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介護人工子宮アイデアについて。NHKスペシャル人体で、タモリさんが子宮に入ったのを見て考えたこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

Facebookで書いたもの転載します。そもそもは、日経新聞の『16年の出生数、初の100万人割れ 出産適齢期の人口減 』という記事を読んで考えたこと。

時々、暴論シリーズ。思考実験だから、非常識なことを書きます。
 
団塊世代以降の、これから介護が必要になっていく近未来・老人世代は、人間に介護してもらうのをあきらめた方がいい。だって、介護を必要とする人数の方が、介護に従事できる人間より、ずっと多くなるんだから。
 それに、これから生まれてくる未来有為な人たちのほとんどを介護産業に従事させるわけにいかないでしょう。この前生まれたうちの孫を、私や私の妻や、その他老人たちを介護するためだけの人生にしたいか、というと、全然したくない。今、介護職に就いている人を誹謗中傷するつもりは全くなく、そこに本当に生きがいを感じてやってくださっている方には感謝するけれど。今、自分の老親や妻、夫を介護している方のこと、その介護の日々の中で、感じていらっしゃる様々な思いや感情を軽んじるつもりは全くないれど。しかしやはり、老人の介護というのは、社会全体の仕組みでも、個人の人生の中でみても、いろいろな意味の負担が重すぎる難しい仕事だと思う。
 これから貧しくなる日本に、外国人労働者を介護分野に来てもらおうと思ったって、誰も、どこの国からも来てくれないですよ。外国人労働者に頼るという発想もNG。
 そうしたら、人間に介護してもらわなくていいような技術を、今後10年以内に開発する必要がある。「介護ロボット」よりも、何かもうすこし大胆な発想の「介護テクノロジー」を。
 うちの奥さんは、自分が介護が必要な老人になった後は「トイレに住みたい」と言っている。(この前書いたように、妻はリハビリ科医師、患者さんのほとんどはかなりの高齢。週一回は、リハビリ科に勤務する前に、初めに勤務した、寝たきり老人多数の内科病院に勤務。高齢者、寝たきりの患者さんの様々な状態をお医者さんとして診てきた。その経験から思うことのようだ)。病院にも、病院に来る医療機器メーカーの人にもいつも言っているみたいだが、「トイレと風呂とベッドが一体になったようなもの」「体位転換や入浴、排泄が人間の介助なしで行えるようなもの」があれば、その方が自分が介護される側になった時にも、体も心理的にも楽だ。と言っている。
 排泄と食事と入浴が介護なしでできなくなった状態は、生理的側面で言うと、乳児状態に退行していくこと。ただし乳児と違うって厄介なのが)①赤ちゃんよりサイズがでかい。排泄物も量も多いし臭いし。風呂に入れるのも大変。服を着せかえるのも大変。床ずれ防止に体位を変えるのも大変。介護労働者はみんな腰を痛める。なので、寝たきりの人の栄養管理をする場合、体重が増えすぎないようにしないといけない。、②頭脳、知性、人格、記憶が、基本スタートラインが大人成人。そこから、知性・人格のどの部分がどれだけ退行しているか、していくかは人により大きく違う。(言い方を変えると、どういうめんどくさい老人になるかは人によって違う)③その「退行しつつも保持されている人格と知性」、プライドやできるはず、できないことが悲しい腹立たしいという気持ちについて、本人も葛藤するし、その葛藤を、介護する人にぶつけると摩擦が起きる。(介護する人にとっても、される人にとっても難しい問題)④意識が無い、喋れない、意思疎通コミュニケーションが取れない場合、介護する人は「赤ちゃんだと、だんだん成長し人間になっていく」希望を感じられるが、「人間的反応がない、コミュニケーションが取れない、回復の見込みがない」存在を世話し続けることに、意味を見出せずに精神的に追い詰められる人も出てきてしまう。(③と④は原因は異なるけれど、介護施設でときおり起きる虐待や、ひどい場合殺人事件の原因となる。川崎での介護士による投げ落とし殺人事件は③、老人ではないけれど、相模原の養護施設での大量殺人は、④が犯行動機の中心と思われる。)
 この暴論を書こうと思ったのは、実は、昨日のNHKスペシャル人体の、「赤ちゃん」の回。大きなサイズの子宮の模型を作って、そこに、胎盤とそこから伸びたへその緒をつけたタモリさんに入ってもらう、という演出をしていた。
 食事、排泄、入浴すべてにフルに介護が必要になった人が住む空間、妻が「トイレに住みたい」と言っている空間というのは、つまり「胎児が胎盤をつけてお母さんの子宮に収まっている状態」というのを、寝たきり老人向けに人工的に作ってあげるということなんじゃないのかな。と思ったわけ。タモリさんは、「なんか落ち着く」「子宮バーっていうのを作って、チューってウイスキーが吸えればもっといい」なんて言っていたけれど。羊水に浮いている状態、排泄の心配がない状態、栄養摂取が心配ない状態、そして映像デバイスが視聴覚か脳神経に直結していて、読書とか音楽を聴くとかテレビや映画を見るとかが、いつでも自由にできる。羊水内で弾ける楽器とか、羊水内でも絵が描けるとか、そういう技術も並行して開発する。
 胎児って、お母さんが音楽を聴けば、一緒に暴れるし、お母さんの声は聞こえるし。寝たきり状態になったら、胎児状態になって外界とぼんやりとコミュニケーションしながら、だんだん意識が覚醒している状態よりうつらうつらと寝ている、夢見ている時間が長くなって、老衰で死ぬっていうふうになれないかなあ。人工子宮に入って、そこから奥さんとコミュニケーション取ったら、なんとなく、奥さんの子宮にはいったみたいで、安心なんじゃないかなあ。他人に押し付ける気はないけれど、僕はそれがいいなあ。時間をゆっくりかけた安楽死、のようでもあるけれど。西部邁氏も、自分で自裁死しようとしても、体が不自由になった、誰かに手助けしてもらわなければ実行できず、その誰かを「自殺ほう助罪」に巻き込んでしまうという悲劇になりそうでしょう。そういうことなく、できるだけ人の手を煩わせずに赤ちゃんに戻って、死ねないかなあ。
 もう、あとはどうやって死ぬか、だけだもん、僕の人生でほんとうに重要なこと。
(追記 ここで書いた人工子宮回帰が、今いろいろ問題になっている「胃ろう」の発展形なんではないか、という感じもしてくる。胃ろう問題を「胃ろうをやめる」方向で解決するのではなく、「老人にとって幸せ、生きている満足、QOLが増大する方向に大幅進化させる、という発想なのかも、と思う。)
↓子宮に入ったタモリさんはこちら。まさに、トイレに住んでいるように見えません?
タモリさん子宮.jpg 追記2 Facebook上友人にも、今、リアルタイムで親御さんを介護している人もたくさんいるし、大変な介護を体験してきた方もたくさんいるし、中学同級生友人には、つい最近、介護士の資格をとって介護の仕事を始めた人もいる。現場でリアルに今、介護の真っただ中にいる方たちからご批判くるのでは、とは思いつつ書きました。何より一番身近な、たくさんの、何十人の担当老人入院患者を抱えている妻から、今朝一読後、いろいろ「現実はこういうこともこういうこともこういうこともある、単純すぎる、甘い」という厳しい意見たくさんもらったのですが、それでもあえてブログにアップしたのは。  あらゆることに対する僕のスタンスが、(コンサルタントって、現場の人の声は聴いたり、視察したりするけれど、その会社の人ではない、という立場だから自由に考えられることを自由に考える、ということなので、) 今、当事者でないがゆえの暴論の中に、何か、今は現実的ではないけれど、もうすこし先の、解決へのヒントはないか、誰か、トイレメーカーの人でも、医療機器開発の人でも、ばかばかしいと思わずに、読んでくれる人が出てこないかなあ、と思って、書きました。
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女子カーリング そだねージャパンに対する反感について、考察をしました。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

 今、男子のカーリング決勝、アメリカ×スウェーデンやっている。男子の試合も面白い。さて、女子カーリングの日本チーム、人気が出て注目が集まると、ツイッター上などにアンチな人、意見もたくさん湧いて出てきて面白い。興味深いです。おしゃべりしたり座っておやつ食べるな、だらしない、とか、試合開始前の選手紹介で「にっこにこにこにー」してふざけているとか、試合中から泣くなとか、試合中ニコニコしすぎとか、試合終わった後のインタビューで泣きすぎとか、方言、子供がマネするからやめろとか、自分のことかわいいと思ってるみたいでわざとらしくて嫌という女性からの意見とか、スレンダー美人が好みの男性からは、太っているだけで別にかわいくないとか、まあ、いろんな意見があって面白い。
 オリンピックなのに、女子の日常まるごと丸出しな感じに、(人気の理由の一端はそこにあると思うわけですが、)反発を感じる人もいるようです。それはそれとして、スポーツ競技としてのカーリング、ということ自体への反感、というものもあって、それについて考察すると、スポーツの起源とか、日本のスポーツ文化、みたいなことがいろいろ見えてくるので、ちょっと思いつくことを書いていきます。
 古代オリンピックは、兵士でもあるギリシャの市民が、その兵士としての技を競うという意味があったわけで、たしかトロイ戦争を描いた『イリアス』(ホメロス著)読んだときにも、従軍途中の暇つぶしに、やり投げだのレスリングだのの腕を競い合うというエピソードがあったような記憶が。(昔読んだのでおぼろげな記憶ですが。。「狩りの腕を競う」能力と「戦争のための技量を競う」のは、まあ近い能力なので、そこらあたりから、オリンピックで競う競技というのは発生したわけです。
 槍を投げたり石を投げたり、高く跳んだり速く走ったりというのは、どれも狩りをするのに必要な能力ですし、隣の部族と戦争になったときにも頼りになる人ですから、それができる人は、部族全体の生存に貢献する偉い人なわけです。
 冬のオリンピックでその色彩を最も色濃く残しているのは「バイアスロン」ですね。日本ではほとんど注目されませんが、ちゃんと今回もBSで放送していました。鉄砲かついで長距離スキーで走っては、10発ずつ的を撃ってはまた走る。一発外すごとに150mだっけ、余計に走らないといけない、という競技です。私の息子、陸上自衛官として札幌真駒内駐屯地に勤務しているわけですが、初めて札幌に行った冬は、ひたすらスキーの練習させられた、と言っております。鉄砲と装備を20キロとか30キロとか担いでスキーですべる、というのは雪国軍隊の軍事教練なわけです。
 ところが一方、スポーツには「暇つぶし」という意味もあるわけです。英語の辞書を引いてみればわかりますが「遊び」「暇つぶし」から「悪ふざけ」なんて意味まで出てきます。
 暇つぶしの遊びが、だんだんルールがはっきりしてきて、いろいろな競技に発展していくわけです。
 カーリングというのは、この「暇つぶし遊び感」がいちばん色濃く出ているために、「狩りや戦争」感をスポーツに求める人からは、不真面目とか言われてしまうのだろうな、と思うわけです。スノボなんかも、明らかに「遊び」起源ですから、元をたどると軍事狩猟を持つ「アルペン」「ノルディック」からは、なんとなく不真面目、遊んでるといって批判されちゃうわけです。(ちょっと前の腰パン問題とか、そういうことだと思います。)(ノルディックでもジャンプは、軍事教練よりもっとひどくて、囚人への刑罰起源です。)
 少し前にnhkのあさイチで、e-Sports(ビデオゲーム自体がスポーツとして認知され、ビッグビジネスになっていること)を特集したところ、テレビゲームのような暇つぶしの遊びと真剣神聖なスポーツを一緒にするな、という視聴者からの意見が出てきたのも同様かと思います。スポーツ起源の「生存に直結する狩猟・戦争起源のもの」と「暇つぶし遊び起源」のものに価値の上下をつけたくなる気持ちが、人類にはどこかに残っているのでしょう。
 とはいえ、現在においては、どのスポーツも、生存とは関係ないものとして「純粋競技化」しているわけで、そこで勝つための努力を、オリンピックに出るような選手は、どの競技者であっても、人生を賭けてしていることに変わりありません。日本の女子カーリングチームの、批判を食っている様々な振る舞いも、私は「勝つために戦略的に取っている態度」だと思ってみています。
 カーリングは、どんな上手な人たちでも、必ず失敗をする競技です。そして、自分の失敗が、チームに、後から投げる仲間に迷惑をかけとしまう、ということが、ものすごくわかりやすいスポーツです。集団スポーツには多かれ少なかれそういう側面はありますが、普通の集団球技などは時間が止まらず状況が連続的に変化し続けますから、自然に「次のこと」に意識が集中していきます。しかしカーリングは、一投ごとの結果「過去」が形としてはっきり残り、それが後の仲間に迷惑をかけ続ける、という「過去を引きずりやすい」競技です。
 野球もそういう側面はありますが、打率は一流選手でも3割。つまり7割は失敗です。サッカーのシュートの成功率(打った数に対する得点率)は、得点王クラスでも1割7分くらいです。8割以上は得点になりません。これに対し、カーリングの投擲成功率は8割程度が標準ですから、「成功して当たり前なのだが、2割くらいは失敗する」という、ちょうど失敗が責められやすい率の競技特性でもあります。
 日本人というのは、何よりも「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが大切という価値観の中で育ち大人になっていく民族です。つまり、ミスをした人は、非常に「自分が仲間に迷惑をかけた」ということを気にして、プレーが委縮しやすいメンタリティを持っています。日本人にとって、カーリングは、性格的に、実は向いていない、過酷な競技なのだと思うのです。
 これに対する、LS北見の取った作戦が、「とにかくニコニコする」「仲間が失敗したときこそ、みんなでニコニコする」「大きな声で、素の方言でしゃべりあう」「栄養補給は立ったままではなく、OLさんおやつタイムのように円陣を組んで座って食べる」「試合が終わった後は泣いたり笑ったり、感情は全部吐き出して、翌日には残さない」というようなことなのではないかと思います。
 真剣じゃないから笑っているんではない。緊張感がないからおやつを座って食べているんではない。失敗が仲間に迷惑をかけて積み重なってしまうという、日本人女子にとって過酷な競技特性だからこそ、勝つために、ああいう振る舞いをしているのだと、僕は思ってみています。。
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読書感想 『本物の読書家』 乗代 雄介 (著) [文学中年的、考えすぎ的、]

『本物の読書家』 乗代 雄介 (著)

Amazon内容紹介(って、本の帯に印刷されている内容なのだな。)
「書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖。
群像新人文学賞受賞作『十七八より』で瞠目のデビューを遂げた、新鋭にして究極の読書家、待望の新刊!
傑作中編2作品を収録。
老人ホームに向かう独り身の大叔父に同行しての数時間の旅。大叔父には川端康成からの手紙を持っているという噂があった。同じ車両に乗り合わせた謎の男に、私の心は掻き乱されていく。大変な読書家らしい男にのせられ、大叔父が明かした驚くべき秘密とは。――「本物の読書家」
なりゆきで入った「先生」のゼミで、私は美少女・間村季那と知り合う。サリンジャー、フローベール、宮沢賢治らを巡る先生の文学講義、季那との関係、そして先生には奇妙な噂が……。たくらみに満ちた引用のコラージュとストーリーが交錯する意欲作。――「未熟な同感者」

ここから僕の感想。
昨年末、いくつかの新聞の「今年の文学振り返り」特集で、何人かの選者のベスト3に入っていたので買ってみたのですが、いやまあ、びっくり。大傑作でした。とはいえ、文学や読書を「趣味や娯楽、あるいはなにかの教訓やら感動を得るためのもの」と思う人には全く無縁の、何が書いてあるか理解不能な本に違いない。叙述の半分以上は、小説を書く、読むということに対する文学論的思弁です。それをつなげ合わせながら、小説内の出来事、筋立てを、ドラマチックに組み立てていく、という、稀有な、新しいアプローチをモノにしています。
 物書き修行中の長男と、保坂和志の小説について論ずることがときどきあります。私は、保坂の小説は何も事が起こらないから、退屈で嫌いだ、というと、息子は、現代の純文学の小説はそのような方向に向かっているのだ、その面白さがわからないのは文学が読めていないのだ、と私を批判するわけですが。この乗代雄介という著書は、保坂的な文学的思弁と日々の生活の単調な組み合わせだけでは終わらせず、そこにスリリングな事件の展開を織り込むという曲芸的離れ業を持ち込んでいます。一作ならともかく、この本に収録されている二編ともに、その試みに成功している、というのは、ただものではありません。
 文学に、読書に、人生を絡めとられた人にとっては、身もだえするような内容であること間違いありません。死にそうになりながら、あっという間に読んでしまいました。それにしても、このタイミングで、こういう本に出会ってしまうというのは。

http://amzn.asia/9Llbzye
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『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック 著 中村佳子訳 河出文庫   あらすじ ネタバレあり、注意。  人間存在の本質に、特異な手法で迫った極めて特異な小説。

 生命科学と情報科学の進化が重なると、なんらかの意味で人が不死になる。そうすると、宗教の在り方が激変し、人間の価値観も生き方も想像もできないほどに激変する。この周辺をテーマにした小説はSF界隈では多数存在するが、純文学側で本気で取り上げる人はまだ少ない。日本で言えば川上弘美の『大きな鳥にさらわれないように』などが近いだろうか。
 ウェルベックという人が普通の意味での純文学の人かどうか、というのは議論の分かれるところだと思う。世界中で話題、ベストセラーになった『服従』は、フランスでイスラム勢力が選挙で政権を取ったという状況で、大学のイスラム化に伴い、改宗をしないと教職からも追われる状況になった大学教授が、公私さまざまな面からの圧力や懐柔の前に、次第にイスラム化を受け入れていくという小説である。主人公の大学教授の、俗物的動機(経済的社会的待遇や、性的パートナーが得られる得られない、といった)から、イスラム化を自ら受け入れていくさまが、筆者得意の露悪的態度と文体で描かれていく。この点がウェルベック小説の最大の特徴といってよいかと思う。主人公(たいてい、作者の分身的である。)は、、結局、欲望に弱く、普通の人よりやや知的で他者を見下してはいるものの、崇高な理想や信念によって生き方を決めるほどの、真の知的さも高い倫理性も持ち合わせていない。人間とは多かれ少なかれ、本質的にはそういう存在なのだ。そういう人間が、その状況に置かれたら、どうふるまうか。そうした露悪的知的実験性こそ、ウェルベックの真骨頂だ。状況・設定の過激さや、表現の露悪性から、純文学の人なのか、という問いが生じてしまうのだが、そこに人間性の本性を描き出そうという強い意志が存在し、かつ、小説のカギになる要素に「文学」の力への信頼や愛が描きこまれる、という点からすると、この人はまぎれもなく純文学の人だと私は思う。
 SF畑からのアプローチにおける「不老不死の実現」だと、医療技術進化による肉体自体の不老不死化またはDNAからクローン化した肉体を何度でも複製再生でき、そこに、記憶や人格パターンのコンピュータ・サーバー上への保存したものを再アップロードすることであることが多い。が、ウェルベックの考える「不死化」は、文学者が考えたらしく、オリジナル度が高い。
 作品内では、そもそも、不死化の実現はそれほど近い未来には設定されていないが、小説はまずは現代からスタートする。人間の科学技術による不死化を謳う新興宗教が、DNAの保存後の自殺を容認する教義で、勢力を広げる。DNAから「いきなり成人のクローンの再生が短時間で可能になる」技術が完成した、それを教祖自身が自殺し復活することで証明する。が、実は、その時点では嘘である。アクシデントによる教祖の死を隠蔽するための偽装工作であり、その時点では再生技術は完成していない。しかしこの事件を契機に教団は急速に信者を増やし、世界の宗教地図を塗り替える程になっていく。技術的に人の再生が実現するのは、実に数世紀を経てからなのだ。という、時間スケールの非常に大きい小説になっている。その後に起きた核戦争での人類のほとんどが絶滅した世界の中、DNA保存されたその宗教の信者は生き残り、新しい世界を築く。DNA操作で、新しい人類は光合成によるエネルギー・物質合成を可能にする変更を加えられ、食の必要もなくなり、性行為による子を持つことも必要とないネオヒューマンへと改造されている。旧人類の政治的文化的欠陥を克服するために、ネオヒューマンの社会では、個人が完全に孤立した状態で、一人で生活している。何世代も再生を繰り返しながら、仏教的解脱に近い、平穏で刺激の少ない平穏な幸福の中で生活している。元の世代の人格・記憶は、電子的に保存されているのではない。初代信者が死の前に叙述した「人生記」を、再生した新しい肉体が読み、それへの解釈を行うことで個人の記憶、人格が継承される、という、文学者が考えた、きわめてアナログでオリジナルな形式を取る。初代旧人類の持った、人格的欠陥や欲望にまみれた人生、その人格が永遠の生を得ても仕方がない、そうではない、平穏で自立した幸福な新人類が幸福な生を実現できるシステムが、「ビッグシスター」(詳しくは説明されていないが、おそらくは人類の進化と新社会構築を先導したAIの究極形)により作られているのだ。他者とのかかわりはネットワークを介した会話のみで、一切の肉体的交流なしに平穏に生き続ける。肉体は改造されているとはいえ不老不死化はしていないので、各世代の肉体は一定の時間を経て死を迎え、次の世代の肉体へと引き継がれる。
 小説は、現代の、下品で政治的なコメディアンとして成功した主人公ダニエルが、有名人としてこの教団の集会に招かれているうちに、教祖再生偽装事件に関わる。同時に、初老の年齢にさしかかったことで若く美しい恋人(彼女とのセックスだけが、彼にとっての意味のあることだったにも関わらず)から捨てられたことをきっかけに、DNAを保存し、自殺する。その初代主人公の人生記録と、2000年の時を経て、再生を繰り返し平穏に生きている24代目、25代目ダニエルの独白が交互に語られていく構成を取っている。
 未来のダニエルの欲望解脱的ライフスタイルとの対比、そこに至ることの必然性を語るため、という狙いもあって、初代ダニエルが、若い恋人とのセックスに執着、それだけに価値を見出して生きているさまが、これでもかというくらい露骨に描写される。
 露悪的に描かれる初代主人公だが、彼の人生にも3つの愛があったことが、描かれる。同年代の美人編集者だった妻イザベルとの初めの充実した結婚生活。若い恋人との、理想的セックスを中心とした生活も、愛とセックスが究極の結びつきをした形として語られる。そしてもうひとつは、先妻との生活の最後のころに拾って、先妻の死後に引き取り、若い恋人とのつらい別れの後の生活の心の支え手なった愛犬マックスへの愛。
 注目すべきは、子供を持つことへの徹底的な拒絶・嫌悪感が、この小説では貫かれていること。セックスへの執着はあっても、セックスがパートナーとの愛の中心にあっても、子供を持つこと、子供を育てることには一斉の価値を認めていない。その代わりに「自分が永遠に生きること」に価値が置かれる。その宗教も、子供を持つことは全く奨励されていない。「チャイルド・フリー」という言葉さえ出てくる。そんな価値観の人にとって、愛犬の重要さ、というのが、きわめて重たく描かれている、というのも、いろいろと納得させられるものがある。
 子だくさん家庭人として人生の大半を子育てにささげてきた私からすると、「セックスはあるが子作りをしない欲望まみれ人生」と「あらゆる欲望から解脱した、孤立した平穏な生」の間には、全く別の人生の在り方、幸福の在り方が存在すると思うのだが。「子供を育てた後に生じる夫婦の平穏な生活」「そのパートナーの喪失を受け入れる苦しい体験からの、孤独だが死を受容するまでの人生」というような人生全体を、どう幸福なものとして全うするか、ということを漠と考えているだけに、この作者の過激な幸福論は、なかなかに新鮮であった。しかし、子供を持たない人生を選択した人が読めば、より切実な共感を感じるのであろうか。
 小説エピローグにおいて、25代目ダニエルは安全で孤立した環境から、外の世界へ旅立つ。そこで彼が出会った世界は、考えたことは。変わり果てた世界の姿と、そこで原始時代に戻ったように暮らす、旧人類の生き残り「野人」たち。生理的にも思考方法も現在の人類とは大きく変わっているネオヒューマンがその体験の中で考えたことを、作者は想像力の限りを尽くして描く。そこまで外部化、客観化された視点から、現在の人類の本質、愛の本質を容赦なく描き出そうとする執念はすさまじいものがある。
 読んで楽しい小説ではない。理解しやすい小説でもない。(この感想で書いた小説のあらすじや細部理解も、実はあまり自信がない。読み損ね、理解し損ねている点が結構あると思う。)しかし、人間の本質を、世界の本質を理解したいという欲求を持つ人には、必読の小説だと感じた。
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少子化について、年末年始、大暴論を考えてみた。 [文学中年的、考えすぎ的、]

年末年始に見たり聞いたり読んだりしたことをきっかけに、少子化についての「暴論」を書いてみたいな、と思ったので書いてみる。年末年始の真面目な政策論争とかドキュメンタリーとかニュース解説の番組でも少子化をどう止めるかがずいぶん論じられていたけれど、そこで語られていたように常識的な対処では全然止まりそうもない。ので、これは自覚的に、常識人が言わないようなことを書いた暴論です。だから、常識的な、誰でもいいそうな批判は勘弁してほしい。そこは読者の知性とセンスに期待をしたい。広告やマーケティング関係の友達が多いから、これはブレーンストーミングの「拡散フェイズ」の、頭を柔らかくして視野を広げるための意見だと思って読んでほしい。(ブレストの拡散フェイズではネガティブチェック的常識的批判はいったん我慢、がルールですよね。)
 もうひとつ、僕自身は六人の子供を育てた子だくさんお父さんだが、SNSの友達には、子供なしの人のほうが多い。このテーマで文章を書くと、友達の人生にいちゃもんをつけているようになりがちなので、あんまり触れないようにしていた。でも、やっぱり日本の少子化問題は、日本社会の価値観とか制度変更とかの欠点やミスが積み重なった結果としての大問題だと思うので、どうしても論じる必要があると思う。これは、これから大人になる若い人たちが、どうやったら国から強制されたりするのではなく、子供をたくさん持てるようになるかなあ、ということを考えたので、子供を持たなかった友人のみなさんを批判しようという意図で書かれたわけではありません。そこのところも、分かってほしいです。


 きっかけ1
この年末年始、一昨年の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の一挙再放送が、地上波TBSとCSのTBS1でそれぞれあって、全部ではないけれど、けっこうがっつり見てしまった。その中に、朝まで生テレビのパロディで少子化対策、子育てについてみくりちゃん(ガッキー)がお母さんや兄嫁や友人と議論する、というのがあって、みくりちゃんが「高校生のときのほうが時間があって育児しやすいから、高校で子供を産んで高校に託児室を作って、休み時間に授乳をすれば」っというアイデアを出していた。そうなんだよな、本当にそうだ、と思った。
  きっかけ2
今年の新成人、まだかろうじて120万人はいる。昨年末のニュースで昨年の出生数は99万人。これはやばい。この120万人の新成人全員、むりやりくっつけてカップルにすると60万組。ここから人口増やそうとすると、その60万組が全部3人子供を作っても180万人。全員は結婚しないとすると、結婚したカップルは4人、子供作ってもらわないとダメだな。四人子供を持てるようにするにはどうしたらいいだろう。
 きっかけ3
 昨日、全然別のテーマで文章を書いていた時(国立大学の文系学部縮小がいかに間違いであるか、というテーマだつた。)、人間には「生物学的動物」「経済的動物」「社会的政治的動物」「文化的動物」としての側面があり、それらを総合的多面的に考えられるように教育しないと、少子化問題だって解決できない、と書いて、そうだな、生物学的動物としての側面で考えるというのが足りていないんじゃないか。と思った。
 きっかけ4
成人の日にオンエアされた18FESという音楽番組。全国のいろいろな思いを持つ千人の18歳の若者、彼らのためにWANIMAが新しい楽曲を作って、彼らと共演する。(コーラスとブラスセクションを千人の若者たちが演奏する。ちなみに去年はワンオクロックだった。)その参加者の中に、18歳の男の子なんだけど、「妻がWANIMAが好きで、今妻が妊娠中でおなかが大きくて」ってインタビューに答えている子がいた。ヤンキーとかそういう感じではなくて、すごく真面目そうな、18歳のときの僕のような男の子。なんか、お前、えらいなって思った。18歳で妻が妊娠中って堂々としている。
 きっかけ5 から、なし崩しに本題を論じていきます。
 昨年から読み続けているフランスの小説『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック著。この人の小説を人にあまりお勧めできないのが、主人公がものすごく下種で、若くて美人でいいカラダしていないと女じゃない、的な価値観をもっていて、そして、セックス描写がものすごく露骨で下品。この小説だけじゃなく、今まで読んだ『服従』も『地図と領土』でもそうだったような記憶が。(本人名誉のためにいちおう説明すると、どの作品も政治や社会に対するものすごく深い洞察と問題提起をしているのが、この人の小説の本質で、だから現代フランス文学を代表する作家なんだけど。フランスの村上春樹、くらいの人気があると思ってもらって間違いない。)なのに、とにかくセックス描写が露骨で下品。この小説家自身の女性観、セックス観がそうなんじゃないかと思う。しかし、この人の小説、フランスでは特に問題なく受け入れられている。日本ではこんな女性観、セックス描写の小説は女性に全く受けないと思うんだよな。しかしフランスでは大人気作家ということは、フランス人的にこのお下劣セックス描写はきっと「あり」なんだよな。そういえば、フランスって先進国の中では少子化対策が一番うまくいっているんだよな。たいていの真面目な解説では、非正規婚での子どもも全く差別されなず支援される制度とか、子育て支援策の充実なんかが要因と分析されるんだけど、セックスに対するお下劣な本能肯定、という「セックス活動度の高さ」がフランスにはあるんではないか、と思った。つまり、日本だと、夫婦でもセックスレスの人が半分くらいいて、そもそも交際相手がいない単身者がたくさんいて、日常生活の中にセックスがごく自然にある人の比率っていうのが、フランス人と比べるとすごく低いんじゃないだろうか。だから、セックスの本質であるお下劣で本能的で動物的な部分を小説でダイレクトに描くと、日本では、日常的にそういうことをしていない人たちは、拒絶反応を起こすのだろう。小説でも、その辺、お上品に上手に描ける村上春樹(の小説って、実は主人公、ものすごく高頻度にいろんな相手とセックスしまくっているんだけど、そうとは感じさせない上品で素敵でかわいらしい描写をするんだよね。村上春樹作品の主人公、やっていることはウェルベックの主人公に勝るとも劣らぬセックス活動家なのだが、誰もそう思わない。ノルウェィの森が映画化されたとき、原作に忠実に主人公の性生活を描いたら、「原作はこんなに下品にセックスだらけじゃなーい」って女性ファンから不評だったんだけど、あれって原作に極めて忠実なんだけどね。)村上春樹はセックスを無害にきれいに描く天才だから、日本で人気なんだろう。。
 少子化を解決するには、子供を作らなくちゃいけないわけだけど、子供を作るにはセックスをたくさん国民がするようにならないといけないんだよね。というすごく本質的にことを考えたわけだ。
 脱線ついでに、少子化問題を論じようとすると、すぐに「子供が持ちたくても子供ができない人のことを考えたことがあるのか」という突っ込みが入るのが今どきの定番なのだけれど、不妊の問題がこれだけ大きくなっているのは、そもそも「子供を作ろう」と考え始める年齢が高くなっているのが最大の原因のひとつなのは、自明だよね。正常な妊娠をする確率は年齢とともに低くなるから、昔も今も35歳以上は高齢出産と医学的にはなっているわけで。正常にどんどん妊娠できちゃう10代後半から20代前半の人たちが、社会的には「学生だからまだ結婚しちゃだめ、もちろん子供作っちゃダメ」だったり「結婚してもまずは仕事のキャリアを」というのが当たり前だという風になっているのが、少子化のそもそもの原因なのは当然のことだよね。高齢化以外の疾患疾病原因での不妊は、少子化問題が起きる前からずっとあった問題なわけで、(男性のおたふくかぜでの無精子症とか、女性の子宮や卵巣の異常とかは)、少子化問題を論じているときに、「そういう人への配慮」を理由に議論の邪魔をしようとする人の意図、というのが、僕には皆目わからない。
 一子目の出産年齢が高くなれば二人目三人目を持とうとする人、生物学的にできる人が少なくなるから、必然的に子供人数は減る。
 少子化を止めようとしたら、できるだけ若い年齢から子供を産み始めて、できるだけ長い年数、子供を産み続けられる社会通念と、それを後押しするための社会制度を作らなければいけないっていうのは、自明のこと。みくりちゃんの言う、高校で出産して、高校に託児室っていうのは、その視点からは極めてまっとうなアイデアだということがわかってもらえたでしょうか。
 それから、高齢になってから子供を作ろうとするカップルにおいては、「子供を作るためにセックスをする」という、おそろしく不自然なセックス動機と行為が常態になるカップルが結構いるでしょう。これが人類の歴史上、いかに不自然かっていうのは、みなさんわかっていただけるでしょうか。
 高校生のカップルがセックスするとき、そんなこと考えるバカは一人もいないでしょう。セックスするとき、子供を作ろうなんて考えない方が人間という動物としては自然なんだよね、当然。性に興味があって、恋愛に興味があって、目の前に好みの女の子がいて、それが恋なのか愛なのか性欲なのか、そこは定かに分離していない状態で、そこはゴムしなきゃだめでしょうと理性が言っても、その理性の声はどこか遠くで微かに聞こえるだけで、そんなことより、興奮と感動とであれれれれ、中ででてしまった、という結果、子供っていうのは『できてしまう」のが人類の歴史の中では、はるかに自然であって。もうすでに愛も性欲もさほどなくなった状態で、「子供が欲しい」という目的のためにセックスをするなどということは、人類史上、すごく不自然なことです。どうしても跡取りを作らなければいけない殿様くらいしか、そんなこと考えなかったんではないでしょうか。
 本来は「恋と愛と性欲」が未分離の若い情熱、「若く情熱的な夫婦愛と性欲」が自然に両立鼎立している10代後半から20代のうちに、ポコポコっと三人四人の子供を作ってしまい、それは作るのではなく、愛と情熱の、パッションの結果として「できてしまう」のであり、そうやって出来てしまう子供を、若い二人だけではなく、まわりのみんなで寄ってたかって育てていく、という社会システムを目指すべき。(人類の歴史、人類社会の9割以上は、そういうシステムだった。)
そうすれば今年の新成人だって四人五人と子供がいるの当たり前になり、少子化問題は30年後、シンギュラリティの時代くらいにはかなり改善すると思います。
 ここで社会制度的に配慮すべきことはふたつあって、ひとつは若くして子供を持つカップルのうち、子育てがうまくできなくて、子育てを放棄したり、虐待したりしてしまう人たちがかなりの割合出てくることへの対処をするということ。二つ目は、若くしてたくさん子供を持つことの負担を女性にだけ荷重に負担をかけないシステムを作るということ。
 「若い奴らは(若すぎる僕は、私は)まだ能力もないし無責任で子育てできないから、ちゃんとした大人になってから子供は作らなければいけない」という一見非常にもっともらしい考え方こそが、少子化の元凶なんだ、というのがこの論の中心。「まだ仕事で一人前じゃないから、結婚はまだ、子供はまだ」って男女ともに言っているから初婚年齢も出産年齢もどんどん上がるので、この、一見もっともらしい価値観を社会全体で、全力でぶっこわさない限りは少子化なんて絶対止まらない。
 未熟でも、見た目も精神的にも子供みたいでも、子育てをすることで人は一人前になる、というのが、まず第一。おそらく若い奴らでも八割は、こういう風にがんばって大人になれると思う。
 脱落して育児放棄しちゃう二割と、その子供を不幸にしない社会制度を作ることが必要。端的に言うと、30歳以下で出産子育てする人にはベーシックインカムを夫婦+子供分支給。その代わり、基本、子供は「社会の子供」として、0歳時から保育園で無償で一日の半分は見る。その間、若い親二人は学業または職業教育を受けられる。その過程で育児放棄や虐待の兆候が把握されたときは、行政が介入して、里親、養子縁組までを大々的に行う。若い時に子供を持ち損ねた少子化元凶世代の養子里親化も公的大規模に支援する。
 30歳前に4人出産を終え、育児を続けている人の特典がいろいろある社会にする。例えば、選挙でドメイン制度を採用する。(子供の数分の選挙権が親に与えられる制度で、ドイツで何度か採用が検討されたことがある。。) ベーシックインカム支給が子供も満額支給されるようにし、子供の数が多いほうが明らかに生活が楽、にする。(里親養子は一人で二人分、という制度にすることで、里親養子縁組が強く促進される。)
高学歴で高齢化した人を、医療費をかけてなんとか高度医療で妊娠させよう、という制度は、どう考えても不合理だと思う。(すでに不妊治療への年齢上限は議論されているし、制度化されているんじゃなかったっけ。)過渡期的にはそうした人たちへの支援もきちんと行うべきだとは思うが。
 より「人類」の本性に自然なのは
①若くて恋愛と性欲が一体化している若いうちに子供を作ることを支援、奨励する。
②未熟な若い両親が、子育てとともに一人前の大人に育つ社会システムを構築する。(社会が、みんなで子育てをする。)
③そうやって30歳までに4人の子育てをした人が、政治的権利や経済的支援をより手厚く受けるシステムを構築する。
④子供ができない、できにくい人が不利にならないことと、若く未熟な両親の何割かが育児に失敗すること、両者をつないで救済する、里親、養子システム、養子を差別しない社会規範、里親を称賛する社会風潮を後押しする。
⑤正規雇用的職業上のキャリアは四人の子供を持った30歳を正規キャリアの標準的スタートとする。
⑥スポーツ選手や、理科系の天才的才能を持つ人など、10代20代から職業キャリアを優先すべき人は、特殊な天才として、別ルートは作っておく。

本来はいつ結婚し、いつ子供を持ち、あるいは持たないかは個人の自由であることは、私も百も承知です。しかし、「職業上の能力、キャリアとして一人前にならなければ子供を持つべきでない」という社会規範が、きわめてきつく形成されてしまったことが、今の日本社会の少子化問題の根っこにあると私は考えます。「団塊ジュニアが就職氷河期で正規雇用に着けない人が多かったから」「低所得だから結婚も子供を持つこともできなかった」という分析が、年末年始のニュース解説的番組でさんざんされていましたが、非正規だろうと低所得だろうと、愛と性欲で子供を作って、ベーシックインカムもらえれば、子供をどんどん作るメリットが、非正規雇用の人にこそできるでしょう。雇用機会均等法以降、女性の社会進出で、出産育児によりキャリアを中断するのが女性に特に不利だから、出産を断念したり、一子目を持つのが高齢になったり、二人目を断念した人がたくさんいたのは本当のことでしょう。そうだとしたら、男性も含め、キャリアのスタートは子だくさんの30歳からにそろえてしまえばいいでしょう。その代わり定年はどうせ70歳まで伸びるのですから。働くのは60歳過ぎてもできます。大学で勉強するのも60歳になったってできますが、自然に妊娠できるのは、18歳から30歳までが、生物としていちばん向いているのですから、その年齢で産むことが、いちばん得になるように、社会制度を設計しなおすしかないでしょう。生物学的動物の人間に対して、いちばん自然な社会制度を作りましょう。
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文学の価値を現政権の皆さんは当然まったく分かっていないということを、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞への反応を見て思う。 [文学中年的、考えすぎ的、]

(カズオイシグロの小説についてのネタバレありですので、これから読む予定のある方はご注意を。))


 閣僚のほとんどが日本会議に属し、戦前の価値観への回帰を目指し、戦時中の軍部の侵略に伴う非道な行いをなかったことにしようとする歴史修正主義的現政権が、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心からお祝い」などできるのだろうか。できるとしたら、誰も作品を読んでいないからだろう。(読んでいたとしても、読めていないのであろう。)
 デビュー作の『遠い山並みの光』それに次ぐ『浮世の画家』、そして出世作の『日の名残り』の共通設定を、まず理解していないのだろう。三作とも、戦前戦中に、戦争を推進する側に、意識無意識は別にして加担した側の初老の主人公が、戦後、大きく価値観が変わった社会の中で、自分の人生の意味(間違いだったのか、意味がなかったのか、いや、そんなことは、という葛藤)を描く、というものだ。文学だから、単純に「間違いだった」とばっさり切り捨てるのでもない。しかし、一生をかけてやってきたこと、生きてきた価値観が崩れ去ったものは、もう元には戻らないことの痛切さ、悲哀を描く小説なのだ。
 「戦前の美しい日本の価値観を取り戻す」ことを掲げる安倍政権、日本会議の皆さんに、もし文学を受け止める読解力があったなら、カズオ・イシグロの小説についてコメントをすることなどできないと思うのだが。
 最新作の『忘れられた巨人』は、なおさらである。隣り合った民族同士の殺し合いの歴史を、「仲良く暮らし続けるためなら忘れてしまったほうが幸福なのか」「しかし忘れて生きるということは、正しいことなのか、可能なことなのか」という問いをめぐる小説である。中世のイギリスを舞台にしているものの、明らかに、近隣の国、民族で残虐な戦争や殺し合いがあった、その記憶を持つすべての人に向けて書かれている。その中に、当然、日本の、明治から先の大戦までの記憶も含まれている。慰安婦問題や中国での残虐行為の「有無や事実」について、できればなかったことにしよう、あったとしてもできるだけ小さく記憶しようとし続ける現政権、日本会議の人たちに、まともな文学読解力があったならば、『忘れられた巨人』を書いたカズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心から祝福」などはできないと思うのだが。
 現政権の人たちが厚顔無恥にもカズオイシグロのノーベル賞受賞に「心から祝福」とコメントできてしまうというのは、そもそも文学の価値というものが分からない、小説、文学を読むという習慣もない無教養な人たちの集まりだからなんだろうな、と思うのである。
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田中洋先生『ブランド戦略論』感想 [仕事関係]

『ブランド戦略論』田中洋著 有斐閣 2017/12/10

私は仕事関係で読んだ本についてブログを書いたことは今までなかったし、仕事についてもほとんど語ることはなかったのですが、この本について語ることは、私の今までとこれからについて語ることになると思うので、少し長くなりますが、書いてみようと思います。(実際とんでもなく長くなってしまいました。)
 私は、今やブラック企業の代表のようになってしまいましたが、日本最大の広告代理店、電通を入社三年で辞めた後も、99%は電通と仕事をしてきました。電通在籍時はクリエーティブ局でコピーライターとして配属されていたのですが全く才能もやる気も、様々な意味で適性がなかったので、独立後は、プレゼンテーションの前段、「戦略」、まあ、なんというか前説というか屁理屈というか、そういうものだけを書いてはプレゼンするという仕事を。かれこれもう三十年も続けてきたのです。
 私のやってきたことといえば、マーケティング戦略とか、ブランド戦略とか、名前は立派ですが、プレゼンのその都度、私の話の後に提案されるクリエーティブのプラン、TVCMの案や新聞広告の案が、あなたの企業の、この商品の課題(たくさん売れるとか、いい学生が集まるとか、なんとなく世の中からよく思われるとか)に、最適なものであると 応援する、納得させるというものです。提案するクリエーティブが、あまり面白くない時も、面白すぎるときも、広告主というのは不安になるものです。面白くなくて不安になるのは当然ですが、面白すぎるときも、「広告だけが話題になって商品が売れないんじゃないか」とか「このクリエーターが賞を取りたいだけじゃないか」とか、「わが社がふざけた面白企業だとおもわれてしまうんじゃないか」とか、いろいろと不安になるものなのです。また、広告主の広告担当の方というのは、自分が受けた提案を、プレゼンを聞いていない、役員や社長に報告しないといけない、という難しい役目を負っています。役員や社長に、その広告が面白いかどうかだけではなく、それでどう課題が解決されるのかを論理的に説明しないといけないわけで、そのためのお手伝いをする、というのが私の仕事であったのです。 
 はじめは行き当たりばったりにそうした仕事をしていたのですが、やはりきちんとした論理的、あるいは方法論的裏付けがないと、説得力というのはなかなか出てこない。そんな中で、私がものすごく頼った、使わせてもらった参考書というのが、三冊あって、その一冊目というのが、当時はまだ電通におられた田中洋先生と、丸岡吉人さんの共著『新広告心理』だったのです。広告において必要とされる理論と方法論が「体系的・網羅的」にまとまっているという意味では、いまだにこれ以上の本は無いと断言できます。特にお二人が開発されたラダリングという手法については、開発直後から実務で大活用させてもらい、膨大なデプスインタビューをしたり、駆け出しの私の修業時代の基礎となったのです。
 (ちなみにあと二冊は、電通同期の有賀君がIMCという概念を日本に初めて導入したドン・E. シュルツ ロバート・F. ロータボーン 『広告革命 米国に吹き荒れるIMC旋風』と、電通の5年ほど後輩で、今や執行役員にまでなっている石田茂氏と一橋大学の阿久津聡先生の共著『ブランド戦略シナリオ―コンテクスト・ブランディング 』です。広告屋が実務で使う上では、いまだに最強のメソッドはこの文脈(コンテクスト)ブランディングだと思っています。実はこの構造はラダリングの縦の梯子を横に寝かせたうえで、テクノロジーの進化やメディアの多様化に合わせて精緻化したものとも言えますので、『新広告心理』内のラダリング理論の直系の発展形が『コンテクスブランディング』だと私は勝手に考えています。)
丸岡さんとは具体的な実務の中でご一緒することがあり、面識もあったのですが、田中先生とは、私の人生の恩人(電通をやめてブラブラしていた私を拾って、救ってくれた)株式会社シナリオワークの創業者、故・岩崎さんの一周忌パーティで言葉を交わしたのが初めだったと記憶しています。昨年、ある企業の受付で、偶然ご一緒になり、ご挨拶したのが、二度目です。(私が日々、広告の仕事で通っている企業のブランド担当部長に、田中先生がヒアリングのため訪問されていたのでした。)
 リアル空間では、その程度しか言葉を交わしたことはないのですが、数年前から、Facebook上で「友だち」に なっていただいて、先生の投稿を拝見し、私の投稿にもコメントをいただく、という、Facebook上の交流では毎日のように言葉を交わしているという、いまどきな関係性に田中先生とはあります。Facebook上のやりとりのあり方というのが、私のこの『ブランド戦略論』への感想と深くリンクしてくるのです。
 私は守秘義務の関係からも、また私自身の関心の重心からも、仕事関係のつぶやき、投稿はほとんどしません。主に文学、思想、政治、スポーツ、音楽、テレビ番組などへの感想がほとんどです。そして、田中先生投稿も、硬軟とりまぜ非常に幅広い関心テーマについて投稿をされています。田中先生が、Facebook上で私の投稿に反応をいただけるのも、視野の広い、柔軟な関心からであろうと拝察しています。そして、このことこそが、この『ブランド戦略論』の最大の特質だと私は感じました。
 単に「関心の幅が広い」というのも、正確ではありません。ある年齢になってから私も特にその傾向が強くなっているのですが、狭い特定の専門分野を知りたい、極めたいという欲求よりも、「この世界全体の成り立ち」を理解したい、という欲求が日々強くなっています。死ぬ前に、世界全体について(時間空間のすべてのひろがりを、人間というものの全体を)理解したいという思いが強くなり、そういう問題意識で書かれた本に強く惹かれるようになっています。
 とはいえ、人間はある専門性を深めるように、仕事の、人生のキャリアを積むものです。その専門性が人格の一部になってきます。その専門性の方法論で世界を理解するようになっていきます。私で言えば、広告の実務で前説を書いてはプレゼンするという日々の仕事の中で、その専門性に適した「人格」が形成されています。その専門性から世界を理解するようになっていきます。
 田中先生は『ブランド戦略論』で、体系化を企図したと「序」で書かれています。「ブランド戦略」を体系的に語るということは、ブランド戦略という専門性内部で言えば、その全体を、論理的に網羅しつくそうという意図だと理解できますし、それはまさに成功されているわけですが。しかしまた。それを超える何かがこの本にあると感じました。それは、「ブランド戦略」という専門性を通して、この世界全体を理解したい、叙述したいという隠された意図、試みとしてもこの本は読める、ということです。
 私は実務家として今も細々として働いており、昨年末、ある企業から相談を受けました。さっそく、この本をお持ちして、「この本の中には、ブランド戦略を社内で立ち上げようとしたときに起きるであろう問題が完璧に網羅されています。部門間や立場によるブランドということへの定義や意義理解の違いにより、同じ「ブランド」という言葉を使っていても、話が通じないことが必ず起きますが、その症状は、この本の中でもれなく原因については解説されています」と紹介しました。ただし、その解決のための手法も、あまりに幅広く紹介されているので、抱えている課題に対して、どの手法で、具体的にどう解決するかについては、手法を割り切って絞り込む必要があります、と説明し、石田氏・阿久津氏の『コンテクストブランディング』の本も併せて紹介しました。
 この本のp163で紹介されているシュワルツの価値モデルにもあるように「博識」と「達成」というのは対極にある価値なので、体系化を極めたもの(全体をわかりきる)というものは、実務での課題解決への単純さとは相反するのです。(実務家で、この本の中から、今、自分が抱えている問題解決のための「ヒント」は得られても、その先、本当にどう解決するかは、それはまた別に、より具体的な手法を自分で探していかなければいけないのです。当然のことながら。)
 ブランド戦略を網羅的に分かり切りたい、語り切りたいという田中先生の狙いはまさに達成されていると感じましたし。さらに その先に、ブランド戦略を語りながら、この世界の構造や、人間というもののありようを理解しつくしたい、という驚くべき知的試みとしても成功していると感じました。
 個人的追記
 「交換」について語るということは、表面的には柄谷、ということですが、つまりはマルクスということだったりするわけで。最先端の脳科学認知科学の知見から、今は知的には流行遅れになりつつあるとみなされている記号論や、マルクスの視点までが、ブランド論を通じて語りなおされるというのは、読書の知的体験として大変にスリリングなものでした。
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泣けた。「SONGSスペシャル 井上陽水×玉置浩二 」音楽って、優しい。 [音楽]

 昨夜、放送リアルタイムで見て、一緒に見てた息子と感想を話していたら、突然、涙が突然止まらなくなって。号泣まず一回目。ソファで居眠りしていて見損ねた妻が、深夜むくっと起きてきたので、もう一回一緒に観て、これも観終わって、妻に感想を言おうとした瞬間に涙で何も話せなくなり、五分間くらい泣き続けてから、(号泣二回目)やっと感想戦に。このあたりでもう瞼が腫れて目が開かなくなったのだが、もう一回、深夜に一人で見て再びぼろ泣き。(号泣三回目)。そして、さっき起きて、ひとりでもう一回見たら、二人のインタビューのところからもう涙が止まらなくなって号泣四回目。
 番組の構成も、とても上手で、最後の二人の共演に向かっていく、それぞれの楽曲と、間に挟まるインタビューや過去映像が、期待(と不安も)を盛り上げてくれる。
 そして。今の陽水さんの歌い方、声量、譜割りの変化、ロングトーンの長さ(やはりちよっと衰えは見える)、そういう変化に全身で集中しながら、美しいハーモニーを、音楽を作っていく玉置さんの歌うその姿を見ると、って書いているだけでまた涙が出てきた。そして、玉置さんが自分を引き立ててくれる歌い方をしてくれていることを十分わかっていて、信頼しているからこそ、自由に楽しく歌う陽水さん。曲の後半になるにつれ、音楽の楽しさ美しさの中で遊ぶ子供のようになっていく陽水さんの表情とその歌声。その陽水さんを何度も目で耳で確認しながら、声を合わせ、笑顔になっていく玉置さん。制作者に音楽そのものの美への深い理解、愛と、陽水さん玉置さんへの深い愛が感じられて、本当に感謝。音楽って、どれだけ美しくて、やさしいか。ものすごく期待していて、その期待をはるかに超える内容に、本当に感謝。
 私は、10歳のときに陽水さんの歌に出会ってギターを弾きはじめ、50歳で頚椎の大手術をした後の心の大きな支えのひとつは、玉置さんの歌に、その年齢になって改めて気づき出会えたことでした。息子も妻も、この番組の美しさ、音楽自体の美しさと、陽水さん玉置さんの二人の間の細やかな心の動きを、私と同じように感じていたことにも、深い幸せを感じました。号泣一回目は19歳の息子が、そういうことを分かる子供として育っていることへの嬉しさが涙の原因だったかも。

SONGS | SONGSスペシャル 井上陽水×玉置浩二
初回放送 総合 2017年11月10日(金)
WWW6.NHK.OR.JP
http://www6.nhk.or.jp/songs/prog.html?fid=171110
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ジェイコブ・コリア―、プリンス、玉置浩二、秦基博 第一弾、ピッチの正確さ、ハーモニー、調率(純正律、平均律)について。 [音楽]

 いつものように新聞の切り抜きをしていて、朝日新聞10/23の夕刊文化欄でジェイコブ・コリア―の来日ブルーノートでのライブ評(柳樂光隆氏)を読んだ。彼については今までノーマークだったのだが、(NHKあさイチ出演も知らなかった)、文中に「ちなみにボーカリストとしての実力は圧倒的で、特に生で見るとあまりの歌の上手さや声量に度肝を抜かれるほど。」とあったのが非常に気になった。これは私が玉置浩二さんのライブを聞いた時の感想そのままではないか。音楽評論家ともあろう人、数知らぬライブを職業として見ている人がこんなことを書くとはただ事ならないな。しかも見出しが「天才中の天才」。こんな形容詞は、私の大好きな大好きなプリンスにしかふさわしくない形容詞ではないか。23歳なんでしょ。聞いてみなければ、ということでyuutubeを見てみた。
 その後二日間、ずっとずっと、彼の演奏やインタビューや、とにかくyoutubeで見られる限り、見て、聴いて、CDも速攻で「In my room」と来日記念盤「Pure Imagination」買って。もう、どんな言葉も出てこないくらいびっくりして、しかもとんでもなく幸せな気持ちになって、フェイスブックにも興奮した投稿を連投したり、妻にyoutubeを見せたり(そうしたら、
「朝イチで見たよ。パパ、遅いよ、この人、プリンスが死んじゃったかわりに、21世紀版として神様が地上に送って復活させた人だと思うよ」と私と同じ感想を言っていた。さすが、わが妻である。)
 おそらく音楽関係者でない普通の人にとっては「一人多重演奏の、どんな楽器も弾けちゃうすごい人」という、ある種の曲芸的にすごい人、という意味での天才という捉えられ方をされてしまうのではないかと思うのだが、音楽を真剣に考えてきた人にとっては、そんな生易しいことではない、ケタ外れの超進化型のまさに天才中の天才なのだ、ということをちょこっと、また長くなると思うが、書いてみたくなった。
 大学自体の友人で、英語ネイティブで、しかも、大学時代はボーカリストとして活躍していた女性が私のyoutube投稿の中の、「Music Theory Interview: Jacob Collier (Part 1)」という、ハーバードの大学生音楽家(ジェイコブの音楽を採譜したりしている)に、彼独自の音楽理論を説明している動画にリアクションしてくれた。彼女も私もプリンスの大ファンであったという共通点もある。一度、プリンスのライブに一緒に行ったこともあったな、そういえば。
 リンクはこちら。https://youtu.be/DnBr070vcNE
 僕は英語があんまり分からないので、ここらに興味があると言ったら、彼女がその部分をすぐに訳して返信してくれたのだが、(通訳士の資格も持っているし、その上日本のトップコピーライターの一人でもあるから日本語文章もプロ中のプロなのだ。ただでさらりん、と訳してくれるなんて、本当にありがとう。)以下はその彼女の訳ではなく、私の意訳文章だからね。プロのコピーライターの文章を無断転載したら失礼だから。
 その部分と言うのは、「たとえばこの曲でGからEまで下降して移動するときに、短三度だから、半音で3つ移動するとGからEまでついてしまうのだけれど、そこを四つでおりるとこうなる。(と歌う。)。ここを5つでおりるとこうなる。(と歌う。)それは半音の半音ではなくて、半音3つ分の音程を四等分するとこうなって、五等分するとこうなるでしょ、楽譜には書けないけどね。」みたいなことを言っているわけ。言っているだけじゃなくて、歌うわけ。すごいでしょ。すごくない?もうすごいすごい。
 そしてこ、そのインタビューの第二部Music Theory Interview: Jacob Collier (Part 2)では、純正律のハーモニーの響きの美しさ、でもルートを移すと、ピアノの上ではどこで何セント(音程の微細な単位)ずれているか。それを次々補正して移動していくアイデアを考えたのだが、というようなことを、延々と、楽しげに語り続けている。Cで調律した場合B♭のコードに移るとそのコードの構成音が何セント(調律するとき音程の単位)でずれるから、こんな響きになるから、そのたびにルートの周波数をどう動かすと、みたいなことを延々と話している。(英語力不足で結論はよくわからないのだが。)

今日書きたいことの中心はこの部分のこと。ハーモニーをひとつの音に対して純正律的に正しく5度とか3度とかでつけると(それは本当に、ぎゅっと抱きしめるみたいに美しい、とジェイコブ君はジェスチャーつきで表現する.)、それはピアノの音程とは微妙にズレる、ということ。そして、歌で、アカペラで完璧なハーモニー、本当に美しいと感じるハーモニーをつけるということは、純正律的な音程感があるひとじゃないとつけられない、ということ。平均律で調律されているすべての楽器は、ハーモニーで、ちょっとだけのズレを我慢しているということなんだよね。
 タイトルに上げた、「ジェイコブコリア―、プリンス、玉置浩二、秦基博」というのは、僕がそういう意味で、「完璧なハーモニーをつけられる歌手」つまり、安心してハモリを聞いていられる歌手。外人洋楽だといろいろ他にもいるけれど、今の日本人歌手だと、僕とってはこの2人しかいない、と言ってもいいくらい。コーラスグループやバンドだときちんとハーモニーとれるけれど、いろいろな歌手と即興コラボでハモリをつけて、だれとやっても常に完璧に美しくハモれるのって、玉置さんと秦さんしかいないと思う。
 僕は自分の音程意識が「すごく正確だ」という自慢をしたいのではなく、美しいハーモニーについて、いつもいつもなんだか不安で不満で、違和感があって、という状態でいた、ということ。(正しく自分で歌えるかどうかはともかくとして、美しくないハーモニーにすごく敏感なのは事実。昔「ハモネプ」っていう、素人アカペラのコンテスト番組があったでしょ。あれが死ぬほど嫌いだった。優勝者グループなどごく少数は美しいハーモニーを響かせていたけれど、それ以外は、もう、気持ち悪くて、もう本当に頭が壊れそうになるから、家族がその番組見ようとするたびに、やめろー、と激怒していた。)
 そんな僕にとって、何の不安もなく、誰と歌っても美しいハーモニーを作ってくれるのは、玉置さんと秦くんなんだよなあ、ということ。そして、ジェイコブ・コリア―という音程、調律とハーモニーの天才に、ついに出会って、天国にいるような幸せな気分になった、ということを書いておこうと思った、ということでした。
 (歌い手、ギター弾きとしての僕の音程感は、ちよっとシャープ側にずれているかなと思う。決定的な音痴ではないからカラオケ音程判定では正解範囲なんだけど。ギターで言うと、一弦を、チューニングマシーンの正解よりも、ちよっとだけシャープめにチューニングしたくなる。自分の耳だけでチューングして、気持ちよく鳴っているなと思うとき、1弦がちょい高い。)

 ピアノだけじゃなく、マルチな楽器を弾いて、しかも歌でハーモニーをつけるということに本気で取り組む人は、わりと早くこの「純正律・平均律」問題に気が付くと思う。ジェイコブコリア―とプリンスはピアノ、鍵盤楽器から音楽を始めた人だと思うけれど、(プリンスのお父さんはジャズピアニストで、コリア―のお母さんは自宅の部屋で音楽を(おそらくはピアノを)教えている人だったから、初めに触った楽器はピアノだと思う。でも、すぐに他の楽器も弾くようになっている。玉置浩二と秦基博は、ギターやベースは弾けるけれど鍵盤楽器はほとんど弾けない。玉置浩二は民謡の先生だったおばちゃんの背中で聞いた音楽が音楽のスタートだと思うから、楽器が無くて、人間の声から音楽をスタートしていると思う。
 僕の場合は幼稚園のころ2年間くらいピアノを習って、小学校の間バイオリンを習って、その後、ギターを弾くようになったのだけれど、このバイオリンを習ったのいうのがおそらくこの「調律へのこだわり」のもとになっていると思う。フレットのない、おさえる位置で音程が無限に変わってしまう楽器を習うと、正しい音と言うのは、開放弦の音程に対して、そしてその曲の調に対して自分で作るしかないわけで、それは人間の声でも一緒なのだけれど、バイオリンを弾いていて感じる正しいと思う音程が、ピアノの音程とは微妙にずれている感じ、という違和感がずっとあった。
 そしてギターというのは、ピアノ以上にチューニング的には精度の低い楽器だと思うので、いつもいつもチューニングがなんとなく不安不満、という状態で何十年も過ごしてきた。ギターのチューニングマシンを使うようになったのはここ1年くらいなのだけれど、それでもなんかしっくりこないで、いつもちょっとずつ調整しながらギターを弾いている。
 今はどうかわからないけれど、女の子(うちの姉と妹もそうだったけれど)はたいていピアノを習っていて、音楽が得意な女の子はみんなピアノで音楽を勉強してきたわけだけれど、ピアノの音程だけで音楽を身に着けた人の「音程感」というのに、どうしてもなじめなかったんだよね。特にハーモニーに。
 
 このジェイコブ・コリア―のyoutube映像には、IharmUという、シリーズがある。全世界の人が投稿してくれる、「ワンフレーズ、何か自由に歌った動画」(既存の曲もあれば、その人が即興で歌ったものもある。)に、ジェイコブ君が多重ハーモニーや楽器の伴奏をつける、というもの。セミプロっぽい腕自慢が、技術の限りのフェイクを入れまくったものから、素朴なおじさいちゃんや子供の歌まで、中にはハービーハンコックが、「今の気分はこんなメロディーだぜ」と、ピアノでぽろぽろと、わざとハーモニーつけにくそうなワンフレーズを-、なんていうのもある。ハーモニーをつける前の元の投稿がまず流れて、その直後にハーモニーつけたものが流れるのだけれど、もう驚きと感動でびっくりする。元の歌について、リズムはちょっと補正してあるのかな、というのもあるのだけれど、音程の補正は全然いれていないように聞こえる。唐突に終わる、最後に「いぇー」みたいなことを言う、そういうものまでも音楽の一部にしてしまう。僕のような素人が聞くと、この鼻歌みたいなのは、どういうビートの、どういう音楽をイメージしているのか全然わからない、というものも結構あるのだけれど、ジェイコブ君がハーモニーをつけると、そこに本来あるべき、歌っている人がおそらくイメージしていたリズムとハーモニー、音楽の立体的な全体像が突然くっきりと立ち現われてくる。
前に、玉置さんや秦くんは、相手が音程外しがちな相手でも、ものすごくきれいにハーモニーをつける能力がある特殊能力者だと書いたことがあるけれど、ジェイコブ君も、その特殊能力を異常なレベルで持ち合わせてます。ぜひ、聞いてみて。
Jacob Collier's #IHarmU Vol. 1
https://youtu.be/SM2nhLSeJXg
Jacob Collier's #IHarmU Vol. 2
https://youtu.be/nzHF225ibak
Jacob Collier's #IHarmU Vol. 3
https://youtu.be/jXQSKdmCsIo
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2017世界柔道 後半3日間 観戦記 [スポーツ理論・スポーツ批評]

世界柔道 フェイスブック投稿をまとめて転載。

■5日目 女子
新井千鶴が金メダル。素晴らしい内容だった。内容も良かったけど、とにかく勝って良かった。この選手、見ていてつらくなるくらい「気持ちが前に出る、ものすごく勝気でまっすぐ」「負けると悔しがる、自分を責める人なのだ。技術も素晴らしいのだが、それを上回る「気持ち」の人なのだ。
 リオで、個人的には全種目全競技中いちばん感動した田知本遥の金メダル。その田知本に国内最終選考負けてリオに出られないことが決まったときの新井。選ばれなかった選手は誰も皆、全員つらい思いをしているのだと思うが、新井はとにかく「気持ち」の人であり、大きな目から、その感情がテレビ画面を通じて強烈に伝わってしまうので、見ていてとてもつらかった。
 彼女に関しては、内容の感想はなし。とにかく勝てて良かった。おめでとう。
https://www.nikkansports.com/sports/news/1881503.html

78キロ以下級 梅木は準決勝までは完ぺきな勝ち上がり。決勝も本戦は互角でゴールデンスコアに入った瞬間の組み際小内刈りを喰って悔しい銀メダル。本戦からゴールデンスコアでギアを一気に上げる選手がいるので、そこでの集中力を欠いたのが悔やまれる。

■6日目 男子
男子重量級は、100キロ級でウルフ・アロンが初優勝。彼は、リオ五輪90キロ級金メダルのベイカー茉秋の、「春日柔道クラブ(講道館本部柔道クラブ)」⇒東海大浦安高校⇒東海大学の一学年後輩。そして、アメリカ人とのハーフという点も共通。東海大浦安ではベイカー3年、ウルフ2年の時に団体三冠を達成。柔道内容としても、ひとつの技にこだわらず、状況に応じた戦い方ができるという「東海大浦安スタイル」である。組手の上手さ強さも共通点。こうした組手の強さと柔軟な柔道も、90、100キロ級という、日本人が力負け(筋力負け)しやすい中で、彼ら二人は、力でも対抗できるというアドバンテージを持っている。
 一方のこの日、「なにもできずに負けた」100キロ級 羽賀龍之介と100キロ超級 王子谷も東海大出身だが、東海大相模高校出身。特に羽賀龍之介は、2015世界選手権、圧倒的な内股で世界一⇒2016リオでは、内股にこだわるも、組手、内股を研究警戒されて内股不発で銅メダル、周囲からもメディアからも、「世界チャンピォンになり研究される立場になったのに、内股にこだわりすぎてそれを警戒されたときの対策が不足」と叩かれたのに、まったく同じ負け方をした。おそらく首脳陣の評価でもウルフとの差が大きく開いたものと思われる。今後、大きな大会の代表には選びにくい雰囲気になった。
 王子谷も、国内では日本選手権に二回勝っている通り、日本人相手には思い切った大外刈りを出していけるが、それを外国人に警戒されたときに手がなかった。王子谷は本来は非常に器用な選手で、背負い、袖釣りなどの担ぎ技もできる。この日も終盤、背負いを一回出してみたが、「追い詰められて苦し紛れ」というものになり、打開できなかった。
 東海大学の上水監督は、試合時間と状況を細かく設定して、その場で戦い方を切り替える練習を重視するなど、「何があっても勝てる」柔道を指導してきた。ベイカーやウルフは、まさにそうした戦い方ができることで、世界の頂点に上り詰めた。一方の、羽賀、王子谷。特に羽賀は、こうした柔道ができないことで負けた。羽賀は高校時代、内股だけで金鷲旗で「20人抜き」という記録を作った「内股柔道」の人である。シニアになってから、それ以外のいろいろな対策をしてきても、いざ本番の試合となるとカラダに染み込んだ「内股だけ柔道」になってしまう、というのがリオと今回、露わになってしまった。
 オリンピックまで3年ある今回の世界選手権で優勝した若手たちは、皆、世界中からマークされ、研究される。そして「なかなか組めなくなる」「やっと組むと、やっと組めたから大切にしようと技の出が遅くなる」「そこを突かれて、相手に先に技を出される」「先に指導をもらってしまう」「ますます焦って不完全な組手で技を出してしまう」「返されて相手にポイントを取られる」というパターンで不調に陥る。今回不調の元世界王者、有力選手の共通パターンである。
 この不調と危機を乗り越えて世界一に返り咲いた高藤の偉大さがわかる。阿部一二三もウルフも、これから、必ずこの試練を迎える。東京五輪での金は、それを超えた先にある。(だから実は、五輪には、まだ実績は出していないが急激に力をつれて台頭した若手を選んだ方が金メダルを取る可能性が高いのだ。実際には代表選考プロセスと仕組みで取りづらい選択肢だが)
http://www.asahi.com/articles/ASK9255P8K92UTQP022.html

6日目 女子
朝比奈沙羅選手は、高校時代は、まだ自分の体重に対して下半身が不安定で怪我をしないか見ていてはらはらする感じだったし、お肉の中に顔のパーツが埋まっていて表情もよくわからない感じだったのですが、大学生になって、筋力も付き、バランスもよくなり動けるし多彩な技が出るようになった。かつ、表情もはっきりしてきて、強い意志や鋭い頭脳などが、表情からもはっきり読み取れるようになった。準決勝までの戦いは120点の出来でした。決勝は、本戦は支え釣り込み足がよく効いて優位に試合を進めていた。しかし、国内の試合ではほとんどないことの、相手の方が体格がでかい上に、安定していて大外や払い腰をかけると返されそうだ、という不安から、こうした大技が出せずにいたために先に指導をもらい、その差で負けてしまいました。しかし、これは本当に「良い経験」になると思います。頭が非常にはっきりした選手だからです。確実に技術と戦術で克服できる課題だったので、五輪までのあと二回の世界選手権で、世界一になれると思います。
 彼女の出身高校、渋谷教育学園渋谷は、東大に(一学年200人中)30人程度が東大に進学する、都内屈指、共学私立ではNO1の進学校です。渋谷のど真ん中でグラウンドが無いために、柔道場だけ折り畳み式超本格的道場を作り、運動部では柔道部だけを特別に強化しています。(五輪でふたつの銅メダルを持つ中村美里が先輩)。おそらくは柔道の推薦ではいったのだと思いますが、全国トップレベルの進学校同級生の中で勉強もがんばっていたようで、父親が医師で大学の先生、母親が歯科医師ということで、将来(柔道引退後でしょうか)は医学部に進学したいと言っているようです。
 東京五輪に向けては、現在高校二年生に、先日金鷲旗決勝で五人抜きをした素根輝という怪物がおり、おそらく東京の代表選考は素根と朝比奈が最有力、となると思います。今後の女子超級は、本当に楽しみです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170903/k10011123991000.html

■7日目 団体戦
団体戦のポイントいくつか。
①個人戦では実現しなかった、橋本壮市対アンチャンリンの対決が準決勝韓国戦で実現。本戦は互角、延長へ。アンが背負いつぶれて、寝姿勢と思い伏せたところを橋本がめくり返しての一本。つまらん。ルール上はアンの片膝が畳についていなかったので、立ち姿勢が継続しており、そこをひっくり返して背中を畳につけたから橋本の一本なのだが、柔道の「技」で投げたのではない。ラグビーのラックで相手をめくり上げるのと同じことで、ラグビー選手が普通にしている動作。柔道的な動きでは全くない。せっかくの世界ランク1位vs3位、全階級を通じても屈指の「達人」同士の試合が、あんな決着でがっかりでした。誰が悪いわけでもなくルールが悪い。
②90キロ級 長澤健大、活躍。90キロ級は五輪金メダリストのベイカー茉秋が怪我のため長期離脱。そのほかの選手ではメダルは狙えないとの判断で個人戦の派遣が見送られた。とはいえこの長澤、二年前は東海大の主将を務め、直前の世界ランク8位で、メダルの可能性がなかったわけではない。団体戦では、4番目男子は「90キロ以下」であればよく、ここは長澤と81キロ級永瀬の二人でいく予定が、永瀬の怪我で全試合長澤でいくこととなった。長澤としては、むしろ、次世界で戦えることを首脳陣にアピールするまたとないチャンス。初戦ウクライナ戦では負けたものの、そのあとの全試合、しぶとく勝利して優勝に貢献。実はこの長澤、小学校時代、相模原市の相武館吉田道場(中村美里らを輩出、小学校中学校の日本一に度々なっている名門道場)の出身で、我が家の三男と同学年。同市内の弱小スポーツ少年団出身の我が家三男と、市内の大会で何度が対戦があった。(長澤の全勝でした。)当時から柔道の中味はほとんど変わっていない。あまり切れの無い体落としと内股で相手をつぶして、全国最強の相武館の寝技で仕留めるという、地味だがしぶとい柔道。組手のうまさ厳しさも光る。という柔道をこの世界選手権でもそのまま実行した。地味で勝負が遅い、と思われたか、それでも勝ち抜くしぶとさががあると評価されたか。ベイカー不在の間の国際大会派遣で実績を残せば、今後、東京五輪代表争いに絡めるかもしれない。
③銀メダリスト 芳田司と朝比奈沙羅は強かった。女子では金メダルを取った新井千鶴は、個人戦ですべてを出し切ったためかやや不調だったのに対し、悔しい決勝戦負けをした芳田と朝比奈の二人は、その悔しさをぶつけるような気迫溢れる完璧な内容。素晴らしい柔道でした。個人的に団体戦MVPを選ぶなら、朝比奈です。
④王子谷、これをきっかけに復調なるか。原沢、王子谷ともまったく最低の内容で個人戦敗退。その汚名返上の機会となる団体戦。二戦目ドイツ戦 原沢は個人戦同様のふがいない内容。初戦の王子谷も切れの無い動きながら、どちらかと言えば王子谷という選択で、準決勝韓国戦は王子谷が選択されたが、ここで素晴らしい支え釣り込み足一発で一本。決勝は個人戦銅メダリスト巨漢シウバ相手に、本戦は「技は出ないがとにかく前に出る」で気迫を見せ、ゴールデンスコア最後の最後に、やっと大外刈を出して一本。国内ではほぼ無い、自分より身長体重共に大きい巨漢に、得意技の大外刈り(返される危険が最も大きい技)を出す勇気があるか、を問われた今大会。それを出す勇気が出ずに負けた個人戦の課題を、最後の最後に克服した。技の出が遅く、ゴールデンスコアで相手がへとへとになってやっと出せたというのは、首脳陣からするとまだ合格点ではないと思うが、それでも大外刈一本で大会を終えたことの意味は大きかった。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170904/k10011125651000.html



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