娘たちに言っておきたいことを書いた個人的な文章だ。』

どこから話をはじめよう。龍の子太郎の話、いやその前に、父の話から始めるのがいいだろうか。

私の父親は、原発を推進してきた中心人物、なわけではない。北海道開発庁という、中央官庁のなかで、もっとも小さくて、エリート度の低い官庁の、それでも、上級職試験を通った、キャリア官僚だった。キャリア官僚といっても、東大法学部出のエリート、というわけではなく、北大農学部農業経済卒、農林省採用、という田舎のエリート、上級職を通った官僚の中での地位はかなり低い、という人だ。北海道開発庁のような弱小官庁では、事務次官は、大蔵省内部の出世競争には途中で負けちゃった東大法学部大蔵省出身エリートが、役所内で天下ってきて、事務次官に座るのだ。だから父のような北大、農林省採用、北海道開発庁プロパーという人たちには、世間の人がイメージするエリート官僚臭というのはほとんどない。そのうえ、若い役人というのは、ほんとに薄給だった。少なくとも子供時代の私の父親に対する印象には、『高級官僚』とか『エリート』とかいったイメージはまったくない。貧乏くさくて、やぼったくて。公務員官舎の貧乏役人の子供たちは、公団住宅や一軒家に住んでいる金持ち民間サラリーマンの友達のことがうらやましくてしかたがなかった。父曰く、国民の皆様の税金で、養っていただいているのだから、公務員官舎は公団住宅より、みすぼらしくつくらなきゃいかんのだ。そうだ。一戸建てやマンションの子に、官舎のことを「犬小屋」と呼ばれて馬鹿にされたこともあった。役人がエリートだなんて思ったことは、子供のころ、いちどもなかった。
 役人としての父が優秀だったかと言われると、私にはよくわからない。30代、霞が関の本庁時代に、今は開発行政の失政として語られる苫小牧東部開発について総合企画室にいて携わり、その後、人事考課の担当官となり、北海道の現業部門・開発局に戻って、局の官房長という、局長のひとつ下の、北海道の役人NO2という地位で退官し、天下りをした。天下った先の第三セクターの社長になったところで、仕事から退いた。おおまかにいうと、こんな役人人生だったはずだ。
 父が、農林省に採用になり、その後、北海道開発庁に自ら志願して進んだのは、北海道の開拓農家である稲作農家に育ち、厳しい北海道の環境の中、農家をする人たちはじめ、全国でもいちばん貧しく厳しい北海道を豊かな土地にしたい、と願ったからだ、と聞いたことがある。本人が直接語ったのではなく、おそらく、母から聞いたのだと思う。
父は、役人として有能であったかどうかはわからないが、人間として、曲がったことが嫌いで、正義感が強く、また、困っている人を放っておけない人だ。私が中学生だから、父が40代半ばのころ、電車の中で、老人が座ろうとした席に割り込んで座った若者を注意して、殴られて眼鏡を壊して帰ってきたことがあった。最後の第三セクターを退任するにあたっては、事業として十分な成果が果たせなかったこともあり、天下りに対する世間の批判に対し自らも思うところがあったのだと思うが、退職金は全額返還している。私の姉の子供、つまり父にとっての孫たちが通う学童保育の施設が、使用していた借家から立ち退きを迫られた時、近隣の中古住宅を購入し、学童保育用に、ただ同然で貸し出して、今もその状態は続いている。曲がったことがきらい。困っている人を助ける。父の性格は裏表なく、こういう人なので、北海道開発庁の仕事を選んだのも、裏表なく、貧しい北海道の人たちの暮らしをすこしでも豊かにしたい、という善意に基づいたものだったというのは、うそではないと思う。
1970年代に入り、父が苫小牧東部開発に総合企画室で関わっていたころ、世の中は、公害問題で大騒ぎになっていた。母は、札幌の医者(のちに市民病院という札幌でいちばん大きい総合病院の院長かつ北海道医師会の副会長にまでなる、エリート勤務医)の長女として生まれ、都会的でリベラルな雰囲気の家に育った。母の弟3人のうちふたりは、学生運動に身を投じ、代表的新左翼セクト系の全学連委員長、副委員長になり、二人とも内ゲバの犠牲者となり、一人は死亡、一人は回復後も活動を続け。今も生きていれば、地下潜伏生活を送っているはずだ。(死んだ方のおじは、正確には運動をやめて、新しい人生を歩もうと、名前も変えて地方の国立大医学部に入学しなおし、もうすこしで医師として再スタートを切れそうに思えたある晩、アパートで襲われ、死亡した。私が高校二年のときだ。これを内ゲバということを、母は許さないかもしれない。知的でやさしい人だったので、このおじの思い出だけで、いちど文章を書きたい)。母はそこまで過激な政治思想の持ち主ではないが、基本的に朝日新聞・岩波書店的、反権力思想、市民運動に共感しやすいタイプであり、当然、公害問題では大企業と国に対して、極めて厳しい批判者であった。父母は、基本的に仲がよかったので、夫婦喧嘩はまったくしなかったが、公害問題や反戦運動などについて、権力・資本の代弁者としての父と、朝日岩波市民運動代弁者としての母は、ことあるごとに論争をしていた。そして、子供と言うのは、基本的に母親の味方であり、父親に反発するものなので、私は当然、朝日新聞・岩波書店よりの思想に共感を覚える、政治的立場鮮明な小学三四年生になっていた。中学生・高校生になると、私は夜遅く酔って帰ってきた父や、酔った父が連れてきたその同僚部下と、さまざまな政治問題について、議論をすることがときどきあった。おもに公害、環境保護、自衛隊、反核などといった、対立構図の鮮明な課題についてであり、原子力発電についても、テーマになることがよくあった。中学高校大学生の息子を私自身が持つようになった今にして思うと、父はそうしたテーマについて、大人に議論を挑んでくる息子を、かなり自慢に思い、同僚たちに見せびらかしたい気持ちもあったのではないかと思う。
私は当時から口先戦闘能力は極めて高かったので、父やその同僚を議論の筋道の上では追い詰め、言い負かすこともあったように思う。そんなときの父の結論は「現実はそんな甘いものではない」『お前の言うのは現実を知らないただの屁理屈だ』という、当時の私に反論不能な卑怯な言葉となる。そこまで言わせれば、私は悔しい思いと、その卑怯な言葉を吐かざるを得ないところまで父を追い詰めた満足感が相半ばする感情を抱いた。
 話が逸れたけれど、こういう議論の中での父は、今、原発推進論者が言っている理屈と全く同じことを言っていたし、当時の私の主張は、今の反原発論者の議論と基本、全くかわらないものだった。善意の人である父は、その善意ゆえに、原発推進の通産省公式見解をそのまま確信をもって語った。お題目としてではなく、原発が、開発が、貧しさを駆逐して、日本人を豊かにすると信じていた父のような人が、父の世代にはたくさんいたのだと思う。

 その後の私の思想的変遷でいえば、高校時代に三島由紀夫の文学に出会い、大学でも三島研究を文学部国文学科で続けた。その中で、「政治思想」の立場は、右が左かと言われれば、右寄りの思想に傾いていった。とはいえ、生活表面上は、一切の政治的行動はしないようにしてきた。完璧な都市型非政治的市民として、何十年も生活をしてきた。それは、政治的暴力によって死んだおじ、政治的暴力を自らにふるって死んだ三島のふたりにはさまれて、私にとって、政治は死に直結するものであり、死ぬ覚悟のないときは、絶対に政治的行動にはでない、と心に決めたからだ。子沢山な家族を形成し、死ぬわけにはいかない度合いがどんどん高まるにつれ、政治的行動を避けることは、私にとって生活上の最優先事項になった。
そのうえで、いや、それにも関らず、私は環境問題と原発問題に関して言うと、はっきりと環境保護派であり、原発反対主義である。それは、48年間生きてきた中で、ずっと問い続け深めてきた思索の結論として、今後もぶれることはないと思う。そう考えた道筋を、文章としてまとめておきたいのだ。
 自然破壊をしながら開発を進めた役人の息子。新左翼学生運動に深くかかわった末、無念の死を遂げたおじの、おい。三島文学の信奉者。子沢山家族の父親として、そういう重しが全部かかった状態としての、質量としては重たいのだけれど、全部ぶら下げた物体として、「政治的には真ん中へん、どちらにも傾かない。質量の重いノンポリ」でいたい。

 ここで、「どっちかというと右寄り、と脱原発の思想の関係」をまとめておきたい。
私が右寄りという場合、そのことが指すのは、時間と自然に対して敬意を払う思想のことだ。自分ならざる者から引き継ぎ、自分ならざる者に引き継いでいく時間の中での他者とのつながりに対し、敬意を払う思想が右よりの思想の本質だと私は考えている。時間的つながりと自然とのつながりの中に日本文化は育まれている。それを守るという視点から、私は原発に反対する。(左より、といった場合には、世界共通共時性と、弁証法的進化進歩、その基本にあるのは人間理性への信頼と肯定、理性的人間による自然の征服活用利用は肯定、ということ。すごい単純化してしまったが。この辺は左右両方の方から批判集中しそうです。今からあやまっちゃう。単純化しています。ごめんなさい。)

 えーっ、難しい言葉使ってるけど。結局、自然保護っていうことじゃん。自然保護は左翼的市民運動の専売特許じゃん。わかい世代の人はそういうかもしれない。でもね。そうじゃないんだよ。
 いかん・いかん、政治的対立を持ち込むと、すぐにお互いを攻撃したくなる。
左右いずれの立場からも反原発の思想は生まれうるということだけ、ひとまず置いておこう。そのうえで、今、問題にすべきは、『原発というのは、私の父親の世代にとっては、貧しさからから脱却する開発の思想と連動して肯定されてきた』ということ。私がしたいことは、開発の思想をもった父世代を憎まない。彼らの善意を否定しない。しかし、父を憎んではいないが、開発の思想と、それと連動した原発の推進は、この日本から、そろそろ退場してもらわなければいけない。父親を愛し、しかし開発の思想と原発推進に、はっきりと否を言う。
そのために、まず、開発の思想の善意と、その一方での環境意識のなさ、ということを、理解してほしい。私の父とほぼ同年齢の、高齢某都知事が『原発推進』と言い切る心情も、こういうことではないかと私は思っている。

 『開発の思想と龍の子太郎』

開発の思想は、昭和二十年代後半から三十年代にかけては、イデオロギーの左右を問わない、国民的思想だった。原発推進も、そうした機運から肯定されていた過去を持つのではないか。今、さまざまな『裏話陰謀』が日本における原発のスタートにあったということが言われる。あったのかもしれない。本当のことは私にはわからない。しかし、自然破壊を伴う開発も、原発も「はじめから資本と権力の強欲と悪意から推進された」として批判するのは間違っていると私は思う。当時の国民の気分を1960年に発表された童話作家松谷みよ子の出世作『龍の子太郎』という児童文学に見て行きたい。

 松谷みよ子は父が左派の弁護士であり、晩年まで平和運動に熱心であったことからもわかるとおり、思想傾向分類からは左翼的文学者として理解されている。
 その出世作である龍の子太郎も、貧しい農民のくらしから生まれる悲劇をベースにしており、そのような思想背景から生まれたものとみることができる。
 が、しかしである。私は長男が生まれてから、毎晩、寝る前に本の読み聞かせを夫婦で欠かさずしており、特に長男に対しては、非常に大量の本を、私が主導で読み聞かせた。その中で、龍の子太郎を朗読して、私はその結末部分の意外な展開に、内心仰天した。そこには左翼なのに開発礼讃自然破壊OK、という驚くべき立場が何の迷いもなく堂々とすがすがしくも表明されているからである。
 龍の子太郎の母は、極めて貧しい寒村にくらしており、太郎を身ごもったとき、村の共有物である川の岩魚を、妊娠中のひもじさから、自分ひとりで何匹も食ってしまう。そのさもしい心から、母親は龍に姿を変えられてしまう。母親は悲しみ、太郎を産むと、自らの目をえぐりだし、目玉を乳代わりに太郎にしゃぶらせるように持たせて、めくらの龍となって姿を消す。母の目玉をしゃぶって祖父母に育てられ成長した太郎は、めくらの龍になった母を探して東北地方の貧しい山村を旅して歩く。貧しさゆえに、皆が不幸であること。母親が龍になったのも山村の貧しさゆえであることを旅の中から学んだ太郎は、ついにめくらの龍になった母に出会う。そして母に頼む。おれが母さんの頭に乗って、かあさんの目になってさしずするから、湖の周りの山に体当たりして山を崩そう。そうしたら、湖の水が流れ出て、そこに大きな豊かな土地ができる。そこを田んぼにすれば、米がたくさんとれて、みんなが豊かになれる。太郎の願いを聞いた母親は全身傷だらけ、ひん死の傷を負いながら、山に体当たりを重ね、山を崩す。山に住むきつねもたぬきも、太郎と母を応援する。!?ついに山は崩れ、豊かな土地が現れる。傷を負って死んだかと思われた龍。その中から、母親が現れる。死を賭して貧しい農村を救おうとした心が通じて、母は人間に戻れた。
 そう。これは戦後の貧しさから、人の道に外れてしまう人がたくさんでた世の中の悲劇を、暮らしを豊かにすることで解決したい。そのために自然を開発して、人間の活用できるようにすることは、疑いのない正義だ。そのことが、政治的左右を問わない国民的願いとして、心からの感動をもって語られた童話なのだ。
八郎潟の干拓も、黒部ダムの感動も、私の父親の開発という仕事への献身も、同じ貧しさと、そこからの脱却を心底願ったひとたちの、共通の思いから発したものだった。左翼思想家で平和活動家である松谷の出世作が、これほどはっきりとした開発の思想、開発の善意に立脚したものであることは、環境保護が絶対善化している現代の良識派からは理解できない。ものすごい違和感だ。自らの住処である豊かな山を破壊されているきつねやたぬきやうさぎたちが、声を揃えて、自然破壊人間中心開発主義のブルドーザー龍の子太郎母子を応援するのだ。そんなことはきつねやたぬきやうさぎの立場からはありえない。なんでたぬきさんがすみかの山を壊されて喜ぶのか、『平成狸ぽんぽこ』や『もののけ姫』などジブリアニメをバイブルとして育ったいまどきの子育てママには想像もできない。
 こうした時代に、原子力の平和利用推進も開始した。今の、地球環境への取り返しのつかない汚染を招いた原発も、開始時期には、貧しさに対する善意からスタートしたという側面を持つことを、私は否定できない。筋が通った保守政治家のじいさまたちが、現下の事態にたちいたっても、原発推進主義者であることを明言保持しつづけているのは、利権と結び付いているからでも、科学妄信のためでも、そんなことではなく、原発がスタートしたときの国民の願い、資源も乏しく、貧しさにあえぐ戦後の国民を、そこから引き上げるための選択としての原発推進の記憶が、心の奥底に、善意の記憶としてしみついているせいなのではないか。
原発推進の根底には、そういう側面を持つことを、彼らについても認めてあげたいと思う。それを認めてあげることからしか、脱原発の動きは前に進まないと思う。

 人は批判されると反撃する。自分を守ろうと頑なになる。私は原発を推進してきた人たちを批判したくない。追い詰めたくない。彼らの過ちを責め立てるのではなく、彼らの当初の動機の善意を認め、評価したい。でも、原発は止めたほうがいいし、かれらはそのミスの責任を問われるべきだと思う。彼らはあきらかに取り返しのつかないミスをおかし、取り返しのつかない災厄をこの国にもたらした。だけれど・・・・

 あまり上手ではない気もするが、たとえ話をしたい。
夜中に熱を出した子供を乗せて、クルマを病院に走らせている若い父親。ひきつけを起こし、命の危険もありそうに思える。あせる。冷静に運転しようと思うけれど、でも、急がないと。夜中だから、人通りはほとんどない。かなりスピードを出しても、特に危険な感じはしない。無理な運転をすることにも慣れてくる。今大切なのはこの子を病院に早く運ぶことだ、という目的の正しさが、危険への評価を甘くする。目の前の信号は黄色から赤に変わるけれど、えい、突っ切ってしまえ。あ、あ、なぜか深夜に散歩をしている老婆をひいてしまった。どうしよう。(老婆が夜中の三時に散歩をしているなんて、千年に一度しかおきないだろうに)
原発推進の人のおかした過ちというのは、こういう性格のものだと思いたい。子供の命を助けたいという善なる心からクルマを走らせている。もちろん安全にも気を配っている。でも、焦る気持ちがある。子供の命を助けるという目的の正しさから、夜中に道をわたる人を、信号無視でひいて殺してしまうという結果になった。さて、この人は、どう裁かれるべきか。
すくなくとも、裁かれるべきだ。殺人罪ではないだろう。危険運転致死罪でもなかろう。が、過失致死罪では裁かれるべきだ。情状酌量はあってしかるべきだが、罪をおかしたこと、法律を破ったこと、危険を軽視したこと、その結果として取り返しのつかない重大な結果を招いたことへの責任はとらねばなるまい。飲酒運転をしたわけでも、暴走行為を楽しんだわけでもない。でも、彼の行為が、重大な結果を招いたことは確かなのだ。

 もちろん、今は、裁くべき時ではなく、子供とともに、ひいてしまった老婆もクルマに乗せて、病院に急ぐべき時だ。かれらは今、そうした段階にいる。この道にはパトカーも救急車もなく、ひいた老婆を病院に運べるクルマは、彼しか運転ができないのだから。
私が、原発を推進してきた人たちを憎んでいない、憎みたくないというのは、そういうことだ。もちろん、彼らは傲慢だったと思う。善意と、知的優秀さがあいまって、危険を指摘する人たちに対しても、地元で、原発について迷い悩む人たちに対しても、傲慢だったことは間違いない。直接彼らのそうした対応に、政治的暴力性に向かい合った人たちは、彼らを憎み、許すことはできないと思う。しかし、そうした直接当事者の憎しみに基づく糾弾に、私のような、距離を置いた立場の人間が乗るのは、卑怯だと思う。

 私は、彼らを憎んでいない。が、彼らはその犯した罪に従って、裁かれ、罰せられなければならないと思う。もちろん、ことの収拾がついた後で。それは、太平洋戦争の後に、この国の指導者たちが戦犯として裁かれなければならなかったのと同じように。彼ら戦犯には、普通の意味で悪人ではなかった人も多くいた。傲慢だったり、無能だったりした人はいるにしても。戦争は悪意や強欲さからのみ生まれたものではない。善意と正義から生まれるのだ。東京裁判でも、彼らは戦争の大義について、語っている。日本が国際政治の中でおかれたあのときあの状況で、国、国民を守るには、戦わざるを得ない。選択の余地は少なかったのだ。少なくとも、善意で心底そう信じた指導者は少なからずいた。
 それでも、取り返しのつかない災厄に国民を追い込むという結果に対して、A級戦犯たちは、たしかに裁かれる必要があったのだ。(B級C級の戦犯については別の話だ。今回も現場の東電職員たちを糾弾することには何の意味もないし、だれも現場で奮闘している東電の人たちを、応援こそすれ、非難している人なんていないと思う。)
 
今回の原発事故について、憎しみからではなく、かれらの善意と、その善意がいつか、傲慢と鈍感に変わり、またその善意と傲慢のすきまに、強欲がつけこんでくるプロセスを明らかにするために。東京裁判のように、他国の人に任せるのではなく、ぼくらの世代が、自らの手で、きちんと裁くべきなのだ。愛情と、自責の念を持ちつつ。

 私は、今回の事故に至る過程を、日本人が自ら解明し、責任者を裁き、罰するところまでを、日本人がやりきることが、本当に大切だと思っている。それは、政治的対立に基づく冷徹な裁きであってはならないと思う。善意と愛情に基づき、そこにある人生のありようを肯定しながらも、それが過ちへと転がっていくプロセスを明らかにし、犯した過ち、罪というよりも「失敗」に対して、誰から見ても納得のいく、「失敗」の大きさに見合った罰を与えるべきだと考えている。『悪人』を憎み糾弾する裁判ではなく、『過ちを明らかにし、償う』ための裁判が必要だと思う。はじめは高潔な意志を持ち、高い専門知識を持ち、けして汚い欲望に左右されたのでもない、多くのエリートたちが、それでも大きな災厄の原因をつくってしまったことを、日本人が、愛情をもって裁くべきだと考えている。

 そのプロセスを通じてしか、次世代に向けて原発をどうしていくか、の国民的コンセンサスは生まれないと思う。なぜなら、「不幸を減らし、豊かな暮らしを次世代に残したい」という善意は引き継がれるべきものだから。善意を実現するための手段が、原発推進という、今から50年以上前の選択にしがみつく必要があるのかどうかを、国民みんなが、事実を共有しつつ、考えなければならないから。そして、この選択は、政治的イデオロギーの対立や、ましてや特定個人や団体への憎しみによって選択されたものであってはならないから。そして、今後の世代に残すべき豊かな暮らしというのは、どんなものかを、もう一度、みんなでよく考える必要があるから。

 今は、政治的対立、イデオロギー的対立、プリミティブな憎しみと尻馬に乗った興奮、そういうものが原発をめぐって沸き立っている。私は原発に反対だ。今すぐでなくても、出来るだけ速やかに、原発のない日本に向けて、歩み始めるべき時だと考えている。でも、そのことを、憎しみを燃料として進めたくはない。かといって責任をうやむやにして進むのも違うと思っている。
福島原発についての事態がなんとか収束を迎えることをまずは祈っているし、そのことを皆が応援するのが今、大切であることに異論はない。ただし、情報をどうしても隠ぺいしがちな東電と国の基本姿勢から考えると、事態と被害をこれ以上ひどくしないために、批判的立場での報道が活発化することを応援する。
関係者の努力が実を結び事態が一応の収束を向かえたならば、「めでたしめでたし」で、「東電もがんばったじゃないか」と、責任の所在をあいまいにしたまま先に進むことは許してはならない。善意に基づき進めた原発、英知を集めて進めた原発が、千年に一度の自然災害に襲われたのだから仕方がない、という免罪符の理屈を飲むわけにはいかない。
善意にスタートした原発が、なぜこのような災厄へと転じたか、起きたことを明らかにすることが必要だ。憎しみに基づかない、が、責任は明らかにする。国民注視の、裁判(本当に裁判なのか、国会での証人喚問なのか、専門的な政治プロセスはわからないけれど、)を実現するのが、脱原発への第一歩になると私は考えている。

 追記 ここのところツイッター上で、伊丹万作氏の、戦争責任についての書簡が話題になっていますが、私は、倫理的には極めて高潔な、尊敬すべき文章だと思いますが、基本的論理については、反対の立場です。

 みんなが、悪に加担してきた。だまされたということも、過失であり、責められるべきことである。むしろ、だれもがだますことに加担してきた。だから、戦後急に正義、裁く側にたって、戦争犯罪を告発断罪する側になることには与しない。という論旨かと思うのですが。
 正義が悪を裁く、ということの欺瞞を指摘し、高潔ではあるけれど、では、誰が、「あやまち」を明らかにするのか。こういってしまっては、東京裁判のように、外国の人に裁いてもらうしかなくなってしまうではないか。というのが、私が反対する理由です。
 
 私は、正義が悪を裁くのではなく、みんなが善意からスタートしたはずなのに、薄汚れてしまった傷を持つもの同士として、心情的には泣きながら。涙を流しながら、それでも、何が過ちだったのかを、「お前に裁く権利があるのか」という指弾を甘んじて受けながら、日本人自らの手で、きちんと明らかにすることが必要だと思います。

 みんな、汚れた手をしている。だから誰にも人を裁くことはできない。という高潔に見える理屈に日本人が弱いことこそが、伊丹氏の書簡中にもある、日本人は外圧以外では変わることができない原因だと私は思っています。汚れた手で、泣きながらでも、間違いをつかみ出すことを、今回こそ自分の手でやりましょう。




具体的行動計画 エネルギー自立化プロジェクト報告ブログは
http://water-planet-e-home.blog.so-net.ne.jp/

2つのNO、について考えた。その1。昔の友達の「読んだよ」の一言。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 自立エネルギー計画の進捗報告ブログの方で予告した通り、私の初めのブログ、文章について、「きっとこういう否定的意見、感想、感情を持った人もいるだろうな」ということについて、数日間、考えたことを書きます。

 プロジェクトには基本賛成したうえで、「風力はうるさいから反対」とか「ガスタービンもうるさいし、CO2でるからダメ」というように、具体的方策について反対を直接言ってくださった方、は、私の中では「賛同してくださる、建設的助言者」と受け取っており、基本、YES、と言っていただいていると受け止めています。

 今回、実はいちばん堪えたのが、ある昔からの友人からの「読んだよ」という一言だけのコメントでした。賛成でも反対でもなく、読んだよ、という一言に彼女がこめた思い、というのを、ツィッターで知りうる、彼女とその旦那さんが今、やっている活動と合わせて考えると、それはやはり批判的意味をこめた「読んだよ」なんではないかなあ、と思い、考えました。
 今回、私が糸井さんに、このブログ読んでください、と勇気を出して言えたのは、実は今から28年近くも前、大学三年生から四年生にかけて、広告学校というコピーライター学校で、糸井さんの生徒だったという、はるか昔の、細いつながりがあったからです。そのときの糸井さんのはじめの授業というのは、もうぜったい忘れることのできない衝撃的なものだった、その思い出はまた今度書きますが。その友人、というのは、広告学校の同級生で、いちばんはじめに話をした相手で、同じ佐野元春ファンで、同じように小説家志望からスライドしてコピーライター学校に来ていて、という、すごく気が合う友人で。お互い別に恋人はいたし(私の場合は今の奥さんマツコデラックスですが)お互い「異性としてタイプなわけではない、のに気が合う友人」ということで、手紙のやりとり!20年前はメールなんてなかったのですね、は僕が結婚するまで続いていました。
 彼女は今も第一線のコピーライターなのですが、旦那様も同業界人ながら、特異な経歴をお持ちで、大型トラックの免許を持っていて、今回の震災後は、被災地に支援物資を自らトラックのハンドルを握って届ける、という活動をしているそうです。そして彼女もその応援をしつつ、被災地に送ったらいいものを日々考えたり、被災地の野菜を買って応援したり、と、「被災地の応援支援を具体的に行動する」という震災後の日々を送っているご夫婦なわけです。そういう彼女からしたら、「被災地、本当に大変なことになっているときに、何がおしゃれでぜいたくな自立エネルギーだ!。そんな金あったら被災地に支援しろい」という気持ちになったんではないかな、と思ったわけです。そういう気持ちが、一言だけ「読んだよ」というコメントだったんじゃあないかなあ。
 被災地が本当に大変なことになっていること。それに対して、何も具体的に行動していない自分。そのことが、心をすごく重くしている。放射能の不安や将来的危険はあるにせよ、今、この瞬間は安穏と生活している東京相模原にいる人間が、被災地の現実ひどく困っている人たちのを助けることではなく、原発とエネルギーについてのふわふわした議論をしてはしゃいでいる。そのことってなんだろう。
 私は、そのことについては、ここで、あやまってしまいます。ごめんなさい。私、できないんです。家族が、とか仕事がとかいう具体的な理由でできないのではなく、考える心と頭の回路として、遠くで困ったことになっている人のことを知って、何が何でも助けに行こう、と思わないタイプの人間なのです。冷たい、卑怯者、と言われればその通りです。誰かが助けに行ってくれると「ありがとう」と思うし、僕しかいない、どうしても、となれば行くのかもしれないけれど、「何はさておいても、まっさきに人助けに走る」ということが、できない人間です。
 だから、僕のこのプロジェクトは、基本的に、「被災者を直接助けに行かない。行こうと思えば行けるのに行かない卑怯者として、何ができるか」ということである、というのは、事実なので、否定しません。だから「そんなふわふわしたことに付き合ってられるか、被災者に直接届くことをやるぞ」という方は、どうぞ、そちらを優先してください。でも、どういう心の仕組みなのか、そちらに一歩を踏み出せない人たち、というのがいて、動けない自分の弱さに、そのことに心がまた押しつぶされそうになっている人たちもまたたくさんいて。そういう人たちと一緒に、自分のできる範囲で、前に進んでいくプロジェクトとして、このことは進めていきたいと思います。現地のために働いてくれている、友達。だけじゃない、すべてのみなさんに感謝し、そこに直接かかわらない自分の弱さに恥じ入りつつ、自分のできることをやっていきたい。そのことは常に心の中にきちんとおいておきたい、そのための一言として、彼女の「読んだよ」は、大切なNoとして感謝。

 さて、もうひとつのNOは、政治的解決から逃げるな!というNO。原発の問題が政治的問題であるなら、どんなに逃げたって、政治的対決を経なければ解決しないだろう、というNO。これについてどう考えたかは、次回。

 
 

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