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斬首考 閲読注意 画像はないけど、首切りについての話だから、いやな人は読まないで。 [閲読注意]

このひと月ほど、Beheading 首を切る、切断された頭部という言葉が、ニュースで多く扱われた時期はあまりない。
 国内の神戸女児誘拐事件、イスラーム国による欧米人ジャーナリズムの処刑映像のニュースが流れただけでなく、「ウクライナ側が、対立するドネツク義勇兵を殺害し、切断された頭部を兵士の母親あてに小包で送る、」というニュースと映像も飛び込んできた。

 私は大学時代、三島由紀夫を研究していた。もちろん文学的な関心が中心だったのだが、深く考えると、小学校一年のときに起きた三島割腹自殺、そして「生首が」という事件の印象が、三島への興味関心の根底にあったのかもしれないと、今にして思う。暴力と死に対する恐怖。理性や常識では理解できない、「首を切る」ということへの原始的な、生理的な恐怖について、私は興味があるのではないか。
 そのことになんとなく気が付いたのは、松田優作の遺作となった「ブラックレイン」の中で、主人公の同僚刑事役、アンディガルシアの首を、狂気,凶暴なヤクザである松田優作がバイクで走ってきた勢いのままま日本刀で首を刎ねる、というシーンがありそれを見たとき、なんとも言われぬいやな気分になり、それ以降の映画の印象がほとんどなくなった、ということがあったときだ。
 日本人の野蛮さ、戦後しばらく忘れていた野蛮さと狂気が、日本刀による斬首というシーンに象徴されている。そのことを見せつけられると、ものすごく、それまで感じたこともないようないやな気分がした、これはなぜだ。その問いが頭のすみにいつもこびりついていた。

 三島事件、酒鬼薔薇事件が、いつまでも繰り返し語られるのは、「首を切断する」「生首」というものがもたらす、理解できない狂気に対する恐怖と、だからこそ見たい、知りたいという抑えがたい気持ちが、いつまでも人の胸の底に残り続けているからではないのか。

 国連の決議を持たずに米国がイスラーム国を空爆することは、国際法上、明らかに違法であっても、西側諸国がそのことを容認するのには、イスラーム国による西側ジャーナリストの処刑、特に首を切断するという「残虐な」行為に対する、「放置しておけない」という気持ちが背景にあるように思う。「首を切るやつ=野蛮人、西欧的価値観を共有していないやつら、だから征伐しないといけない」という、そういう十字軍的気分がありはしないか。その気分にそのまま乗っかってしまっていいのか、ということに、違和感がここのところずっとある。

 一年ほど前、日本統治下で起きた台湾先住民による反乱を描いた映画「セデック・パレ」を見た時から考え続けているのだが。台湾先住民は伝統習俗として「首狩り」を成人儀礼として行っており、当時もその習俗は維持されていた。襲われた日本人村も、ほぼ全員首を狩られた。この映画は、まあ、びっくりするほどたくさんの人の首がポンポンと刎ねられていくのだが。彼ら首狩りを伝統として持つ原住民にとって、その殺し方は、「特別な意味」=もっとも正式で、相手に対しても敬意を持った殺し方である。日本軍が彼らを鎮圧するために毒ガスをまいたりするのだが、宗教的に神聖な「首を切る」という殺し方と、「毒ガスで殺す」という殺し方と、どちらがより「野蛮」で「残酷」なのか。というのはわからないなあ、と映画を見ながら思った。

 イスラーム国による人質の首切断処刑というのは、確かにひどく残酷で正視に堪えないものではあるけれど、ガザの子供たちを、イスラエル軍のミサイルや爆弾が無残に殺すことの残虐さと、「どちらがより非人道的化」なのか、という問いに今のところ答えはない。

 それから、話は変わるが、西欧、欧米人が、「人の首を刎ねないか」という点についても、別にそんなことはない。ウクライナでドネツク義勇軍の兵士の首を刎ねて、その母親のもとに箱詰めにして送ったのは、欧州の東端ではあるが、「NATOに入りたい、EUROに入りたい側」のウクライナ政府側のやったことだ。
 
第二次大戦中の記録を見ると、日本軍が中国で民間人も含めものすごくたくさんの人の首を日本刀で刎ねたのは事実だが、一方、アメリカ軍側も、日本兵の首を刎ね、生首を軍艦に持ち帰り、蹴って遊んだ、というような記録が残っており、戦争の狂気の中では、「首を刎ねる」ということは西洋にもつい最近まであったものだ。

現実とファンタジー映画の話をごちゃごちゃにするのもなんだが、ファンタジーの名作「指輪物語」を見ていると、「首を刎ねる」行為は、善悪両軍でたくさん出てくる。オークの軍がローハンの城を攻めたときは、討ち取ったローハンの騎士の首を投石器で城の中に投げ込む、という蛮行をした。のは「悪」の側の行為だが、「正義」側の行為としても、ドワーフとエルフの準主人公二人は、弓と斧で、オーク軍の兵士を何人討ち取ったかを競い合う中で、ドワーフは斧で敵の首をチョンチョン飛ばしている。西欧の戦争の歴史の中で「斬首」は普通の行為であり、それが減っていくのは、単に兵器が近代化したからだ。

イスラーム国というのは「過激」だとか「残酷」だとかいう以前に、原理主義=神の法に決められた通りにあらゆることをちゃんとやる国を作ろう、としている集団だと考えると、
神が定めたイスラーム法に基づいた処刑として、「残酷だから」ではなく「神の法に基づいた古典的方法で」斬首をしているのだとしたら、それを西欧の基準で「他の処刑方法より残酷だ」として、「だから空爆する、殲滅する」というのは本当に妥当なのか。ジャーナリストを処刑するのも残虐だが、空爆で民間人を巻き添えで殺すのも、同じように残虐ではないのか。

 いやいや、イスラーム国の残虐行為は、西欧人ジャーナリストだけではなく、少数民族クルド人、その中でもヤズーディーの人たちへの「男は虐殺、女性は奴隷」という点にもあるではないか、というのが、国際世論の大勢であることは私も知っている。

 ことここでわざわざ「ヤズーディー」を持ち出す、というのも、今まではなら「少数民族クルド人に対する虐殺」と言っていたところだろうが、イスラーム国領域が、あまりにクルド人地域というか「クルディスタン」と重なっているために、クルド人が、けっして少数民族などではなく、人口3000万を抱え、近代化した軍も持つ「国境で分断された民族だが、少数でも弱者でもない、中東におけるアメリカの支援を受けた集団」ということがはっきり見えちゃいそうになったから、その地域の中でも本当に少数派である「ヤズィーディーへの迫害」ということへ国際世論の焦点を持ってこなければならなくなったのか、などと邪推をしてしまう。

 私自身は首を刎ねられたくない。し、誰の首も刎ねたくない。同時に戦争で、爆撃で死にたくもない。戦争で爆弾を落としたり、マシンガンで人を撃ったりもしたくない。私の息子たちが兵隊さんになって、中東かアフリカの紛争地域に行って、治安維持の仕事をしていて、爆弾テロにあって死んだりするのもすごく嫌だな。それだけは勘弁してほしい。あー、絶対いやだ。

臆病者で怖がりなので、できれば、布団の上で老衰で、だんだん食べられなくなる、だんだん寝ている時間が増える、そして大往生、というように死ねたらと思う。でも、どんなことが人生起きるかわからない。死に方は選べない。事故や大災害で死ぬ可能性は、日本で生きている限り、常にある。

でもイスラーム国の捕虜になって首を切られるのは嫌だなあ。怖いし痛そうだし。
 
日本がもっと右傾化して、欧米人ジャーナリストを日本刀で切り殺すような事件が起きて、それへの報復で日本が空爆されて爆弾にあたって死ぬ、というのも嫌だなあ。
 中国と戦争になって、日本が占領されて、その支配に反抗するパルチザン組織が結成されて、子供たちがそういう組織の活動をして、お前、パルチザンをかくまっているだろう、と家族まるごと拷問されて殺されてしまう、というのも嫌だなあ。

 いろんなことがわからないけれど、このままいくと、そんなことが起きるんじゃないか。まさか起きない、と思っているだろうけれど、ウクライナの人たちだって、ほんの二年前までは、あんなことになるなんて、ちっとも思ってなかったと思うよ。

 そんなことをぐるぐる考えてしまうので、本当に気分が悪いんだ。

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