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米朝会談「中止⇒再開」の流れの中で、安倍さんは本当に「蚊帳の外」だったのか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ツイッターから。「澤田愛子 @aiko33151709 NHKの報道番組で安倍べったり政治部岩田明子がとんでもない「解説」をしたと。急速に進む朝鮮半島の平和と対話路線。米朝首脳会談も実現の見通し。これを岩田氏は扇の要に安倍氏を置いて安倍首相の功績だと宣伝した模様。安倍氏が蚊帳の外である事は今晩BBCも報道。こんな嘘は視聴者への詐欺になる。」
 この岩田解説員という人は、おそらくNHKの解説員史上、最低の政権べったり丸出し解説員なわけですが。解説内容もむごいですが、(記者→解説員なのでアナウンサーのようにしゃべれないのは仕方ないとして)、日本語としての話し方が、美しくない、聞き苦しい。前の文章の末尾語尾の母音を伸ばして次の文頭につなげてしまう。頭よさそうに聞こえるとでも思っているなら、直してほしい。聞き苦しいだけ。

 それはさておき、米朝会談の「中止→再開」の流れの中で、安倍さんの果たした役割というのは、ニュースの流れをきちんと見ていれば、この岩田さんが言うような「全部、安倍さんの手柄、影で安倍さんが動いたおかげ」であるはずもないわけですが、一方、野党や批判メディアが言うような「完全な蚊帳の外」でもないことは想像ができる。以下、長くなるが僕の考えを書いておきます。長いです。

 まず、安倍さんの政治的立場の特徴としての、「戦後政治家史上、最も露骨に戦争経済を推進する人」(軍事産業の輸出産業化をしたい人)である、という点から確認。そのうえで、(本当は国産化、国内軍事関連企業を助けたいなら、アメリカの軍事産業からの輸入には抵抗したらよさそうなものなのだが)、アメリカに対して媚を売る手段として、アメリカからの武器購入をどんどん推進する人である、という点も押さえておく。というわけで、安倍政権がしっぽを振っている「アメリカ」というのは、アメリカの中でも「戦争経済を推進するネオコン勢力」とのつながりが強い。ここまで確認。

 ここで問題なのは、トランプ大統領は、大統領選→政権発足当初は戦争経済・ネオコン勢力とは仲が悪かった、ということ。「アメリカ・ファースト」という内向き政策は、世界の警察やーめた、路線であったわけで、戦争経済屋にとっては、都合が悪い。実は民主党政権というのは、歴史を見てみても、わりとよく戦争をするので、ヒラリーが勝ってくれた方がありがたい。ということで、ヒラリーが勝つことを前提に、日米とも戦争経済屋は動いていた。のに、トランプが勝っちゃった、というのがいろいろな混乱のもとになっている。

 日本の外務省も安倍政権も、ヒラリーにしっぽふる気まんまんでいたのに、(そういう発言を選挙前にしてしまっていたのに)、トランプが勝っちゃってパニックになり、一転、世界にさきがけでトランプにしっぽふりに行ったというのが、トランプタワー訪問だった。

 政権発足後、紆余曲折あった中で、現国務長官マイク・ポンペオと、大統領補佐官ジョン・ボルトンと、右派戦争経済屋勢力が要職について、トランプと戦争経済屋の融和問題も、なんとか落ち着いたように見えたが、今、この二人、ポンペオとボルトンの立場が異なることが鮮明になったのが、この「米朝会談中止→一転再開」の事件だと思われる。

 端的に言うと、ポンペオは右派の中でも「現実主義者」で、ボルトンは「原理主義者」的傾向が強い。この二人の、対北朝鮮をめぐる主張の対立は、ポンペオは「段階的非核化でいい。とりあえず会談をして、前に進めたい」なのに対し、ボルトンは」CVID=検証可能で不可逆的な非核化をすぐやらないんであれば、戦争するぞ、」だ。

 ここで思い出してほしいのは、トランプは初め、「とにかく米朝会談をやろう」と言っていたのに、安倍さん訪米時の共同記者会見で「CVID」に言及した、ということ。トランプ大統領に「北朝鮮と非核化を話し合うならCVIDを呑ませないとダメだ」と吹き込んだのは安倍さん、日本だということは間違いない。そして、それを吹き込む協力相手は、おそらく、ボルトンさんだったのだろうということ。一時、その日本の工作が奏功したのは事実なのだと思う。

 トランプさんのこの態度変更で、北朝鮮も中国も、米朝階段に後ろ向きになる。梯子を外されたポンペオは立場がなくなる。調子にのってボルトン氏は米朝会談に逆向きな発言を繰り返す。北朝鮮としても、せっかく作った核をそう簡単に手放すことはできないわけで、どれだけたくさんの条件をアメリカから引き出せるか、じっくり時間をかけて交渉をしたいので、ボルトンの立場は容認できなかった。ので北朝鮮も過激な発言を繰り返すようになる。

 というわけで、(日本が頼る)ボルトン主導なら、北朝鮮は会談しないぞ、となり、トランプも書簡で、一度は「やめとこうか」となった。
 しかしポンペオの巻き返しで、トランプも「このままでは外交的成果ゼロになってしまいまずい」と判断。最終的にポンペオの敷いた路線でやっぱり会談はしよう、となった。

 ここ数日の、日本だけが浮いちゃっている状態と言うのは、(小野寺防衛相の「北朝鮮は信じるな」発言が、総スカン食っていることや、トランプが「最大限の圧力、もういいたくない」発言)、ポンペオ、ボルトンの、この件における主導権争いで、ポンペオが勝ったということ。そして、ボルトンに頼って「CVID、強硬路線」を主張した日本が、梯子を外されて、本当に孤立したということ。

 日本がこのプロセス全体の中で「ずっと蚊帳の外」だったという野党、批判メディアの主張もまちがっているけれど、「安倍さんの手柄」という与党、御用メディアの主張も全く的外れ。というのはこういうこと。

 私は国際政治や外交の専門家では当然ないのだが、ニュースをきちんと見聞きしていれば、この程度のことは普通、わかると思う。メディアは日大アメフトにさく時間があったら、こういうことをちゃんと伝えた方が良いと思います。
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ガルシア・マルケス『百年の孤独』 我が家のウルスラのリフォーム計画とともに発見される。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ガルシア・マルケス『百年の孤独』、今、売っている本より、装丁がかっこいいでしょう。33995359_1802130029852314_646007671668867072_n.jpg妻が、近々、家をリフォームをする計画をしていて、「本棚を、整理せよ」指令が出て、一生懸命片づけをしていたら、2004年に買ったこの本を発見して、読みました。
 この前のオーウェルの『1984』もそうだったけれど、ものすごく有名な小説で、買ったはいいものの、読みにくくて、ちょっとだけ読んでそのまんま未読、(なのになんとなく読んだふり)という本がものすごくたくさんあって、そういう本を、ちゃんと読もうモードに今、入っています。この本、「死ぬまでに読むべき小説ベスト100」とか、「世界のベスト小説ランキング」で、だれが選んでもたいてい、間違いなくトップ10にはいっている、トップ3入りもけっこうある、ものすごく有名な小説なのですが、買った当時は、なんだか読みづらかった。しかし、今、読んで、よかった。今、人生のこの時期、この年齢になってから読んだから、本当に面白かった。もう死ぬかと思うくらい面白かった。
 物書き修行をしている長男が、何年か前に借りていって、読み終わって返してくれる時に、「父ちゃん、絶対、読むべき。ウルスラウルスラ」と謎の呪文を唱えていたのも納得いった。コロンビアの奥地、19世紀前半から20世紀前半にまたがる100年以上にわたって、ある架空の村を築いた一族の、7代にわたる歴史が、現実と不思議、政治と愛と性と、錬金術と文学と、もうあらゆる要素が混然一体となって、いつまでもその中に浸って読み続けたくなる、見事な文体でつづられていきます。
 普通、文学論的には、この作品はマジックリアリズム(現実にあるものと、現実ではないものが融合して描かれる芸術形態)の、文学における代表作、と言われるのだけれど。今、読んで、本当によかったと思うのは・・・。ウルスラっていうのは、その一族の、いちばんはじめのお母さん、一族の始祖、太母グレートマザーのような人なんだけれど、読んでいると、どうしても妻に似ている、妻を思い浮かべざるを得ない。長男が「ウルスラウルスラ」と呪文を唱えていたのも、「母ちゃんだあ母ちゃんだあ」と思って読んだからだと思うのだよな。で、マジックリアリズムっていうのは現実に存在しない、死者が家の中をうろうろ普通にしていたり、その女の人が歩き回ると、やたらと子供が生まれたり家畜が増えたり木々が茂ったりという、そんな巫女とか地母神にしか起こせないようなことがどんどん普通に起きてしまうのだけれど、実は、うちの妻というのは、存在自体がマジックリアリズムなのだよね、おそろしい話だけれど。具体的に書くと私や妻の頭がおかしいと思われそうなので、細かくは書かないけれど。「現実と非現実の共存」が、我が家ではある種の常態なので、この作品の世界観というのは、私や長男にとっては、ものすごく「あ、これ、知ってる」という感覚があったのですよ。
 そして、この一族の男性の、繰り返し何代にもわたり同じ名前で現れる男の子供たち、行動的で破天荒なアルカディオ、内向的で、政治的や文学やさまざま活動しても内向的で繊細なアウレリャノ、そうした登場人物に、私自身や、私の男子たちを重ねてしまう。家族の物語というのは、サリンジャーのグラース家サーガ連作でもそうだけれど、どうしても他人事とは思えないのだよなあ。たとえ、南米の、想像もつかないほど異なる文化伝統の中を生きている一族家族の物語だとしても。
 ウルスラ以外の、多くの女性たちも、それぞれ際立って個性的で、「こんな極端な人など普通はいない」と思うと同時に「女性の本質のある部分が極端化した存在だからこそ、誰かにすごく似ている」と思わせる、魅力的な人物だらけ。
 この一族が暮らす屋敷は、100年の歴史の中で、何度も、リフォームを施されながら、家族の歴史の舞台になっていく。我が家のウルスラが企てたリフォームを機会に、この本が発見されたのも、何かの因縁かもしれないなあ、と思いながら、ここ一週間ほど、この傑作を楽しんだのでした。

 リフォーム計画を立てていると、妻がリフォーム屋さんに「我が家の大黒柱だけは、そのまま残してくださいね。これは夫が、ときどきこの柱に抱き着いて、家と一体化しては心を癒す柱なので。」大黒柱.jpgとお願いしていました。これもね、この本を読むと、ウルスラの夫、初代ホセ・アルカディオが、晩年、自らの意志で、庭の木と一体化する人になっていくというのと、ものすごく似ているのですよ。本当にね、家族と、家と、そういうものの歴史ということの蓄積というものをある程度実感できるこの年齢になってから読んだのが、本当によかったなあ。大江健三郎の後期作品群も、あきらかにこの小説に触発されたものだったんだ、と改めて納得した次第。それくらい、影響力というか伝染力というか、力の強い作品でした。
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歴史的一日に思うこと その2

 この先の米朝首脳会談の成否を見るまでは、今日の一日の出来事だけで、一喜一憂してもしょうがないと思うのだが、それでも、このニュースを見ながら考えたことあれこれ。
 「歴史的」というのはどういうことかというと、それまで当たり前だと思っていた連続的日常に対し、それとは異なる方向に世界が動くということ。そして、天災など、不可抗力として「起きてしまうこと、動いてしまうこと」も歴史的な事件ではあるのだが。「人間が、政治家が、意志をもって、それまで当たり前だと思っていた連続的日常から、方向を変える、世界を動かす」というのが、政治、外交における「歴史的」な出来事なのだ。そういう意味で、今日のこの一日は歴史的な一日だった。日本人は長いこと、自国の政治家がそのような「歴史的一日」を作り出すことをこの目で見ていないので、なんとなく、うらやましいような、妬ましいような気持になっているのである。
 日本の戦後史の中でも、「沖縄返還」とか「日中国交正常化」というのは、そういう意味では「歴史的」出来事だったと思うのだが、1970年代以降、日本はどのような「連続的日常からの方向転換」を志向して努力してきたのか。何も思考も志向もしてこなかったのではないか。
 米軍基地が沖縄を占拠しているのはもちろん、首都の中心部、首都圏にも米軍が駐留し続けているこの状況を「連続的日常」として当たり前のものと受け入れて、それは考えないことにしてきたのではないか。現政権が考える「歴史的に日本を動かす」方向は、米軍の二軍として自衛隊を世界中で使えるようにするという、「連続する日常」の補完強化計画でしかないのではないか。
 少し視点を変えて、例えば「北方領土返還」ということも、実は米軍が実質的に日本領土内のどこにも基地を作る権利を有する現状の日米の関係が解消しない限り、ロシアが返還するわけないのは、幼稚園児が考えてもわかる理屈だと思うのだが。もし本気で「北方領土返還」を望むなら、米軍と日本の関係を変えることから始めなければ無理だということが、米軍従属保守という不可思議な思想を持つ自民党政権とその支持層にはわからないのだろうか。
 日本の政治に「歴史的」という日がこの先あるとすれば、沖縄からも首都中心からも米軍基地、施設がなくなる日なのではないか。日本が米国の属国ではなく、完全に自立した国として世界から認められる日なのではないか。
 とはいえ、現実にそうなるためには、日本はもしかすると核保有したり、中ロとの政治的距離がより近く緊密になる必要があるのではないか。そのこととの比較でもって、主体的に、米軍基地を、どの程度の規模、日本に置き続けるのがよいか。そのような議論が、タブーなくされるような政治風土に、日本がなる日は来るのかなあ。
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歴史的な一日に考えたこと その1 [文学中年的、考えすぎ的、]

 「韓国、北朝鮮」という、ひとつの民族の、分断国家統一の悲願という、情緒的側面で見るならば、両首脳の態度表情や言葉には嘘は無い、韓国民の反応を見るに、この一日というのが、「歴史的一日」であったことは間違いないと思う。(そのことにまで否定的態度を取るのは、分断の原因を作った日本の国民、政治家やメディアの態度としてよろしくないと思う。)
その一方での、国際政治の冷徹な現実から考えると、最終的には米朝会談で、CVID「完全、検証可能、不可逆的な方法による核・ミサイルの廃棄」(Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)を北朝鮮が呑むかどうか、呑まないと思われるので、そのとき関係各国がどう動くかまで見届けないと、評価は難しい。CVIDというのは、平たく言うと、「核開発、核保有が疑われる国に対し、核廃棄させる際、IAEAによるひと通りの査察がすんだ後も「まだどこかに核を隠し持っているはずだ。あそこが怪しい。こっちも怪しい」と無限に査察を要求する」(田中宇氏「米朝会談で北の核廃棄と在韓米軍撤退に向かう」より一部変更して引用)こと。イラクのフセインはこれをやられた後に、いちゃもんをつけられて米国に攻撃されて政権打倒された。カダフィはそうなるのが嫌で、CVIDを受け入れ、米国との関係を修復して政権維持をいったんは手に入れたが、アラブの春の余波で国内の反対勢力により倒された。
 北朝鮮、金正恩は、フセインにもカダフィにもならないためには、CVIDを受け入れないで、非核化をCVIDほどの厳密さでは行わせないけれど、いちおうポーズだけ取るあたりで納めて、隠して核保有を続けるのではないか、と見られている。トランプ、米国も、「まあ、そこを厳密にすると事がうまく運ばないから、形の上での核査察、一部核ミサイルの廃棄」あたりで手を打とう、と考えていたのではないか。そんな中、CVIDを執拗に強硬に要求しているのは、実は、日本の安倍政権である。先の日米首脳会談後の成果として、「CVID」をやるとアメリカに言わせている。(それが唯一最大の成果であろう。)
 「CVID」と「在韓米軍撤退」という最も難易度の高いふたつの実現、それをめぐる交渉カードとして米国側からは、経済支援、北朝鮮側からは拉致されている米国市民の解放というカードが使われる。日本がそこにどう絡んでくるかというと、「拉致されている米国市民の解放」の話が出た時に、「日本人の解放の話も一緒にしてね」とお願いをすること。それと引き換えに、米国が約束する経済支援を、日本がそのかなりの部分を一緒に負担する、というお財布になる、ということなのである。
ここで、韓国が「在韓米軍の撤退」と「CVID」をどう考えているか。これが正直、よくわからない。現在の韓国の安全保障視点と、「統一の実現」への道筋という視点と、「統一後にどの陣営の、どのような国になるか(米中ロとの政治的距離と、核保有国になるかどうか)」という視点で、答えがいくつもありそうなのである。
 政治的には中国に近い核保有国、民主政体と資本主義を維持した国家として統一する。東アジアの政治軍事バランスの中で「大国・強国」となるにはそれがいちばん。という選択肢が有力なのではないかと思うので、「在韓米軍は撤退、核は一部残して南北で共同管理」というのが、本当は韓国も望んでいることなのではないか、などという邪推もしてしまうのである。(この前紹介した韓国映画は、この筋立てに近かった。)

ちなみにその映画はこちら
ツイッターから。「@h_hyonee
核実験の中止が発表されたタイミングでアップされました。激動する情勢とシンクロした興味深い作品かと。見るなら南北首脳会談を前にした今!拙稿が参考になれば幸いです。 『鋼鉄の雨』は韓国版『シン・ゴジラ』か? 韓国映画に通底する“未完の近代”としての自画像」
http://realsound.jp/movie/2018/04/post-182974.html

というわけで、ここから私の感想。Netflixで、今、見ました、この映画。北の軍と党の関係とか、南北と中国の関係、韓国から見ての日米同盟とか、日本のことをどう見ているか、とか、いろいろ新鮮というか、なるほどというか。「シン・ゴジラ」に例えられるということは、韓国の人から見ても、全くのフィクションとはいえ、なにがしかの真実を感じる内容なのかと。純粋にエンターテイメントとしても良くできていました。
 
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介護人工子宮アイデアについて。NHKスペシャル人体で、タモリさんが子宮に入ったのを見て考えたこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

Facebookで書いたもの転載します。そもそもは、日経新聞の『16年の出生数、初の100万人割れ 出産適齢期の人口減 』という記事を読んで考えたこと。

時々、暴論シリーズ。思考実験だから、非常識なことを書きます。
 
団塊世代以降の、これから介護が必要になっていく近未来・老人世代は、人間に介護してもらうのをあきらめた方がいい。だって、介護を必要とする人数の方が、介護に従事できる人間より、ずっと多くなるんだから。
 それに、これから生まれてくる未来有為な人たちのほとんどを介護産業に従事させるわけにいかないでしょう。この前生まれたうちの孫を、私や私の妻や、その他老人たちを介護するためだけの人生にしたいか、というと、全然したくない。今、介護職に就いている人を誹謗中傷するつもりは全くなく、そこに本当に生きがいを感じてやってくださっている方には感謝するけれど。今、自分の老親や妻、夫を介護している方のこと、その介護の日々の中で、感じていらっしゃる様々な思いや感情を軽んじるつもりは全くないれど。しかしやはり、老人の介護というのは、社会全体の仕組みでも、個人の人生の中でみても、いろいろな意味の負担が重すぎる難しい仕事だと思う。
 これから貧しくなる日本に、外国人労働者を介護分野に来てもらおうと思ったって、誰も、どこの国からも来てくれないですよ。外国人労働者に頼るという発想もNG。
 そうしたら、人間に介護してもらわなくていいような技術を、今後10年以内に開発する必要がある。「介護ロボット」よりも、何かもうすこし大胆な発想の「介護テクノロジー」を。
 うちの奥さんは、自分が介護が必要な老人になった後は「トイレに住みたい」と言っている。(この前書いたように、妻はリハビリ科医師、患者さんのほとんどはかなりの高齢。週一回は、リハビリ科に勤務する前に、初めに勤務した、寝たきり老人多数の内科病院に勤務。高齢者、寝たきりの患者さんの様々な状態をお医者さんとして診てきた。その経験から思うことのようだ)。病院にも、病院に来る医療機器メーカーの人にもいつも言っているみたいだが、「トイレと風呂とベッドが一体になったようなもの」「体位転換や入浴、排泄が人間の介助なしで行えるようなもの」があれば、その方が自分が介護される側になった時にも、体も心理的にも楽だ。と言っている。
 排泄と食事と入浴が介護なしでできなくなった状態は、生理的側面で言うと、乳児状態に退行していくこと。ただし乳児と違うって厄介なのが)①赤ちゃんよりサイズがでかい。排泄物も量も多いし臭いし。風呂に入れるのも大変。服を着せかえるのも大変。床ずれ防止に体位を変えるのも大変。介護労働者はみんな腰を痛める。なので、寝たきりの人の栄養管理をする場合、体重が増えすぎないようにしないといけない。、②頭脳、知性、人格、記憶が、基本スタートラインが大人成人。そこから、知性・人格のどの部分がどれだけ退行しているか、していくかは人により大きく違う。(言い方を変えると、どういうめんどくさい老人になるかは人によって違う)③その「退行しつつも保持されている人格と知性」、プライドやできるはず、できないことが悲しい腹立たしいという気持ちについて、本人も葛藤するし、その葛藤を、介護する人にぶつけると摩擦が起きる。(介護する人にとっても、される人にとっても難しい問題)④意識が無い、喋れない、意思疎通コミュニケーションが取れない場合、介護する人は「赤ちゃんだと、だんだん成長し人間になっていく」希望を感じられるが、「人間的反応がない、コミュニケーションが取れない、回復の見込みがない」存在を世話し続けることに、意味を見出せずに精神的に追い詰められる人も出てきてしまう。(③と④は原因は異なるけれど、介護施設でときおり起きる虐待や、ひどい場合殺人事件の原因となる。川崎での介護士による投げ落とし殺人事件は③、老人ではないけれど、相模原の養護施設での大量殺人は、④が犯行動機の中心と思われる。)
 この暴論を書こうと思ったのは、実は、昨日のNHKスペシャル人体の、「赤ちゃん」の回。大きなサイズの子宮の模型を作って、そこに、胎盤とそこから伸びたへその緒をつけたタモリさんに入ってもらう、という演出をしていた。
 食事、排泄、入浴すべてにフルに介護が必要になった人が住む空間、妻が「トイレに住みたい」と言っている空間というのは、つまり「胎児が胎盤をつけてお母さんの子宮に収まっている状態」というのを、寝たきり老人向けに人工的に作ってあげるということなんじゃないのかな。と思ったわけ。タモリさんは、「なんか落ち着く」「子宮バーっていうのを作って、チューってウイスキーが吸えればもっといい」なんて言っていたけれど。羊水に浮いている状態、排泄の心配がない状態、栄養摂取が心配ない状態、そして映像デバイスが視聴覚か脳神経に直結していて、読書とか音楽を聴くとかテレビや映画を見るとかが、いつでも自由にできる。羊水内で弾ける楽器とか、羊水内でも絵が描けるとか、そういう技術も並行して開発する。
 胎児って、お母さんが音楽を聴けば、一緒に暴れるし、お母さんの声は聞こえるし。寝たきり状態になったら、胎児状態になって外界とぼんやりとコミュニケーションしながら、だんだん意識が覚醒している状態よりうつらうつらと寝ている、夢見ている時間が長くなって、老衰で死ぬっていうふうになれないかなあ。人工子宮に入って、そこから奥さんとコミュニケーション取ったら、なんとなく、奥さんの子宮にはいったみたいで、安心なんじゃないかなあ。他人に押し付ける気はないけれど、僕はそれがいいなあ。時間をゆっくりかけた安楽死、のようでもあるけれど。西部邁氏も、自分で自裁死しようとしても、体が不自由になった、誰かに手助けしてもらわなければ実行できず、その誰かを「自殺ほう助罪」に巻き込んでしまうという悲劇になりそうでしょう。そういうことなく、できるだけ人の手を煩わせずに赤ちゃんに戻って、死ねないかなあ。
 もう、あとはどうやって死ぬか、だけだもん、僕の人生でほんとうに重要なこと。
(追記 ここで書いた人工子宮回帰が、今いろいろ問題になっている「胃ろう」の発展形なんではないか、という感じもしてくる。胃ろう問題を「胃ろうをやめる」方向で解決するのではなく、「老人にとって幸せ、生きている満足、QOLが増大する方向に大幅進化させる、という発想なのかも、と思う。)
↓子宮に入ったタモリさんはこちら。まさに、トイレに住んでいるように見えません?
タモリさん子宮.jpg 追記2 Facebook上友人にも、今、リアルタイムで親御さんを介護している人もたくさんいるし、大変な介護を体験してきた方もたくさんいるし、中学同級生友人には、つい最近、介護士の資格をとって介護の仕事を始めた人もいる。現場でリアルに今、介護の真っただ中にいる方たちからご批判くるのでは、とは思いつつ書きました。何より一番身近な、たくさんの、何十人の担当老人入院患者を抱えている妻から、今朝一読後、いろいろ「現実はこういうこともこういうこともこういうこともある、単純すぎる、甘い」という厳しい意見たくさんもらったのですが、それでもあえてブログにアップしたのは。  あらゆることに対する僕のスタンスが、(コンサルタントって、現場の人の声は聴いたり、視察したりするけれど、その会社の人ではない、という立場だから自由に考えられることを自由に考える、ということなので、) 今、当事者でないがゆえの暴論の中に、何か、今は現実的ではないけれど、もうすこし先の、解決へのヒントはないか、誰か、トイレメーカーの人でも、医療機器開発の人でも、ばかばかしいと思わずに、読んでくれる人が出てこないかなあ、と思って、書きました。
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女子カーリング そだねージャパンに対する反感について、考察をしました。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

 今、男子のカーリング決勝、アメリカ×スウェーデンやっている。男子の試合も面白い。さて、女子カーリングの日本チーム、人気が出て注目が集まると、ツイッター上などにアンチな人、意見もたくさん湧いて出てきて面白い。興味深いです。おしゃべりしたり座っておやつ食べるな、だらしない、とか、試合開始前の選手紹介で「にっこにこにこにー」してふざけているとか、試合中から泣くなとか、試合中ニコニコしすぎとか、試合終わった後のインタビューで泣きすぎとか、方言、子供がマネするからやめろとか、自分のことかわいいと思ってるみたいでわざとらしくて嫌という女性からの意見とか、スレンダー美人が好みの男性からは、太っているだけで別にかわいくないとか、まあ、いろんな意見があって面白い。
 オリンピックなのに、女子の日常まるごと丸出しな感じに、(人気の理由の一端はそこにあると思うわけですが、)反発を感じる人もいるようです。それはそれとして、スポーツ競技としてのカーリング、ということ自体への反感、というものもあって、それについて考察すると、スポーツの起源とか、日本のスポーツ文化、みたいなことがいろいろ見えてくるので、ちょっと思いつくことを書いていきます。
 古代オリンピックは、兵士でもあるギリシャの市民が、その兵士としての技を競うという意味があったわけで、たしかトロイ戦争を描いた『イリアス』(ホメロス著)読んだときにも、従軍途中の暇つぶしに、やり投げだのレスリングだのの腕を競い合うというエピソードがあったような記憶が。(昔読んだのでおぼろげな記憶ですが。。「狩りの腕を競う」能力と「戦争のための技量を競う」のは、まあ近い能力なので、そこらあたりから、オリンピックで競う競技というのは発生したわけです。
 槍を投げたり石を投げたり、高く跳んだり速く走ったりというのは、どれも狩りをするのに必要な能力ですし、隣の部族と戦争になったときにも頼りになる人ですから、それができる人は、部族全体の生存に貢献する偉い人なわけです。
 冬のオリンピックでその色彩を最も色濃く残しているのは「バイアスロン」ですね。日本ではほとんど注目されませんが、ちゃんと今回もBSで放送していました。鉄砲かついで長距離スキーで走っては、10発ずつ的を撃ってはまた走る。一発外すごとに150mだっけ、余計に走らないといけない、という競技です。私の息子、陸上自衛官として札幌真駒内駐屯地に勤務しているわけですが、初めて札幌に行った冬は、ひたすらスキーの練習させられた、と言っております。鉄砲と装備を20キロとか30キロとか担いでスキーですべる、というのは雪国軍隊の軍事教練なわけです。
 ところが一方、スポーツには「暇つぶし」という意味もあるわけです。英語の辞書を引いてみればわかりますが「遊び」「暇つぶし」から「悪ふざけ」なんて意味まで出てきます。
 暇つぶしの遊びが、だんだんルールがはっきりしてきて、いろいろな競技に発展していくわけです。
 カーリングというのは、この「暇つぶし遊び感」がいちばん色濃く出ているために、「狩りや戦争」感をスポーツに求める人からは、不真面目とか言われてしまうのだろうな、と思うわけです。スノボなんかも、明らかに「遊び」起源ですから、元をたどると軍事狩猟を持つ「アルペン」「ノルディック」からは、なんとなく不真面目、遊んでるといって批判されちゃうわけです。(ちょっと前の腰パン問題とか、そういうことだと思います。)(ノルディックでもジャンプは、軍事教練よりもっとひどくて、囚人への刑罰起源です。)
 少し前にnhkのあさイチで、e-Sports(ビデオゲーム自体がスポーツとして認知され、ビッグビジネスになっていること)を特集したところ、テレビゲームのような暇つぶしの遊びと真剣神聖なスポーツを一緒にするな、という視聴者からの意見が出てきたのも同様かと思います。スポーツ起源の「生存に直結する狩猟・戦争起源のもの」と「暇つぶし遊び起源」のものに価値の上下をつけたくなる気持ちが、人類にはどこかに残っているのでしょう。
 とはいえ、現在においては、どのスポーツも、生存とは関係ないものとして「純粋競技化」しているわけで、そこで勝つための努力を、オリンピックに出るような選手は、どの競技者であっても、人生を賭けてしていることに変わりありません。日本の女子カーリングチームの、批判を食っている様々な振る舞いも、私は「勝つために戦略的に取っている態度」だと思ってみています。
 カーリングは、どんな上手な人たちでも、必ず失敗をする競技です。そして、自分の失敗が、チームに、後から投げる仲間に迷惑をかけとしまう、ということが、ものすごくわかりやすいスポーツです。集団スポーツには多かれ少なかれそういう側面はありますが、普通の集団球技などは時間が止まらず状況が連続的に変化し続けますから、自然に「次のこと」に意識が集中していきます。しかしカーリングは、一投ごとの結果「過去」が形としてはっきり残り、それが後の仲間に迷惑をかけ続ける、という「過去を引きずりやすい」競技です。
 野球もそういう側面はありますが、打率は一流選手でも3割。つまり7割は失敗です。サッカーのシュートの成功率(打った数に対する得点率)は、得点王クラスでも1割7分くらいです。8割以上は得点になりません。これに対し、カーリングの投擲成功率は8割程度が標準ですから、「成功して当たり前なのだが、2割くらいは失敗する」という、ちょうど失敗が責められやすい率の競技特性でもあります。
 日本人というのは、何よりも「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが大切という価値観の中で育ち大人になっていく民族です。つまり、ミスをした人は、非常に「自分が仲間に迷惑をかけた」ということを気にして、プレーが委縮しやすいメンタリティを持っています。日本人にとって、カーリングは、性格的に、実は向いていない、過酷な競技なのだと思うのです。
 これに対する、LS北見の取った作戦が、「とにかくニコニコする」「仲間が失敗したときこそ、みんなでニコニコする」「大きな声で、素の方言でしゃべりあう」「栄養補給は立ったままではなく、OLさんおやつタイムのように円陣を組んで座って食べる」「試合が終わった後は泣いたり笑ったり、感情は全部吐き出して、翌日には残さない」というようなことなのではないかと思います。
 真剣じゃないから笑っているんではない。緊張感がないからおやつを座って食べているんではない。失敗が仲間に迷惑をかけて積み重なってしまうという、日本人女子にとって過酷な競技特性だからこそ、勝つために、ああいう振る舞いをしているのだと、僕は思ってみています。。
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読書感想 『本物の読書家』 乗代 雄介 (著) [文学中年的、考えすぎ的、]

『本物の読書家』 乗代 雄介 (著)

Amazon内容紹介(って、本の帯に印刷されている内容なのだな。)
「書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖。
群像新人文学賞受賞作『十七八より』で瞠目のデビューを遂げた、新鋭にして究極の読書家、待望の新刊!
傑作中編2作品を収録。
老人ホームに向かう独り身の大叔父に同行しての数時間の旅。大叔父には川端康成からの手紙を持っているという噂があった。同じ車両に乗り合わせた謎の男に、私の心は掻き乱されていく。大変な読書家らしい男にのせられ、大叔父が明かした驚くべき秘密とは。――「本物の読書家」
なりゆきで入った「先生」のゼミで、私は美少女・間村季那と知り合う。サリンジャー、フローベール、宮沢賢治らを巡る先生の文学講義、季那との関係、そして先生には奇妙な噂が……。たくらみに満ちた引用のコラージュとストーリーが交錯する意欲作。――「未熟な同感者」

ここから僕の感想。
昨年末、いくつかの新聞の「今年の文学振り返り」特集で、何人かの選者のベスト3に入っていたので買ってみたのですが、いやまあ、びっくり。大傑作でした。とはいえ、文学や読書を「趣味や娯楽、あるいはなにかの教訓やら感動を得るためのもの」と思う人には全く無縁の、何が書いてあるか理解不能な本に違いない。叙述の半分以上は、小説を書く、読むということに対する文学論的思弁です。それをつなげ合わせながら、小説内の出来事、筋立てを、ドラマチックに組み立てていく、という、稀有な、新しいアプローチをモノにしています。
 物書き修行中の長男と、保坂和志の小説について論ずることがときどきあります。私は、保坂の小説は何も事が起こらないから、退屈で嫌いだ、というと、息子は、現代の純文学の小説はそのような方向に向かっているのだ、その面白さがわからないのは文学が読めていないのだ、と私を批判するわけですが。この乗代雄介という著書は、保坂的な文学的思弁と日々の生活の単調な組み合わせだけでは終わらせず、そこにスリリングな事件の展開を織り込むという曲芸的離れ業を持ち込んでいます。一作ならともかく、この本に収録されている二編ともに、その試みに成功している、というのは、ただものではありません。
 文学に、読書に、人生を絡めとられた人にとっては、身もだえするような内容であること間違いありません。死にそうになりながら、あっという間に読んでしまいました。それにしても、このタイミングで、こういう本に出会ってしまうというのは。

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『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック 著 中村佳子訳 河出文庫   あらすじ ネタバレあり、注意。  人間存在の本質に、特異な手法で迫った極めて特異な小説。

 生命科学と情報科学の進化が重なると、なんらかの意味で人が不死になる。そうすると、宗教の在り方が激変し、人間の価値観も生き方も想像もできないほどに激変する。この周辺をテーマにした小説はSF界隈では多数存在するが、純文学側で本気で取り上げる人はまだ少ない。日本で言えば川上弘美の『大きな鳥にさらわれないように』などが近いだろうか。
 ウェルベックという人が普通の意味での純文学の人かどうか、というのは議論の分かれるところだと思う。世界中で話題、ベストセラーになった『服従』は、フランスでイスラム勢力が選挙で政権を取ったという状況で、大学のイスラム化に伴い、改宗をしないと教職からも追われる状況になった大学教授が、公私さまざまな面からの圧力や懐柔の前に、次第にイスラム化を受け入れていくという小説である。主人公の大学教授の、俗物的動機(経済的社会的待遇や、性的パートナーが得られる得られない、といった)から、イスラム化を自ら受け入れていくさまが、筆者得意の露悪的態度と文体で描かれていく。この点がウェルベック小説の最大の特徴といってよいかと思う。主人公(たいてい、作者の分身的である。)は、、結局、欲望に弱く、普通の人よりやや知的で他者を見下してはいるものの、崇高な理想や信念によって生き方を決めるほどの、真の知的さも高い倫理性も持ち合わせていない。人間とは多かれ少なかれ、本質的にはそういう存在なのだ。そういう人間が、その状況に置かれたら、どうふるまうか。そうした露悪的知的実験性こそ、ウェルベックの真骨頂だ。状況・設定の過激さや、表現の露悪性から、純文学の人なのか、という問いが生じてしまうのだが、そこに人間性の本性を描き出そうという強い意志が存在し、かつ、小説のカギになる要素に「文学」の力への信頼や愛が描きこまれる、という点からすると、この人はまぎれもなく純文学の人だと私は思う。
 SF畑からのアプローチにおける「不老不死の実現」だと、医療技術進化による肉体自体の不老不死化またはDNAからクローン化した肉体を何度でも複製再生でき、そこに、記憶や人格パターンのコンピュータ・サーバー上への保存したものを再アップロードすることであることが多い。が、ウェルベックの考える「不死化」は、文学者が考えたらしく、オリジナル度が高い。
 作品内では、そもそも、不死化の実現はそれほど近い未来には設定されていないが、小説はまずは現代からスタートする。人間の科学技術による不死化を謳う新興宗教が、DNAの保存後の自殺を容認する教義で、勢力を広げる。DNAから「いきなり成人のクローンの再生が短時間で可能になる」技術が完成した、それを教祖自身が自殺し復活することで証明する。が、実は、その時点では嘘である。アクシデントによる教祖の死を隠蔽するための偽装工作であり、その時点では再生技術は完成していない。しかしこの事件を契機に教団は急速に信者を増やし、世界の宗教地図を塗り替える程になっていく。技術的に人の再生が実現するのは、実に数世紀を経てからなのだ。という、時間スケールの非常に大きい小説になっている。その後に起きた核戦争での人類のほとんどが絶滅した世界の中、DNA保存されたその宗教の信者は生き残り、新しい世界を築く。DNA操作で、新しい人類は光合成によるエネルギー・物質合成を可能にする変更を加えられ、食の必要もなくなり、性行為による子を持つことも必要とないネオヒューマンへと改造されている。旧人類の政治的文化的欠陥を克服するために、ネオヒューマンの社会では、個人が完全に孤立した状態で、一人で生活している。何世代も再生を繰り返しながら、仏教的解脱に近い、平穏で刺激の少ない平穏な幸福の中で生活している。元の世代の人格・記憶は、電子的に保存されているのではない。初代信者が死の前に叙述した「人生記」を、再生した新しい肉体が読み、それへの解釈を行うことで個人の記憶、人格が継承される、という、文学者が考えた、きわめてアナログでオリジナルな形式を取る。初代旧人類の持った、人格的欠陥や欲望にまみれた人生、その人格が永遠の生を得ても仕方がない、そうではない、平穏で自立した幸福な新人類が幸福な生を実現できるシステムが、「ビッグシスター」(詳しくは説明されていないが、おそらくは人類の進化と新社会構築を先導したAIの究極形)により作られているのだ。他者とのかかわりはネットワークを介した会話のみで、一切の肉体的交流なしに平穏に生き続ける。肉体は改造されているとはいえ不老不死化はしていないので、各世代の肉体は一定の時間を経て死を迎え、次の世代の肉体へと引き継がれる。
 小説は、現代の、下品で政治的なコメディアンとして成功した主人公ダニエルが、有名人としてこの教団の集会に招かれているうちに、教祖再生偽装事件に関わる。同時に、初老の年齢にさしかかったことで若く美しい恋人(彼女とのセックスだけが、彼にとっての意味のあることだったにも関わらず)から捨てられたことをきっかけに、DNAを保存し、自殺する。その初代主人公の人生記録と、2000年の時を経て、再生を繰り返し平穏に生きている24代目、25代目ダニエルの独白が交互に語られていく構成を取っている。
 未来のダニエルの欲望解脱的ライフスタイルとの対比、そこに至ることの必然性を語るため、という狙いもあって、初代ダニエルが、若い恋人とのセックスに執着、それだけに価値を見出して生きているさまが、これでもかというくらい露骨に描写される。
 露悪的に描かれる初代主人公だが、彼の人生にも3つの愛があったことが、描かれる。同年代の美人編集者だった妻イザベルとの初めの充実した結婚生活。若い恋人との、理想的セックスを中心とした生活も、愛とセックスが究極の結びつきをした形として語られる。そしてもうひとつは、先妻との生活の最後のころに拾って、先妻の死後に引き取り、若い恋人とのつらい別れの後の生活の心の支え手なった愛犬マックスへの愛。
 注目すべきは、子供を持つことへの徹底的な拒絶・嫌悪感が、この小説では貫かれていること。セックスへの執着はあっても、セックスがパートナーとの愛の中心にあっても、子供を持つこと、子供を育てることには一斉の価値を認めていない。その代わりに「自分が永遠に生きること」に価値が置かれる。その宗教も、子供を持つことは全く奨励されていない。「チャイルド・フリー」という言葉さえ出てくる。そんな価値観の人にとって、愛犬の重要さ、というのが、きわめて重たく描かれている、というのも、いろいろと納得させられるものがある。
 子だくさん家庭人として人生の大半を子育てにささげてきた私からすると、「セックスはあるが子作りをしない欲望まみれ人生」と「あらゆる欲望から解脱した、孤立した平穏な生」の間には、全く別の人生の在り方、幸福の在り方が存在すると思うのだが。「子供を育てた後に生じる夫婦の平穏な生活」「そのパートナーの喪失を受け入れる苦しい体験からの、孤独だが死を受容するまでの人生」というような人生全体を、どう幸福なものとして全うするか、ということを漠と考えているだけに、この作者の過激な幸福論は、なかなかに新鮮であった。しかし、子供を持たない人生を選択した人が読めば、より切実な共感を感じるのであろうか。
 小説エピローグにおいて、25代目ダニエルは安全で孤立した環境から、外の世界へ旅立つ。そこで彼が出会った世界は、考えたことは。変わり果てた世界の姿と、そこで原始時代に戻ったように暮らす、旧人類の生き残り「野人」たち。生理的にも思考方法も現在の人類とは大きく変わっているネオヒューマンがその体験の中で考えたことを、作者は想像力の限りを尽くして描く。そこまで外部化、客観化された視点から、現在の人類の本質、愛の本質を容赦なく描き出そうとする執念はすさまじいものがある。
 読んで楽しい小説ではない。理解しやすい小説でもない。(この感想で書いた小説のあらすじや細部理解も、実はあまり自信がない。読み損ね、理解し損ねている点が結構あると思う。)しかし、人間の本質を、世界の本質を理解したいという欲求を持つ人には、必読の小説だと感じた。
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少子化について、年末年始、大暴論を考えてみた。 [文学中年的、考えすぎ的、]

年末年始に見たり聞いたり読んだりしたことをきっかけに、少子化についての「暴論」を書いてみたいな、と思ったので書いてみる。年末年始の真面目な政策論争とかドキュメンタリーとかニュース解説の番組でも少子化をどう止めるかがずいぶん論じられていたけれど、そこで語られていたように常識的な対処では全然止まりそうもない。ので、これは自覚的に、常識人が言わないようなことを書いた暴論です。だから、常識的な、誰でもいいそうな批判は勘弁してほしい。そこは読者の知性とセンスに期待をしたい。広告やマーケティング関係の友達が多いから、これはブレーンストーミングの「拡散フェイズ」の、頭を柔らかくして視野を広げるための意見だと思って読んでほしい。(ブレストの拡散フェイズではネガティブチェック的常識的批判はいったん我慢、がルールですよね。)
 もうひとつ、僕自身は六人の子供を育てた子だくさんお父さんだが、SNSの友達には、子供なしの人のほうが多い。このテーマで文章を書くと、友達の人生にいちゃもんをつけているようになりがちなので、あんまり触れないようにしていた。でも、やっぱり日本の少子化問題は、日本社会の価値観とか制度変更とかの欠点やミスが積み重なった結果としての大問題だと思うので、どうしても論じる必要があると思う。これは、これから大人になる若い人たちが、どうやったら国から強制されたりするのではなく、子供をたくさん持てるようになるかなあ、ということを考えたので、子供を持たなかった友人のみなさんを批判しようという意図で書かれたわけではありません。そこのところも、分かってほしいです。


 きっかけ1
この年末年始、一昨年の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の一挙再放送が、地上波TBSとCSのTBS1でそれぞれあって、全部ではないけれど、けっこうがっつり見てしまった。その中に、朝まで生テレビのパロディで少子化対策、子育てについてみくりちゃん(ガッキー)がお母さんや兄嫁や友人と議論する、というのがあって、みくりちゃんが「高校生のときのほうが時間があって育児しやすいから、高校で子供を産んで高校に託児室を作って、休み時間に授乳をすれば」っというアイデアを出していた。そうなんだよな、本当にそうだ、と思った。
  きっかけ2
今年の新成人、まだかろうじて120万人はいる。昨年末のニュースで昨年の出生数は99万人。これはやばい。この120万人の新成人全員、むりやりくっつけてカップルにすると60万組。ここから人口増やそうとすると、その60万組が全部3人子供を作っても180万人。全員は結婚しないとすると、結婚したカップルは4人、子供作ってもらわないとダメだな。四人子供を持てるようにするにはどうしたらいいだろう。
 きっかけ3
 昨日、全然別のテーマで文章を書いていた時(国立大学の文系学部縮小がいかに間違いであるか、というテーマだつた。)、人間には「生物学的動物」「経済的動物」「社会的政治的動物」「文化的動物」としての側面があり、それらを総合的多面的に考えられるように教育しないと、少子化問題だって解決できない、と書いて、そうだな、生物学的動物としての側面で考えるというのが足りていないんじゃないか。と思った。
 きっかけ4
成人の日にオンエアされた18FESという音楽番組。全国のいろいろな思いを持つ千人の18歳の若者、彼らのためにWANIMAが新しい楽曲を作って、彼らと共演する。(コーラスとブラスセクションを千人の若者たちが演奏する。ちなみに去年はワンオクロックだった。)その参加者の中に、18歳の男の子なんだけど、「妻がWANIMAが好きで、今妻が妊娠中でおなかが大きくて」ってインタビューに答えている子がいた。ヤンキーとかそういう感じではなくて、すごく真面目そうな、18歳のときの僕のような男の子。なんか、お前、えらいなって思った。18歳で妻が妊娠中って堂々としている。
 きっかけ5 から、なし崩しに本題を論じていきます。
 昨年から読み続けているフランスの小説『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック著。この人の小説を人にあまりお勧めできないのが、主人公がものすごく下種で、若くて美人でいいカラダしていないと女じゃない、的な価値観をもっていて、そして、セックス描写がものすごく露骨で下品。この小説だけじゃなく、今まで読んだ『服従』も『地図と領土』でもそうだったような記憶が。(本人名誉のためにいちおう説明すると、どの作品も政治や社会に対するものすごく深い洞察と問題提起をしているのが、この人の小説の本質で、だから現代フランス文学を代表する作家なんだけど。フランスの村上春樹、くらいの人気があると思ってもらって間違いない。)なのに、とにかくセックス描写が露骨で下品。この小説家自身の女性観、セックス観がそうなんじゃないかと思う。しかし、この人の小説、フランスでは特に問題なく受け入れられている。日本ではこんな女性観、セックス描写の小説は女性に全く受けないと思うんだよな。しかしフランスでは大人気作家ということは、フランス人的にこのお下劣セックス描写はきっと「あり」なんだよな。そういえば、フランスって先進国の中では少子化対策が一番うまくいっているんだよな。たいていの真面目な解説では、非正規婚での子どもも全く差別されなず支援される制度とか、子育て支援策の充実なんかが要因と分析されるんだけど、セックスに対するお下劣な本能肯定、という「セックス活動度の高さ」がフランスにはあるんではないか、と思った。つまり、日本だと、夫婦でもセックスレスの人が半分くらいいて、そもそも交際相手がいない単身者がたくさんいて、日常生活の中にセックスがごく自然にある人の比率っていうのが、フランス人と比べるとすごく低いんじゃないだろうか。だから、セックスの本質であるお下劣で本能的で動物的な部分を小説でダイレクトに描くと、日本では、日常的にそういうことをしていない人たちは、拒絶反応を起こすのだろう。小説でも、その辺、お上品に上手に描ける村上春樹(の小説って、実は主人公、ものすごく高頻度にいろんな相手とセックスしまくっているんだけど、そうとは感じさせない上品で素敵でかわいらしい描写をするんだよね。村上春樹作品の主人公、やっていることはウェルベックの主人公に勝るとも劣らぬセックス活動家なのだが、誰もそう思わない。ノルウェィの森が映画化されたとき、原作に忠実に主人公の性生活を描いたら、「原作はこんなに下品にセックスだらけじゃなーい」って女性ファンから不評だったんだけど、あれって原作に極めて忠実なんだけどね。)村上春樹はセックスを無害にきれいに描く天才だから、日本で人気なんだろう。。
 少子化を解決するには、子供を作らなくちゃいけないわけだけど、子供を作るにはセックスをたくさん国民がするようにならないといけないんだよね。というすごく本質的にことを考えたわけだ。
 脱線ついでに、少子化問題を論じようとすると、すぐに「子供が持ちたくても子供ができない人のことを考えたことがあるのか」という突っ込みが入るのが今どきの定番なのだけれど、不妊の問題がこれだけ大きくなっているのは、そもそも「子供を作ろう」と考え始める年齢が高くなっているのが最大の原因のひとつなのは、自明だよね。正常な妊娠をする確率は年齢とともに低くなるから、昔も今も35歳以上は高齢出産と医学的にはなっているわけで。正常にどんどん妊娠できちゃう10代後半から20代前半の人たちが、社会的には「学生だからまだ結婚しちゃだめ、もちろん子供作っちゃダメ」だったり「結婚してもまずは仕事のキャリアを」というのが当たり前だという風になっているのが、少子化のそもそもの原因なのは当然のことだよね。高齢化以外の疾患疾病原因での不妊は、少子化問題が起きる前からずっとあった問題なわけで、(男性のおたふくかぜでの無精子症とか、女性の子宮や卵巣の異常とかは)、少子化問題を論じているときに、「そういう人への配慮」を理由に議論の邪魔をしようとする人の意図、というのが、僕には皆目わからない。
 一子目の出産年齢が高くなれば二人目三人目を持とうとする人、生物学的にできる人が少なくなるから、必然的に子供人数は減る。
 少子化を止めようとしたら、できるだけ若い年齢から子供を産み始めて、できるだけ長い年数、子供を産み続けられる社会通念と、それを後押しするための社会制度を作らなければいけないっていうのは、自明のこと。みくりちゃんの言う、高校で出産して、高校に託児室っていうのは、その視点からは極めてまっとうなアイデアだということがわかってもらえたでしょうか。
 それから、高齢になってから子供を作ろうとするカップルにおいては、「子供を作るためにセックスをする」という、おそろしく不自然なセックス動機と行為が常態になるカップルが結構いるでしょう。これが人類の歴史上、いかに不自然かっていうのは、みなさんわかっていただけるでしょうか。
 高校生のカップルがセックスするとき、そんなこと考えるバカは一人もいないでしょう。セックスするとき、子供を作ろうなんて考えない方が人間という動物としては自然なんだよね、当然。性に興味があって、恋愛に興味があって、目の前に好みの女の子がいて、それが恋なのか愛なのか性欲なのか、そこは定かに分離していない状態で、そこはゴムしなきゃだめでしょうと理性が言っても、その理性の声はどこか遠くで微かに聞こえるだけで、そんなことより、興奮と感動とであれれれれ、中ででてしまった、という結果、子供っていうのは『できてしまう」のが人類の歴史の中では、はるかに自然であって。もうすでに愛も性欲もさほどなくなった状態で、「子供が欲しい」という目的のためにセックスをするなどということは、人類史上、すごく不自然なことです。どうしても跡取りを作らなければいけない殿様くらいしか、そんなこと考えなかったんではないでしょうか。
 本来は「恋と愛と性欲」が未分離の若い情熱、「若く情熱的な夫婦愛と性欲」が自然に両立鼎立している10代後半から20代のうちに、ポコポコっと三人四人の子供を作ってしまい、それは作るのではなく、愛と情熱の、パッションの結果として「できてしまう」のであり、そうやって出来てしまう子供を、若い二人だけではなく、まわりのみんなで寄ってたかって育てていく、という社会システムを目指すべき。(人類の歴史、人類社会の9割以上は、そういうシステムだった。)
そうすれば今年の新成人だって四人五人と子供がいるの当たり前になり、少子化問題は30年後、シンギュラリティの時代くらいにはかなり改善すると思います。
 ここで社会制度的に配慮すべきことはふたつあって、ひとつは若くして子供を持つカップルのうち、子育てがうまくできなくて、子育てを放棄したり、虐待したりしてしまう人たちがかなりの割合出てくることへの対処をするということ。二つ目は、若くしてたくさん子供を持つことの負担を女性にだけ荷重に負担をかけないシステムを作るということ。
 「若い奴らは(若すぎる僕は、私は)まだ能力もないし無責任で子育てできないから、ちゃんとした大人になってから子供は作らなければいけない」という一見非常にもっともらしい考え方こそが、少子化の元凶なんだ、というのがこの論の中心。「まだ仕事で一人前じゃないから、結婚はまだ、子供はまだ」って男女ともに言っているから初婚年齢も出産年齢もどんどん上がるので、この、一見もっともらしい価値観を社会全体で、全力でぶっこわさない限りは少子化なんて絶対止まらない。
 未熟でも、見た目も精神的にも子供みたいでも、子育てをすることで人は一人前になる、というのが、まず第一。おそらく若い奴らでも八割は、こういう風にがんばって大人になれると思う。
 脱落して育児放棄しちゃう二割と、その子供を不幸にしない社会制度を作ることが必要。端的に言うと、30歳以下で出産子育てする人にはベーシックインカムを夫婦+子供分支給。その代わり、基本、子供は「社会の子供」として、0歳時から保育園で無償で一日の半分は見る。その間、若い親二人は学業または職業教育を受けられる。その過程で育児放棄や虐待の兆候が把握されたときは、行政が介入して、里親、養子縁組までを大々的に行う。若い時に子供を持ち損ねた少子化元凶世代の養子里親化も公的大規模に支援する。
 30歳前に4人出産を終え、育児を続けている人の特典がいろいろある社会にする。例えば、選挙でドメイン制度を採用する。(子供の数分の選挙権が親に与えられる制度で、ドイツで何度か採用が検討されたことがある。。) ベーシックインカム支給が子供も満額支給されるようにし、子供の数が多いほうが明らかに生活が楽、にする。(里親養子は一人で二人分、という制度にすることで、里親養子縁組が強く促進される。)
高学歴で高齢化した人を、医療費をかけてなんとか高度医療で妊娠させよう、という制度は、どう考えても不合理だと思う。(すでに不妊治療への年齢上限は議論されているし、制度化されているんじゃなかったっけ。)過渡期的にはそうした人たちへの支援もきちんと行うべきだとは思うが。
 より「人類」の本性に自然なのは
①若くて恋愛と性欲が一体化している若いうちに子供を作ることを支援、奨励する。
②未熟な若い両親が、子育てとともに一人前の大人に育つ社会システムを構築する。(社会が、みんなで子育てをする。)
③そうやって30歳までに4人の子育てをした人が、政治的権利や経済的支援をより手厚く受けるシステムを構築する。
④子供ができない、できにくい人が不利にならないことと、若く未熟な両親の何割かが育児に失敗すること、両者をつないで救済する、里親、養子システム、養子を差別しない社会規範、里親を称賛する社会風潮を後押しする。
⑤正規雇用的職業上のキャリアは四人の子供を持った30歳を正規キャリアの標準的スタートとする。
⑥スポーツ選手や、理科系の天才的才能を持つ人など、10代20代から職業キャリアを優先すべき人は、特殊な天才として、別ルートは作っておく。

本来はいつ結婚し、いつ子供を持ち、あるいは持たないかは個人の自由であることは、私も百も承知です。しかし、「職業上の能力、キャリアとして一人前にならなければ子供を持つべきでない」という社会規範が、きわめてきつく形成されてしまったことが、今の日本社会の少子化問題の根っこにあると私は考えます。「団塊ジュニアが就職氷河期で正規雇用に着けない人が多かったから」「低所得だから結婚も子供を持つこともできなかった」という分析が、年末年始のニュース解説的番組でさんざんされていましたが、非正規だろうと低所得だろうと、愛と性欲で子供を作って、ベーシックインカムもらえれば、子供をどんどん作るメリットが、非正規雇用の人にこそできるでしょう。雇用機会均等法以降、女性の社会進出で、出産育児によりキャリアを中断するのが女性に特に不利だから、出産を断念したり、一子目を持つのが高齢になったり、二人目を断念した人がたくさんいたのは本当のことでしょう。そうだとしたら、男性も含め、キャリアのスタートは子だくさんの30歳からにそろえてしまえばいいでしょう。その代わり定年はどうせ70歳まで伸びるのですから。働くのは60歳過ぎてもできます。大学で勉強するのも60歳になったってできますが、自然に妊娠できるのは、18歳から30歳までが、生物としていちばん向いているのですから、その年齢で産むことが、いちばん得になるように、社会制度を設計しなおすしかないでしょう。生物学的動物の人間に対して、いちばん自然な社会制度を作りましょう。
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文学の価値を現政権の皆さんは当然まったく分かっていないということを、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞への反応を見て思う。 [文学中年的、考えすぎ的、]

(カズオイシグロの小説についてのネタバレありですので、これから読む予定のある方はご注意を。))


 閣僚のほとんどが日本会議に属し、戦前の価値観への回帰を目指し、戦時中の軍部の侵略に伴う非道な行いをなかったことにしようとする歴史修正主義的現政権が、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心からお祝い」などできるのだろうか。できるとしたら、誰も作品を読んでいないからだろう。(読んでいたとしても、読めていないのであろう。)
 デビュー作の『遠い山並みの光』それに次ぐ『浮世の画家』、そして出世作の『日の名残り』の共通設定を、まず理解していないのだろう。三作とも、戦前戦中に、戦争を推進する側に、意識無意識は別にして加担した側の初老の主人公が、戦後、大きく価値観が変わった社会の中で、自分の人生の意味(間違いだったのか、意味がなかったのか、いや、そんなことは、という葛藤)を描く、というものだ。文学だから、単純に「間違いだった」とばっさり切り捨てるのでもない。しかし、一生をかけてやってきたこと、生きてきた価値観が崩れ去ったものは、もう元には戻らないことの痛切さ、悲哀を描く小説なのだ。
 「戦前の美しい日本の価値観を取り戻す」ことを掲げる安倍政権、日本会議の皆さんに、もし文学を受け止める読解力があったなら、カズオ・イシグロの小説についてコメントをすることなどできないと思うのだが。
 最新作の『忘れられた巨人』は、なおさらである。隣り合った民族同士の殺し合いの歴史を、「仲良く暮らし続けるためなら忘れてしまったほうが幸福なのか」「しかし忘れて生きるということは、正しいことなのか、可能なことなのか」という問いをめぐる小説である。中世のイギリスを舞台にしているものの、明らかに、近隣の国、民族で残虐な戦争や殺し合いがあった、その記憶を持つすべての人に向けて書かれている。その中に、当然、日本の、明治から先の大戦までの記憶も含まれている。慰安婦問題や中国での残虐行為の「有無や事実」について、できればなかったことにしよう、あったとしてもできるだけ小さく記憶しようとし続ける現政権、日本会議の人たちに、まともな文学読解力があったならば、『忘れられた巨人』を書いたカズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心から祝福」などはできないと思うのだが。
 現政権の人たちが厚顔無恥にもカズオイシグロのノーベル賞受賞に「心から祝福」とコメントできてしまうというのは、そもそも文学の価値というものが分からない、小説、文学を読むという習慣もない無教養な人たちの集まりだからなんだろうな、と思うのである。
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