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内田樹氏『日本の覚醒のために』と玉置浩二・声の力 [音楽]

『日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)』
内田樹 (著)についてフェイスブックに読書感想をいつものように書きましたが、以下はブログ追加部分。玉置浩二の声の力について。内田樹氏の文章が、その解説になっていた、という話。
 Ⅳ ことばの教育 で、音読の教育効果について内田氏が語ります。「僕は17年ほど観世流の能をやっているのですが、稽古を始めて何年目かに、謡をやっていたら、それまで全然使っていなかった身体部位が共鳴し始めたということがありました。能の謡というものは「一人オーケストラ」みたいなものなんです。声帯だけでなく、胸骨や鼻骨や頭骨からも、胸郭や腹腔からも、全部から音が出る。稽古が進むと、共鳴する身体部位の種類が増えてくる。骨と筋肉や内臓では振動数が違いますから、震えて音を発するときに遅速の差が出る。それが輻輳して倍音が出る。その倍音にまた思いがけない身体部位が反応して、共鳴し始める。(中略)嘘をついている人間の言葉は内容的にどれほど整合的でも直観的に聞きわけることができます。嘘をついている人間は微妙に早口になるし、共鳴する身体部位が少ないので倍音が出ません。(中略)「声がいい」というのは、身体から倍音が出ているということだからです。だから、言っていることが支離滅裂であっても、没論理的であっても、話している本人が「自分は真実を話している」と確信していると、彼の身体部位は共鳴して倍音を出すようになる。そういうとき僕たちは話のコンテンツではなく、「モード」の方を重く見て、その人の言うことを信じてしまう。「人間は真実を述べているときに、身体各部がその発言に共鳴する」というのが人類の経験則だからです。」
 引用がすごく長くなりましたが、この本を読んでいるときに、「玉置浩二ショー」をNHKBSでやっていて、なんで玉置浩二さんの歌を聞くと悲しくもないのに涙がボロボロでるのだろう、ということについて、この文章で、深く納得がいったのでした。私の妻は、論理的ではないけれど、観察力と直観力に非常に鋭い、優れたところがあって、私がギターを弾いて歌を歌っているのを横で聞いていて、「ねえねえ、もうすこし、肩を後ろに引いて、ほら、玉置浩二がギター弾きながら歌うときの格好みたいにしてみなよ。肩も響かせないとダメだよ。」と言うのです。「頭骨とか鼻腔とか胸郭真ん中あたりを意識するのは当たり前で、玉置浩二を見ていると、肩の後ろあたりも響くようにカラダをつかっているでしょ、」というのです。たしかになあ。私の歌う声が薄っぺらいのは、あきらかに倍音がすごく少ないせいなのは自覚しているのですが。
 妻は、玉置浩二さんの歌っている姿を見るたびに、「イエスキリストって、玉置浩二みたいな声だったんだと思う。教会にあるキリストの絵とか、十字架の像とかを見ると、顔の骨格とか、胸郭の広がり方とか、なんか似てるでしょ。きっと、玉置浩二みたいな、ああいう(倍音のすごく多い)声だったから、言葉が特別なチカラを持ったんだよ」と言うのです。
内田樹氏の、この文章と、妻とが、同じことを言っていて、びっくりしました。
 玉置浩二さんの声って、パソコンやスマホの貧弱なスピーカーで聞いても、倍音が異常に出ていることがわかりますが、生で聞くと、本当に、異常ですよ。あんな声の人間、他にいません。涙が出るだけじゃなくて、一年ほど前にオーチャードホールで聞いた時は、凄まじいロングトーンを聞いたら、ホールですから当然屋根が、天井があるのですが、私の意識の中では、屋根がパカーンてなくなって、星空がぱーと目の前に広がったんです。たとえ話、比喩じゃないです。私の意識のリアリティとして、そうなったんです。玉置さんが元気なうちに、一度でいいから、ライブに行くことをお勧めします。長いこと音楽を自分でもやり、ライブもさまざま聞いてきましたが、あんな体験は、後にも先にも初めてでした。

今日はラグビー二試合TV観戦。2019WCが不安になった一日でした。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

土曜、オールブラックス×ブリティッシュアイリッシュライオンズ戦を夕方見て、深夜、日曜に日付が変わったところで、サンウルブズ×ライオンズ(これは当然スーパー15のライオンズ、南アのチーム)を見た。
初めの試合の方は、ソニービル・ウィリアムズが前半20分くらいでなんとレッドカード退場で、50分以上、オールブラックスは14人で戦ったのだが、ものすごい接戦、熱戦になった。ボーデン・バレットのキックの調子がすごく悪かったことも、接戦になった原因。14人になり、プレースキッカーが調子が悪くても、ブリティッシュアイリッシュライオンズと互角、というのは、オールブラックスの果てしない強さを見せつけられた感がある。
 一方のサンウルブズだが、この前のアイルランド戦の日本代表から、エディージャパンメンバーを全部抜いて、残った小倉や山中、徳永らに、ジャパンから漏れた中鶴,笹岡らをまぶしたチーム。相手のライオンズは、今季のスーパー15で、NZ勢と唯一互角に戦っている最強南アチーム。つい先日の南ア×フランスの代表スタメンがたくさんいる。前回ワールドカップメンバはいないはず。
 つまり、この前のワールドカップの日本×南ア、日本勝利を、サンウルブズの日本人も、ライオンズの南ア人も、体験していない。両チームとも、それ以降、新しく代表になった選手、次のワールドカップの代表に新たに加わりそうな人たちを中心に構成されたチームと言っていいかと思う。
 そして、結果は7-94。今季最多失点、最多失トライ。かつての弱いジャパンが、ワールドカップでティア1の国とあたったときを思い出させる試合内容。最弱ジャパンに時間が戻ったよう。
 つまり、これを見て分かるのは、エディージャパンだけが特別に世界に通用したのだということ。日本のラグビーレベルが全体として上がったわけではなく、エディーさんのチームの作り方、フィジカルの鍛え方、あれを体験した人だけが世界のトップレベルと戦えるようになったのである。エディジャパンのトレーニングを体験していない日本人や、あの代表から漏れた山中なんかは、やっぱり世界のトップレベルとは全然全く戦えない、という厳しい現実。ウェールズと接戦をしたり、アイルランドと「戦える」という感じがしたときも、活躍したのはエディージャパンの戦士たちが活躍した時間、状況だけではないか。それ以外で通用した感があるのは、日本人では松橋くらいじゃないのかな。
 もうあとワールドカップまで2年しかないのだが。エディーさんはイングランド代表監督として、ものすごい成果を上げているから、絶対次のワールドカップまでイングランドは手放さないよ。何でみすみす手放したのだろうと思ってしまう。
 ここから二年、高齢化が進むエディージャパンの戦士たちに頼ってチームづくりをするしかないのかな。あの鍛え込み方を、新しい、若い人たちにもやらせるノウハウは、どこにも継承されていないのかな。
 絶望的な気持ちになるような、本当にひどい内容の試合でした。ラグビー好きの友人の皆さん、ご意見ください。

日本×アイルランド戦は、前回ワールドカップの南ア戦と同じくらい胸が熱くなる試合でした。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 ほんとに、ナイスゲームでした。ワールドカップの南ア戦と同じくらい、いい試合でした。タックル、超えていこうとする気持ち、心が、第一戦とは、全然違った。前半の、巨大な相手のアタックに小倉順平が集中して狙われながら、タックルをし続ける姿に、涙ボロボロ。松島のトライで松島と小倉が抱き合うところで涙ボロボロ。後半も、ルークトンプソンが、稲垣が、とにかくみんながタックルしたと思ったら立ち上がり、次の瞬間、またタックルしているその姿に涙がボロボロ出てきた。エディージャパン全員にあった、この魂を、ルークトンプソンが今の、新しいジャパンのメンバーにも注入してくれたような。全員がタックルしては立ち上がってはタックルしては。
 ワールドカップメンバーと、新しいメンバーの間の「厳しさ」の落差を、埋めるきっかげに、この試合がなってくれると思います。第一戦では、稲垣が「エディージャパンのときに積み上げたものが失われている」と言い、田中が「規律を守れるかどうか、反則をしないかどうかは個人の意識の問題」と、簡単な反則から流れを相手に渡して失点を重ねたことを厳しい言葉で語っていました。新しく代表に入った選手は、自分たちと互角の相手との試合(ルーマニア戦)では、ディシプリンを守れても、本当にきついプレッシャーをかけてくる格上の相手には、簡単に反則をしてしまう。
 ワールドカップ南ア戦の勝利は、格上の、フィジカルでも圧倒的な南アに対し、反則をせずにタックルし守り続け、セットプレーに集中しきる、そこから生まれたのだということを、このアイルランド第二戦では、エディージャパンからの戦士たちが、新しくジャパンに加わったメンバーに、体で、プレーで伝える試合だったと思います。
 最後の10分間に、相手ゴール前まで迫りながらトライを上げられなかったのは、最後に投入された徳永、山中らが、体力的にはフレッシュだったけれど、ゲームのその緊迫感、ミスができないそのテンションに対応できずに簡単なところでミスを重ねたことも一因だと思う。
 今回、このレベルの「本当の戦い」で、初めて10番をつけた小倉順平について。小倉については、個人的に特別な思い入れがあって、もう、応援している気持ちとしては、自分の子供のような気持ちで見ている。高校の一年時から、ずーっと見続けている。(長男三男の母校、桐蔭学園初の日本一を、松島とともに達成。そのときのスクラムハーフの浦部君は明治大学で松橋と同期。その浦部君は電通に入社して、今は私の仕事仲間。小倉君ほど「ラグビー理解が深く」「キャプテンシーがあり」「体格が小さいハンディを努力で乗り越えようと努力し続け」「キック力の課題も、努力により今や日本トップクラスのキッカーになった」、いろいろな意味で尊敬し思い入れをもっさてみられる選手は、私にとってしはいないです。この試合も、ものすごく大きな期待と思い入れ満タン状態で見ていました。
 小倉は前半で下がってしまったけれど、通用しなかったわけではない。ただ、ワールドカップの南ア戦での南ア、パトリックランビー(小さな10番)を、ジャパンが徹底して狙ってアタックしたのと同じことを、アイルランドがしてきた。小倉のサイズでは、巨大な相手が自分めがけてアタックしてきたときは、斜め後ろに力をそらすようなタックルをせざるをえない。完全なタックルミスでぬかれたのは2回くらいだと思う。ほとんどは絡みつくようにタックルし続けた。ものすごい回数タックルしていたのだが、それでも「小倉のところを狙えば、一人では止まらないので他の選手がフォローに入る」ところで人数のズレが起きる。小倉個人としても、小倉を使う場合のチーム全体の課題としても、明らかになった。でも、小倉順平は、課題が出たら、それをものすごい努力で、常に乗り越えて、成長することができる選手なので、今日の経験は、絶対小倉を成長させると思う。

コンフェデのメキシコやチリを見ていたら、シャビ全盛期のくるくるターンを思い出した。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

 今回のコンフェデは、チリ、メキシコ、ポルトガルである。強くて速いパスがビシビシつながって、生理的に気持ちが良いサッカーをする3チームである。ドイツも、もちろん素晴らしい。若手中心、代表歴がほとんどない選手だらけにも関わらず、最近のドイツの、「カラダの大きな人がバルセロナみたいなパスサッカーをする」という、前回ワールドカップ優勝チームのサッカーをきちんと受けついでいて素晴らしい。
 とはいえ、やはり、チリである。ビダルは相変わらず、どこにでも顔をだし、素晴らしい技術と、平気でずるいこと汚いことをやる特徴も丸出しで大活躍である。初戦はお休みしていたサンチェスが二戦目ドイツ戦では素晴らしいゴールを見せてくれて大満足。サンチェスがいちばん好き。
 サンチェスのプレーを見ていると、シャビやイニエスタのいたバルセロナで、メッシ、ビジャ、ペドロたちとのポジション争いで、完全なレギュラーはつかめなかったものの、出てくるといつも抜群の働きをしたことを思い出す。サンチェスがいた時代のバルセロナは本当に強かった。なんといっても、シャビ・イニエスタコンビが完全に機能していた。
 ということで、今日、書きたいのは、実はシャビの「くるくるターン」のこと。今回のコンフェデでも、メキシコやチリの中盤の選手が、ときどき、ピッチの真ん中あたりでボールを受けると、敵のディフェンスが寄ってくるのを、くるくると360度ターンをしてかわして前を向いて、見事なパスを出す。そういうプレーを見るたびに、どうしてもシャビを思い出してしまう。
 NHKスペシャルで昔シャビの特集をやったことがあるが、その番組での実験でも、シャビの能力で最も際立っているのは、ピッチ上にいる敵味方の位置を、常に正確に把握し続けていることだった。
 ピッチ全体の視野を確保する、という点では、前線の選手というのは不利だ。キーパー、センターバック、ボランチ、サイドバックなど後方の選手の方が、全体の人の配置は見える。しかし、攻撃に関わるには距離が遠い。こうした後方の選手は、全体視野は確保できても、攻撃プレーへの関与の仕方が限定される。シャビと同時期にスペイン代表のボランチだったシャビアロンソは、シャビよりもキックの距離感が長い。ロングキックでゲームを作るタイプの、ボランチ型のゲームメーカーだった。後方からは、ロングキックと、ときどきの上がりでしか攻撃をコントロールできない。
 10番の、つまり前めのセンターハーフポジションで、ピッチ全体を把握する、というのは、特殊な能力が必要である。こういうことができたのは、ここ 20年間のサッカーの中でも、ジダン、リケルメ、シャビ、アーセナル時代のベルカンプくらいなのではないだろうか。「全体を把握できるのはボランチ」「前めの10番は、使うより、使われるタイプ」というのが、最近のサッカーの傾向な感じがする。(日本代表で言えば、香川は、どうしても、「使われる」度が高い選手な感じがして、10番としては、物足りない、チーム全体、ゲーム全体を支配するタイプの選手ではないのだよなあ、という不満を持ってしまう。)
 前めの10番でありながら、自分の前(味方フォワードと相手ディフェンダー)だけでなく、自分の後方の人の配置、動きまでを把握しながらプレーを選択できる選手がいると、チームは生き物のように動く。攻め、守りの緩急がついて、安定する。ボランチがゲームコントロールするよりも、攻めのバリエーションが多くなり、攻め回数も多くなる。このポジションの選手がうまければ、カウンターを喰う回数も少なくなる。その理想形がバルセロナ全盛期、スペインがワールドカップ、ユーロを続けて勝ったスペイン代表でのシャビだった。そのシャビの「360度視野」確保の必殺技が、「くるくるターン」だったのではないかなあ。あの技術、日本の中盤選手も、もっと使えばいいのに。中村俊輔と遠藤は、あの動きをよくすると思うけれど、最近の中盤の選手ては、鹿島の柴崎くらいではないかしら、あの動きが得意なのは。「攻めが遅くなる」といって、俊輔のあの動きを批判する人も多かったけれど。僕は「全方位視野を持つ天才10番」がいるチームが、やっぱり好きなのだ。時代遅れなのかもしれないけれど。
 

友人Sさんへの返答。共謀罪法案に関する大騒ぎによりセットされた時限爆弾について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

この前、共謀罪法案成立の朝に書いたブログに対して、大学以来の友人Sさんからこういう質問を受けた。
「でもどうしてこの法(やその他のひどいやつ)をこんなに急いでつくっているんだろう。経済にも支持率にも寄与しないし、加計などからの保身のためではないと思う。思想信念?無敵感?焦り?心情がわからない。きもちがわるい。何かもっと見逃しているものがある気がする。」

これに、大きく3つの視点で、私の考える理由を述べたいと思います。
視点1 安倍政権は日本をシンガポールのような国にしたいと考えている。と仮定する。
視点2 日本に残された「成長戦略」は、軍事産業の輸出産業化しかない。と安倍政権は考えている、と仮定する。
視点3 視点1,2を、国民に納得させる重要なきっかけとして「いつか必ず起きるテロ」を利用しようとしている。と仮定する。

この道筋で考えると、ここ数年の安倍政権の制定した「日本版NSCとその補佐機関NSS国家安全保障局の創設」「防衛装備品移転三原則と防衛装備庁創設」「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪をテロ等準備罪と名付けて法制化したこと」の意味が、一本の筋として見えてくる。

視点1 安倍首相の作りたい国家像を「シンガポールのような」と仮定してみる。シンガポールというと、観光地だし最近はアジアで一番の経済の中心、くらいのイメージしかない人が多いと思うが、政治体制を見るとびっくりする。その特徴は・・・
① いちおう選挙はあるのだが、実際は一党長期政権、実質、独裁世襲政権である。(初代首相建国の父の長男が現在の首相。)
② 「いちおう選挙はあるのに一党独裁」が可能なのは、厳しい言論メディア統制があるから。
③ そこらじゅうにある監視カメラ、AIまで活用した国民の行動と、携帯の通話と位置情報の分析など、国民生活の厳しい監視により、良好な治安を保っている。(明るい北朝鮮、と言われている。)。
④ 低い法人税、企業や外国企業の投資しやすい法制など、企業活動、経済最優先の、仕組みになっている。
⑤ 大学のレベルの高い学問研究水準は、産官学共同プロジェクトによる潤沢な資金が支えている。
⑥ 徴兵制のある軍事国家である。非常時は国民総動員体制になる仕組みが確立しており、国家予算の2割以上の軍事費を支出している。

視点2 日本の成長戦略で、残された可能性は「軍需産業の輸出産業化」だけである。
そもそもはもうひとつの柱として、インフラ輸出 原発、新幹線を掲げていたが、新幹線など交通インフラ輸出は諸外国との競争で必ずしも順調ではない。原発は福島原発事故による諸外国の原発政策の変化と、東芝の破たんで前途は不透明。そんな中で、安倍政権および財界は、軍事産業の輸出産業化を着々と進めている。
防衛装備移転三原則の閣議決定で、実質武器輸出を解禁し、その窓口として防衛装備庁を発足。世界的武器展示会でのセールス、イスラエルとの無人攻撃機共同開発やオーストラリアへの潜水艦輸出交渉、フランスやイタリアと、防衛装備品移転に関する協定を結ぶなど、大きなニュースにはならない中で、その流れは急拡大している。軍事技術化可能な研究を、大学と共同で進めるプロジェクトも進行している。
しかしながら、オーストラリアは結局、日本の潜水艦は採用せず、大学も、軍事転用可能な研究をするかどうかについては、反対の声を上げる学者も少なくない。憲法9条改憲への抵抗が強いのと同様、大学での軍事技術研究開発や、軍事技術、兵器の輸出産業化は(実質的には進行していても)おおっぴらに行おうとすると、国民意識の抵抗は大きい。武器、軍事技術の国際競争力を高めるためにも、本当は自衛隊の戦争参加による実力証明。自衛隊の練度の高さだけでなく、日本製技術、兵器の優秀さを実戦で証明することで、軍事技術輸出産業化を加速したいという思いは、政府と財界に存在するのでは。
とはいえ、自衛隊の実戦闘への参加、という事態を国民が許容するのは、おそらく日本国周辺におけるける以下の事態の場合のみ。
① 尖閣への中国軍(もしくは漁民を装った勢力)の上陸など、東シナ海から太平洋にかけての離島における武力衝突の勃発
② 北朝鮮情勢急変による自暴自棄化した北朝鮮の軍事行動。
中東、アフガンでの米軍との共同作戦や、北アフリカ、アフガニスタンなどでの国連PKO活動における自衛隊武力行使は国民的反対世論ハードルが高い。

視点3 いつかテロは起きる。そのとき、政権はどのような世論操作を行うか。操作を行うまでもなく、国民はどう反応するか。
 アメリカのブッシュ政権が、911のテロを受けて、「テロとの戦争」を宣言し、まず、アフガン・タリバンを攻撃し、ついで、911とは全く無関係のイラクフセイン政権を倒したのはご存じの通り。石油利権を求めてのこと、とも、戦争ビジネス軍事企業の意向を受けてのこと、とも言われている。フセインが大量破壊兵器を保有している、というブッシュの嘘は後になって明らかになったが、911テロによる世論の興奮を利用すれば、こういう無理がまかり通る。ということを安倍首相とその周辺はしっかり学習していると思う。また、スノーデンにより告発された、NSAによる、網羅的な国民監視体制、ネット企業にも協力させた国民監視体制も、このテロへの対応として始まったのは承知の通り。このことも安倍政権は同然学習、参考にしていると思う。

 さて、ここからが本題なのだが、今回の共謀罪決定の大騒ぎを経て、しばらく後、なんらかのテロが起きて、国民に大きな犠牲が出たら、世論はどのように動くだろうか。あるいはラグビーワールドカップや東京五輪などの国際イベント期間にテロが起きて、日本人だけでなく、外国からのお客様にも犠牲が出たとしたら、国民世論はどのように動くだろうか。

 「だから共謀罪法案ではテロは防げないと言ったではないか」と、野党の主張を想いだし、自民党政権を責めるだろうか。
 それとも、「あの時、共謀罪に反対した野党は、どう責任を取るのだ。テロの危険性を軽視し、野党がその運用を慎重にするようにうるさいことを言ったために、せっかく作った法律が十分に活用されず、こんな悲惨なテロが起きてしまったではないか」と野党を責めるだろうか。
 私は、後者の意見が大勢を支配すると思う。
 今国会での野党の反対の論理というのは「共謀罪法はテロ対策には効果が低い。現代のテロは共謀罪法案とは違う行動原理の単独者が行う場合が多くあり(ソフトターゲットを狙ったローンウルフ型)、全ては防ぎきれない。それに対し、以下のデメリットが大きすぎる。=国民の監視、反体制勢力抑圧に乱用される危険性が高い。そうした可能性のある法律があるだけで、すぐにそのように運用されなくても、政治活動、自由な言論活動が抑制されてしまう。」
つまり、テロが起きてしまった場合、「共謀罪法案があってもテロは防げない」という、野党の主張が論理的には正しいことが証明されたはず。なのであるが。
 しかし、国会論戦を通じて関心の低い国民が受け取った印象は「野党はテロのリスクは低い」と主張している印象。この法案を推し進めている与党はテロのリスクと本気で向き合おうとしている印象である。(21日の『ワイドナショー』(フジテレビ)でもこの問題が取り上げられたが、松本人志がなんと、「いいんじゃないかな」と共謀罪賛成の姿勢を示したのだ。しかも、テロ防止のために「冤罪もしょうがない」とまで言い切ったのである。)ニュースサイト{LITERA」http://lite-ra.com/2017/05/post-3176.html
この松本発言の感じ方が、与党支持、漠然と低関心な国民が受け取った印象だと思う。
 とすると、いったん、大規模テロが起きた時には、「やはりテロのリスクと本気で向き合おうとした安倍政権、与党は正しかった」「テロのリスクを軽視して、反対のための反対をした野党はけしからん」という世論が形成されると、僕は、予想する。おそらく、そうなると思う。
 こうなると、「非常事態宣言」などの強硬措置に出なくても、マスコミもその世論に乗って、「実質一党独裁が永続する日本」への大勢翼賛体制がさらに一気に加速する。様々な監視システムの運用が国民的にも容認される。(というより、待望、要請するされるのではないか。)
 そのテロが、イスラム過激派のものであれば、中東や北アフリカへの自衛隊の派遣、参戦を受容しやすい国民世論が加速するだろうし、北朝鮮工作員によるものであれば、北朝鮮への敵基地先制攻撃容認論(アメリカと協働しての、北朝鮮現政権打倒を支持する声)も容認されやすくなるかもしれない。

 共謀罪法案を通じて形成された「自民党はテロ対策に本気。野党はテロリスクを軽視し過ぎ」印象は時限爆弾のようにセットされた。テロが起きると、この時限爆弾がさく裂。それにより、「日本のシンガポール化」「自民政権の永続世襲独裁政権下」「自衛隊・実戦闘参戦ハードルの低下」「軍事産業の輸出産業化」という、安倍政権の目指すことが、一気に連鎖的に加速して実現する。
 こういうシナリオを書いている人が、安倍政権の後ろにいるのではないかと、僕は想像しています。

共謀罪法案が可決してしまいそうな朝に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

政権支持構造図.png

 共謀罪法案が参院を非常にイレギュラーな形で通過可決、成立しようとしている今(6/15 午前4時過ぎ)、どのテレビチャンネルも国会の中継はしていない。早朝朝四時のフジテレビのニュース、トップニュースはロンドンの火事。次にお笑いタレントの交通事故ニュース。そのあと、やっと「テロ等準備罪法案まもなく可決成立へ」だ。なんていう国だろう。
 しかし、成立した悪法は、政権を交代しさえすれば、改正も、廃案も可能なのだ。そもそもこんな悪法を、こんな不正な手続きで成立させてしまうことになったのも、ここ三回の国政選挙で、現政権与党に2/3もの議席を与えてしまった国民のせいだ。
 この政権がどうして支持され続けるのか、反対する勢力がなぜマジョリティにならないのかを、構造図にしてみた。この政権の特徴は「頭が悪い、お勉強ができない」人(国民の多数派)の、お勉強ができる人(官僚やメディア)へのルサンチマンを共感の基盤にしていることだ。本来なら、「お勉強ができるできない」軸の対立よりも、「生まれながらにお金持ちの苦労知らず」と「働いても働いても暮らしが楽にならない」の対立の方が切実なはずなのに。「貧乏で頭の悪い人=マジョリティ」が、「お金持ちで頭の悪い」権力者を、「頭が悪い」共感(頭がいいやつらへの反感)をベースとして、支えている、というのが、現政権の本質だ。首相や副首相が漢字を読めないことを笑っても、失言閣僚の頭の悪い言動を批判しても、「頭が悪いもの同士の共感、頭いいやつへの反感」が政権支持感情の基盤にあるのだから、政権には全くダメージにならないのだ。頭の良いリベラル派が頭の悪い政権幹部の振る舞いをバカにすればするほど、頭が悪いマジョリティの感情的反発を招くので、けして多数派を取ることができないというからくりだ。
 この政権の積極的支持層中心は「情弱年金老人」だ。彼らは、金持ち層を敵だとは考えない。むしろ、福祉予算子育て世代に回せ、という主張をする現役世代を敵だと考える。弱いものが弱いものを叩く愚かさに気が付かない。NHKと読売新聞の言うことをまるまんま信じるので、夜7時のNHKニュースと夜9時のニュース9と読売新聞さえ情報コントロールすれば、この層はいつまでたっても従順に政権を支持し続ける。
 次に、消極的に、無関心であることで政権を支えているのが、勉強できないまま大人になった若い世代だ。地元の仲間と地元のイオンと居酒屋とカラオケと、車があれば、特に不満は無い。政治には無関心で選挙にもいかない。選挙に行かないことで現政権を支えている。勉強ができて地元を捨てて都会の大学に進学し、都会で就職したやつらのことは、いけすかないやつらと感じている。彼らが国政や国際政治の問題を知ることも考えることも、まずない。
 左下象限に位置する、この「マジョリティ」が動かない限り、選挙結果が大きく変わることは無い。
 ネット世論は、意識の高い「右下」象限含有率が高いから、政権支持率はそもそも低いし、森友→加計問題と、共謀罪審議のプロセスを通じてさらに支持率は低下している。が、いざまた国政選挙となると、左下の「頭悪い貧乏」象限の、まさに頭が悪いが故の政権支持態度(情緒的なものであり、かつ頭いいへの反発をベースにしているから、変化しない)により、政権は維持されてしまうのだ。
 だから、多くが右下象限に属すると思われる私の友人の皆さんは、その内輪でだけ意見を交換していても、何も変わらないことを、よりはっきり自覚しなければ変化は起こせない。左下象限にいる家族友人知人と会話をして、投票所につれていく、投票先を変えさせる努力をしなければ。悪法の成立を嘆いても、この情けない現実は変わらない。変えるには、身近な、左下象限の誰かの投票態度を変えさせるしかないのだから。
 

昔書いた、ブラジルワールドカップ、日本のサッカーについて思うことを、尊敬するサッカーバカの先輩、中村禎さんに読んでもらうために、今さらながらブログに上げてみた。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

これは、2014年 ブラジルワールドカップ惨敗の後で、日本サッカーがワールドカップでベスト8になるために必要なことは何かを考察したフェイスブック上の投稿です。ブログに上げていなかったので、まとめて保存します。

第一部

 世界のラグビー界は、実力差により、IRB主要8協会(英仏アイルランドウェールズスコットランド、NZ、豪、南ア)にアルゼンチン、イタリアを加えた10カ国で構成されるティア1、それ以外でワールドカップに出場できる程度の実力を持ち合わせるティア2、およびそれ以下に分けられ、国際試合の組み方などを工夫している。ジャパンや、ともにパシフィックネーションズを構成するサモア・トンガ・フィジー・カナダ・アメリカなどはティア2である。
 ラグビーはサッカーと違い、実力差がそのまま結果に表れやすい。NZと日本がやれば、ひどいときは100点差、健闘しても50点差近い差がつく。実力の近い国同士でまずは切磋琢磨、ときどきティア1に挑戦、というのが現実的で効率的なのである。こうした努力の結果、先日のイタリア戦での勝利、世界ランク10位=ティア2の中でもティア1の下位となら互角に戦える、というところまできたのが、ラグビー日本代表の現状のポジションである。
 サッカー界では、FIFAランキングはあるが、こうした「ティア1」「ティア2」としての色分けがされていない。番狂わせ下剋上が起きやすいのがサッカーなので、ラグビーほどくっきりと区分けがしにくいのである。
 とはいえ今回のワールドカップ一次リーグの勝ち抜け国の得失点の状況を見ると、「ティア1型勝ち抜け」と「ティア2型勝ち抜け」があることがわかる。その間には「サッカー文化の差(守備的とか攻撃的とか)」を超えて、実力的断層があることが見て取れる。
 得点-失点 で整理すると、オランダ10-3 コロンビア9-2 フランス8-2 ブラジル7-2 ドイツ7-2 アルゼンチン 6-3 あたりまでがティア1型勝ち抜けと言える。得点力が高くディフェンスも安定している。
 一方メキシコ4-1 チリ5-3 ギリシャ2-4 ウルグアイ4-4 ナイジェリア3-3 米国4-4  ベルギーは一位通過だが4-1と、勝ち抜け方としては実はティア2型である。 3試合で4得点程度の攻撃力しかないところを、失点を3試合2点程度にすることでぎりぎりの勝ち抜け方をしている。
 ティア1型勝ち抜けをした国がいずれも、優勝または決勝戦の常連国なのに対し、ティア2型の国はメキシコや米国のようにベスト16の常連国ではあっても、それ以上になかなか進めない国が多い国である点にも注目。(スイスの7-6とアルジェリアの6-5というのは例外的なパターンだろう。)敗退したチームではクロアチア6-6が例外で、あとは4得点以下で得失点が0かマイナスである。
 ティア2の国が一次リーグを勝ち抜けるには、一次リーグ3試合で4得点2失点を目標とするのが現実的である。
ちなみに日本代表 過去のWCでの一次リーグ得失点は、フランス大会1-4 日韓大会5-2 ドイツ大会 2-7 南ア大会 4-2  ブラジル大会 2-7 である。 勝ち抜けたときも5-2 4-2というティア2型得失点パターンである。「攻撃的サッカー」を標榜して機能せず、最終戦で玉砕、2-7となったドイツ大会とブラジル大会の轍を踏まないためにも、日本はティア2の国が一次リーグを勝ち抜けるのに必要なサッカースタイルを確立すべき。

第二部

 では、一次リーグを4得点2失点で乗り切るチームを作るには、2失点、というところからスタートする。
 まず、岡田監督のチームづくりを見てみよう。
岡田監督はフランス大会も南ア大会も、「バティストゥータやスーケル」(フランス大会)「エトーやロッペン」(南ア大会)という世界最高のストライカーのいる同組相手に、どうやったら0点で抑えきれるか、を最大のテーマに本大会に臨んだ(はず)。アジア予選を勝ち抜けるときには、引いて守るアジアのライバルに対してどう点を取るか、と考えて作ったシステムを、本大会に向けて変更した。
 フランス大会でいえば、加茂さんの混乱から引き継いだチームを「北澤の前線から守備的トップ下MFシステム」で復活させたのに、本大会では北澤もカズも不要、とばっさり切った。基本、5バック+山口の六人で守るシステムに変更。
 南ア大会でも、予選では使わなかった阿部勇樹アンカー(センターパックの闘莉王・中澤と、ボランチ長谷部遠藤の間に、バイタルポジションを消したり相手のエースにマンマークにつかせるための阿部勇樹を置く。中澤闘莉王はハイボールには強いが足は速くない。下がってハイボールをたたき出すと、バイタルエリアがあく。マンマークも無理。だから阿部をアンカーにおいた。) そしてサイドバック右を攻撃的内田から、守備力の高い駒野に変更。端的に言って、岡田監督は本大会では「守備的6人と攻撃4人」システムにモデルチェンジしている。これは敗退したフランス大会でも守りだけを見れば成功しており、バティストゥータ全盛期のアルゼンチン、得点王になったスーケルのいるクロアチアを、それぞれ1点に抑え込んだ。
 日韓大会トルシエも、「フラット3」という守備戦術からチームを作り始めた。フラット3だから3人で守るかというと、さにあらず。最終ラインが3人だが、ボランチの稲本・戸田のうち、戸田は守備専任。サイドfハーフの小野(または三都主)、明神のうち右サイド明神はほぼ守備専従。やはり「守備に5から6人か」「攻めるのは4人」システムが基本。もちろん相手が弱くてひいてくれば、稲本は攻めに重心を置くから、守り5攻め5になるが。
 対してジーコジャパンやザックジャパンは「日本の強みは攻撃的中盤+攻撃的サイドバック」という攻め重心アジア勝ち抜きシステムを基本変更しないまま、本大会に臨んだ。
ポゼッションを高く、選手間の距離を短く、サイドバックもどんどん攻め上がった結果、「7人で攻め3人で守る」が常態化するサッカーになった。
 ジーコジャパンとザックジャパンの不幸な共通点は、直前の親善試合で、この攻撃的システムがうまく機能して、好調に点がとれてしまった、という「親善試合絶好調」という点もある。
 ジーコジャパンは直前親善試合で開催国ドイツに高原2ゴールで引き分け、「いけそう」感のまま、攻撃的システムのまま本大会に臨んだ。
 しかし、この攻撃型システムの場合、攻撃中心選手からのパスをカットされた瞬間、強烈なカウンターを食うことになる。アジア予選と、本大会の違いは、アジアの敵はカウンター攻撃をしても、シュートが下手で、そんなには点を取られないが、本大会の敵は、カウンターをしかければ、ものすごい確率で得点してしまう、ということ。この弱点は去年のコンフェデでも露呈していたのだが、修正されないまま本大会を迎えてしまった。
 この日本の「人数かけないと守れない」の理由は、実はシステムの前に、個人のサイズと身体能力の問題が大きい。ふたたびラグビーを引き合いに出すが、ラグビーは「体の大きさ」と「走る速さ」の能力差が得点力、防御力に与える影響がサッカーよりダイレクトにわかりやすく表れる。同じ幅をラインになって守るときに、185センチ平均のサイズがある人間が並んだ時と、175センチ平均の人間が並んだ時では、単純に「人と人との間の、通れそうなスキマ」が違うことは理解できると思う。また、球を持って100メートル10秒で走る人がいったんラインブレイクしたら、後から100メートル11秒の人間が追いかけても、絶対阻止できない。というか追いつけない。
 実は、サッカーのディフェンスでも、体のサイズと走る能力は、同じような影響力がある。高い位置に最終ラインを上げて守っていたとき、100メートル10秒のFWに突破されたら、足の遅いDFは追いつけない。吉田麻耶が、俊足FWにぶち抜かれてカウンターで失点、というシーンを何度も見たことがあると思うが、足が遅いのだから仕方ない。
 こういう身体サイズと走力の差を補おうとすると、ディフェンスにかける人数を一人増やす、という岡田ジャパン阿部勇樹システムというのが、いかに合理的、というか現実的対応かがわかる。小さいんだから一人増やすのだ。空中戦に勝つには大きくて足の遅いDFを最終ラインに置いておくしかないなら、足の速いマンマーカーを別に用意しないと仕方がない。
4得点2失点のうちの、2失点を実現するには、基本的に「守備人数を6人はかける」というものすごくシンプルな結論に落ち着いた。今大会でいえば、スペインを封じ込んだオランダの5バックシステムや、死の組を首位通過した(イタリアとウルグアイを粉砕した)コスタリカのフラット5バックシステムなど、守備に5バック+ボランチで6人かけるシステムは、実は世界的にも別に珍しくないのだ。
 じゃあ、どうやって、残り4人で、4点取れるチームにする?
それはまた今度。

第三部

 ワールドカップ一次リーグ3試合で4点取れるチームとは。どんな戦術を取ったら、そういうチームになるか。そんなことがわかったら誰も苦労しない。攻撃は水物で、取れないときはスペインだってイタリアだって点が取れずに敗退する。
と開き直っては論が進まない。
 私はここで、ふつう言われていることとはかなり違うことをいくつか提案したい。
 まず、それは「日本らしいサッカー」を作ろうなどという抽象的で無意味な目標を捨てたほうがよい、ということだ。そうではなく、日本が一次リーグを勝ち上がれるサッカーを本気で追及したとき、(3試合4得点2失点でいけるサッカーを追及したとき)その結果としてできあがったサッカーが、どんなに不格好でも、世界から尊敬されなくても、それが日本のサッカーだと思おう。まずその覚悟を持つこと。
 それから、構成する選手が変わっても永続する「日本らしいサッカー」などというものがあると考えるのはやめよう。そのときいる選手の特性に合わせて、勝てるサッカーを組み上げればいいのだ。そのとき、最も世界に通用する能力を持った個を活かすように、チーム全体の戦術を組み替えればよいのだ。
 今回のブラジル大会でも、アルゼンチンは「メッシ頼り」と言われているが、まさに、前回ワールドカップでメッシが機能しなかったことを反省して、メッシが生きるシステム・戦術・選手選択に変えたことで、ここまで勝ち上がっているのだ。戦術=メッシ頼り、でどこが悪い。華麗なパスサッカー戦術でメッシが生きなかったから、南ア大会ではアルゼンチンは勝てなかったのだ。今大会はメッシと相性の悪い選手は全部、選ばす、メッシに無理なディフェンスの負担もかけず、メッシが攻めで輝くことに集中してチームを作っているのだ゛。
 たとえばオランダ。オランダというと、みんなクライフのトータルフットボール、という神話の色眼鏡で、すごく先進的な全員攻撃全員守備のサッカーをしているようなイメージで見るけれど、今のオランダは「ロッペン」という特殊能力のあるスーパーマンがいることを前提に、がっちり守って、とにかくロッペンに球を預けてゴール前まで持っていき、そのまま決めきってくれれば最高、そうでなければそこにディフェンスが集中するところにスナイデルが走りこむ、という「戦術=ロッペン」サッカーをしている。そしてロッペンがもし不調でも、ファンベルシーというスーパーマンがもうひとりいるから、同じような「戦術=ファンベルシー」でokなのだ。
 ポルトガルを例にとっても、ルイコスタ・フィーゴがいた当時の「黄金の中盤パスサッカー」のポルトガルと、「クリスチャーノ・ロナウド」を活かすポルトガルが、同じ戦術であるはずがない。
 つまり、チーム内で卓越した特殊能力を持つ選手がいたら、その能力を活かすようにチーム戦術を組み上げるのが正しいアプローチであり、サッカーとはそもそもそういうスポーツなのではないか。
 日本にはメッシもロナウドもロッペンもいないのが問題、というが、そういうことでもない。
 日本の攻撃的タレントで、本当に、「この能力なら世界トップ10に入る」というような能力を持っていたのは、(というか現在進行形、今でも持っているのは)中村俊輔のセットプレーだけだと私は思っている。止まっているボールを思い通りに蹴る能力では、俊輔はピルロと並んで、いまだに世界のトップに位置していると思う。それが唯一、世界に通じる武器ならば、それを最大限に生かす戦術を採用すればよい。ペナルティエリア近くでファールを取れるフォワード&コーナーキックで競り勝てるヘディングの強い選手を選ぶ。それ以外はべたで守る。そしてフリーキックとコーナーキックにすべてを賭ける。俊輔在籍当時のセルティクが、チャンピォンズリーググループリーグで俊輔のフリーキックでマンチェスターユナイテッドを撃破して決勝トーナメント進出したときのようなサッカーをすればよいのだ。俊輔は今も現役で、昨年のJリーグMVPなわけだから、私のこの戦術の代表と、今大会のザックジャパンと、どちらが一次リーグで戦えたかは、わからないと私は思っている(俊輔&闘莉王ジャパンの方が戦えると今大会選手選び前から友人たちに力説していたのは、友達のみなさんはご存じのとおり)。(栗原・中澤のマリノスディフェンスに闘莉王も加え、マリノス斉藤やレッズ原口元気などペナルティエリア外側からドリブルでつっかけるタイプのFWをそろえて、フリーキック、コーナーキックを狙い続けるサッカーの方が、俊輔がいれば点は入ったと思っている。) 日本のサッカー解説の世界では「流れの中で点が取れる」ことが大切で、セットプレーでしか点が取れないのはダメ」みたいな論調があるが、どっちでとっても一点は一点。セットプレーだけで一次リーグ3試合で4点取ればいいのである。
 これは「俊輔の能力だけが世界に通じるなら」という前提での話だが、別の特殊能力を持つ選手がいたら、それを核に戦術をくみ上げればいいのだ。たとえばロンドン五輪の男子ベスト4の原動力も、実は「戦術=永井」だったところが大きい。圧倒的俊足の永井がいたために、日本のサッカーとしては本当に珍しく、強烈なカウンターを相手が恐れる、という状況が作り出せた。
 準決勝以降、永井がけがで機能しなくなって、日本の快進撃はあっさり止まり、魔法がとけたみたいに、準決勝も三位決定戦も負けてしまった。一次リーグでスペイン・モロッコに勝ち、ホンジュラス引き分け、決勝トーナメントにエジプトに勝った時に「日本サッカー全体が強い」みたいな気分になったが、永井がダメになったとたん、メキシコにも韓国にもやられてしまったことからわかるとおり、ロンドン五輪男子は「戦術・永井」が世界に通用しただけのことなのだ。
 別にこれは日本だけの話ではない。今回のウルグアイは「戦術=スアレス」のチームだった。守備は強固だったが、攻めに関してはスアレスなしには普通のチーム。スアレスがいればティア1だが、スアレス抜きではティア2のチームだった。フォルランに全盛期の力は全くなく、カヴァーニも一生懸命頑張ってはいたが決定力の面では不調。ただひとりスアレスだけは別次元の強さを発揮。スアレス欠場のコスタリカ戦は1-3で負け。スアレス登場のイングランド戦はスアレスの2点で快勝。イタリア戦もスアレス得点で勝ったが、かみつき事件発生。決勝トーナメントはスアレス不在で、コロンビアに一方的にやられてしまった。、
 「卓越した個」をスーパーフォワードだけだと考えるとないものねだりになる。セットプレーでも、ただ足が速いでもいい。とにかく、戦術の核になる卓越した個性を何人か育てること。そして
① 卓越した個(を活かす自分たちの型)  ロンドンでの永井とか、セルティックの俊輔とか。
そのうえで、本大会で攻撃・得点の核になりうる別のオプションをいくつか持つ
② 自分たちの型(エースが不調でも攻めが組み上がる自分たちの型)その2 を用意しておく。
(ア) スアレスや永井がいなくなるともうダメ、にならないように戦術核の選手が不調だったり怪我だったり出場停止になっても成り立つ、別の戦術型を用意しておくこと・
(イ) それは、単純にスアレスや永井の役割をほかの控えの選手に託す、ということではないはず。それではチームは機能しない。中心選手を変えた時には、戦術もそれに合わせて変える、という準備をしておく必要がある。ドログバ投入時のコートジボアールは、それによるチーム戦術の変更をきちんと準備していた。
③ ラッキーボーイ・新星候補を用意して、試し続けること。
(ア) コロンビアのハメス・ロドリゲスはたしかに「期待の新星」ではあったが、ここまでブレークすると思っていた人は少ないはず。ファルカオの不在でエース不在、というのが下馬評だったわけだから。こういう「伏兵・新星」の可能性ある選手を用意しておく。古くはイタリア大会のスキラッチとか。 
というわけで、「こういうサッカーをやろうと選手を選ぶ」のではなく「突出した才能を軸にサッカーをくみ上げる」というのが、攻めに関して言えば、サッカーの王道なのだと考え、柔軟かつ現実的に攻めの形を考えるのが、「3試合で4点を取る」ための唯一の道だ、というのが今のところの私の結論・

『ゲンロン0 観光客の哲学』読んだ。これはちょっとすごい。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『ゲンロン0 観光客の哲学』 単行本 – 2017/4/8
東 浩紀 (著)
Amazon 内容紹介
「否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――。
ナショナリズムが猛威を振るい、グローバリズムが世界を覆う時代、新しい政治思想の足がかりはどこにあるのか。
ルソー、ローティ、ネグリ、ドストエフスキー、ネットワーク理論を自在に横断し、ヘーゲルのパラダイムを乗り越える。
著者20年の集大成、東思想の新展開を告げる渾身の書き下ろし新著。」
 ここから僕の感想。いやー、これはすごい。①東氏のこれまでの仕事・著作とのつながりを解説しながら、②近現代思想史・総おさらいをしてくれながら、③現在と未来を考える、まったく新しい視点を提案してくれる本です。特に②の近現代思想のおさらいのわかりやすさが凄まじい。これまで30年間くらい、なんだかよくわからなかいままごまかしてきた、哲学思想まわりのもやもやがすっきり晴れる。(ルソーはもちろん一般意志2.0の流れで触れるとして、)カント、ヘーゲルからカールシュミット、ハンナアーレントという西欧19~20世紀前半の政治哲学の流れから、ノージック、ローティ、ロールズあたりの「リバタリアンとコミュニタリアン」という米国系最新思想の流れから、ドゥルーズからネグリハートという小難しい系現代思想まで、おそらく、基礎知識なしでもすらすらわかるくらい明晰に平明に解説してくれます。
 私の長男は東氏が早稲田の文化構想学部の先生だったときに教えを受け、その後、ゲンロンの「批評再生塾」というところで半年ほど修行をしたのですが、長男と議論をして、ちょっとやりこめるたびに「でも東先生の方が父ちゃんより頭がいい」という超あたりまえの謎の反撃をしてくるのですが、そりゃそうだ。浅田彰氏や柄谷行人氏がびっくりして認めてかわいがったのも納得。すさまじい頭の良さ。初めの頃の思想関係の論文や本は読んでいなかったので、(小説と、最近の数冊しか読んでいなかった)、ここまでとは。「アタマがいい人は、難しいことを、誰にでもわかるように説明できる」とは、東氏のことを言うのだな。ヘーゲルってこんなこと言っていたんだ。ヘーゲルについて、なんか、はじめて腑に落ちた。カールシュミットについても、ずっとすごく気になって、読み散らかしてみたものの、いまひとつ分からなかったことが、すごくクリアに解説されています。
 第一部が「観光客の哲学」。この前、読んだ、水野和夫氏の「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』と同じ、グローバリズムとナショナリズム(リバタリアニズムとコミュニタリズム)に覆い尽くされる、帝国とテロの時代に対する解決の糸口として、「観光客」「誤配」というキーワードで考察を重ねます。端的に言うと、現代の政治・哲学は「他者」をどう扱うか、どう考えるかということなのだが、その他者を「移民」とか「難民」としてではなく、「観光客」としての視線、体験をもって考える、という、なんというか、非常に面白いアプローチです。
 第二部は「家族の哲学(序章)」。私が東氏にすごく親近感を覚えたのが、震災・原発事故直後、氏も私も、家族を連れて(氏は静岡まで、私は京都まで)、東京を離れたのですが、(そのことで批判もされたのですが)、このことと、この章で書かれていることは、表面的なこととしてではなく、関係あると思う。ここでのドストエフスキー論も、ものすごく面白いです。
それから、偶然なのですが、この本を読む直前に西加奈子さんの『アイ』を読んだのですが、この小説と、東氏のこの哲学書、ほとんどまるまんま、相似形のように同じテーマに、同じ側から向き合っていると思う。併せて読むこ、とお勧めです。
 なんというか、私の読書友達は、みんな同年代のおじさんばかりなわけですが、もちろん、おじさん読書友達にも、本当におすすめなのですが。こういう本は、東氏と同年代や、それより若い人たちにこそ読んで欲しい。
 
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ゲンロン0 観光客の哲学
ゲンロン0 観光客の哲学
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NBAファイナル第四戦が、オールスターゲームみたいな点数になってしまった理由について。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

NBAファイナル、今日、第四戦で、今年のプレーオフで初めてウォーリアーズが負けた。
今日起きた、二つの異常事態について、考察します。キーワードは「審判の忖度と3ポイント
① なぜウォーリアーズはここまでプレーオフ15連勝という異常なまでの強さを発揮したか。
② 今日の試合、前半だけでキャブズ86-68ウォリアーズという、異常なハイスコアゲームになったか。

私がNBAを真剣に見始めたのは、バルセロナ五輪のドリームチームブームの時から。、NBAファイナルはマイケルジョーダンのブルズ初めのスリーピートの三年目、チャールズバークレー率いるフェニックスサンズとのファイナルから。あれがたしか1992-3シーズンなので、かれこれ25年ほど、一試合も欠かさずファイナルは見てきている。
ジョーダン ブルズの後期スリーピートの時期が、最も熱心にNBAを見ていた。ウォーリアーズに破られるまでの記録だったシーズン72勝のシーズンは、ほとんどブルズの試合は(当時スカパーとNHKBSを併用すると、ブルズの試合は9割くらいの試合がオンエアされていた。)レギュラーシーズンもプレーオフも、オンエアされた試合は全部見たし、録画してライブラリー化してある。あの年のブルズでさえ、プレーオフ勝ち上がる途中で一敗しているし、ファイナルではゲイリーペイトン率いるシアトルスーパーソニックスと4-2、二敗している。
レギュラーシーズンの試合は、最近それほど真剣には見ていないのだけれど、スティーブカーのウォリアーズというのは、NBAの「審判忖度文化」に、決定的なダメージを与えつつあるというのがこれから書くことの論旨。
25年間NBAを見続けた経験から、私は以下のようにNBAというスポーツ文化を理解している。選手はまったくもって八百長的要素など寸分も無い、命をかけた真剣勝負をしているのだが、審判は、「ホームコートに微妙に有利な判定をすることで、プロスポーツ興行として盛り上げる」ということが暗黙の了解事項になっている、ホームのファンは、ホームチームがホームコートでは勝つところを見たい。そうすることですべてのチームのホーム興行集客が安定する。そのようにビジネスが成立するように、審判は「微妙なファールの笛の吹き方調整」をすることが、推奨されている、のか、黙認されているのか。とにかく暗黙のルールがNBAには存在する。
いちばん分かりやすいのが「ディフェンスファールか、オフェンスファールか」の調整。もうひとつは「テクニカルファールやフレグラントファールの取り方」。このふたつを、露骨にではなくても、微妙にホーム側に有利にするだけで、「大差の試合を接線に」「接戦で負けているホームチームに勝利を」という演出が可能になる。
そして、この「オフェンスファールかディフェンスファールか」ということが起きるシチュエーション=いちばん微調整、演出を加えやすいのは、リングに向かって果敢にドライブを仕掛けた選手に、ディフェンスが先回りして手を上げて脚を止める。「先にディフェンスが足を止めているところに攻撃選手がぶつかっていけばチャージング」「ディフェンスに入るのが遅れればディフェンスファール」というやつである。
マイケルジョーターンがリングに向かってダンクをしかける、でも、シャックが巨体にも関わらず軽やかにドリブルしてリングに向かっていく、こうした状況が、ホーム(ディフェンス)に有利に演出するなら、オフェンスファールを吹いてしまえば良いのである。ジョーダン・ブルズ全盛期も、シャック&コービー全盛期のレイカーズでも、ファイナルではそれなりに接戦になったのは、こういう調整がなされていたからだと思う。
 ところが、である。スティーブカーが起こした戦術革命、ウォーリアーズの3ポイント速攻多様戦術は、この「審判演出」がかけにくいことは、見ていればよくわかる。ウォーリアーズがアウェイで強すぎるときに、もし速攻でリングにドライブをかけてくれれば、オフェンスファールを吹くことで、ウォーリアーズが強すぎることを緩和調整することが可能なのだが、速攻でスリーを打つのでは、オフェンスファールはほぼ取れない。3ポイントがスパスパ入ってしまっては、審判による試合内容調整がかけられないのだ。ウォーリアーズが負けるとすると、審判調整ではなく、本当にたまたまカリーもクレイトンプソンも不調でスリーが入らない、というパターンしかない。今年はそこにケビンデュラントが加わったために、審判がどう調整しようとしても、ウォーリアーズが勝ってしまうことを阻止できなくなった、ということだと理解している。

今日の第四戦、せっかくのファイナルが、キャブズホームで、スイープされて終わってしまっては、ビジネスとして台無しなので、審判団は、もうかなり露骨にキャブズ有利な笛を吹きまくった。ドレモンドグリーンにはテクニカル、フレグラントファールを吹き、カリーにも1クォーターからファールを吹いた。これで互角の好勝負に持ち込める、と審判団も思ったに違いない。

しかし、大誤算が起きる。この日はウォーリアーズの3ポイントが絶不調。それに対し、キャブズの3ポイントがびっくりするほど絶好調。そもそもキャブズ劣勢を予想して、キャブズ有利になるように笛を吹いたのに、今日は普通にしていてもキャブズが好調、ウォーリアーズ(KDだけは好調を維持していたが、スプラッシュブラザーズ二人の3ポイントが不発)が不調だったからたまらない。前半だけで、まるでオールスターゲームのような点数になってしまった。今日の内容なら、普通に笛を吹いていれば、接線だがキャブズ勝利になる、という出来だったのに。スティーブカーの革命は、他のチームにも拡大しつつあり、キャブズも、レブロンとカイリ―のドライブを軸としつつ、3ポイント多用戦術でもあるわけで、今日の試合では、キャブズのドライブにはオフェンスファールは取らない、ディフェンスファールは厳しく取る」の方針の上に、キャブズの3ポイントが超絶好調だったため、あんな点数になってしまったのだった。

今日の前半の異常な点差が、図らずも「やっぱり審判はホームに有利になるように笛を調整するんだよな」ということをあらわにしてしまったのだよな、というのが、今日の試合の感想でした。

SONGS 玉置浩二さんで興奮したので超長文書きました。 [音楽]

 昨日は久しぶりに、地上波SONGSで玉置さんの最新のパフォーマンスがオンエアされたので、BSのみでしかオンエアされない玉置浩二ショーに触れることのなかった多くの人が、玉置さんのおそるべき歌のチカラに触れて、ツイッター上が玉置さん祭りになったのは、大変喜ばしいことであった。そのほとんどは「ヤバすぎ」「泣いた」「オニクソかっこいい」「別格」「神」というポジティブ反応なのだが、相変わらず、地上波しか見ない一般大衆の中には、「アレンジしないでほしい。普通に歌ってほしい。」「クセが強い」という、いつものことながら悲しい反応も垣間見られる。個人の感じ方は自由なので、そう思う人はしょうがない。とはいえ、玉置さんの、一回ごとに変化する、その音楽的に無限の豊かさを持つ歌の世界を、ベテラン歌手の変なクセがついた歌いまわしと同列に語られるのは全く悲しいことである。ヒット曲、代表曲の数がさほど多くないベテラン歌手が、その数少ない代表曲を何十年も歌い続けているうちに、妙にリズムをタメたり、変な節まわしをつけて歌う現象、というのがたしかにあって、それはたしかに聞き苦しいものがある。これと、玉置浩二のフェイクを多用したり、歌うたびに様々に、そのときの気持ちに合わせて様々な技術をこらして歌うこととは、まったく別のことだということが、分からないのだろうなあ。わからん人たちというのは、おそらく学校時代の音楽の成績が五段階で三以下の、音楽があまり得意でなかった人たちなんだろうな、と思って、かわいそうになあ、と思うことにしています。ダウンタウンの浜ちゃんも、玉置浩二がプロの選ぶ歌の上手い歌手No1に択ばれた自身の番組でこういう発言をしていたけれど。手本通りに歌うのが上手、というおそるべき貧しい価値観。
フェイク力含めた図抜けた歌唱力という意味で、玉置さんより上の世代の代表選手といえば故・尾崎紀世彦氏と私は思うのですが。私が初めてレコードを買ったのは彼の「また逢う日まで」で、その後も彼がテレビで歌うのをいつも楽しみにしていた。特に、彼が乗って、曲の後半でフェイクをガンガンいれてくるのが大好きだった。しかし残念なことにその機会は多くは無かった。彼のインタビューなどを追いかけると、テレビ局のディレクターからレコード通り歌うように、フェイクを入れないように、という指示が出されていた。それが詰まらなくて、日本のテレビ局中心の仕事が嫌になっていったのだという。美空ひばりさんが、日本の大衆というのは、レコード通りの歌を聞きたがるものだからと、常にレコード通りに歌うようにしていたというのも有名な話。そのときの気分に応じて、観客の乗りに応じて、自由にフェイクを入れていくことにこそ、技量の高い歌手の歌を聞く喜びがあるということがわからない人たちと言うのは、自ら音楽の愉しみを捨てているようなもので、本当にかわいそうだと思う。

ところで、玉置さんには、もうひとつ、フェイク、アレンジと言うよりも、メロディー自体の改訂を大胆にしてしまう問題というのがある。自分の曲ならまだしも、他人の曲をカバーするときに、「こういう風にした方が自然だしかっこいいでしょ」とばかりに曲を変えてしまう。具体的に言うなら、故やしきたかじんさんの「やっぱ好きやねん」・群像の星収録バージョン。この曲、やしきたかじんさん原曲は、かなり微妙で独特な音程上下節まわしがあり、全体としては胸に響く名曲だと思うが、メロディー、譜割りが、やや技巧的に過ぎる感じがする。もちろん私が関西人ではないので、この曲がヒットし愛されてきたときリアルタイムであまり多くの回数聞いていない、ということもあると思う。あるいは関西弁アクセント・イントネーションに合わせると、あの原曲メロディーが自然なのかもしれない。(同じ関西発ヒット曲でも、上田正樹は大好きだったので、大阪ベイブルースやTakakoはじめ代表曲の多くはカラオケレパートリーになっているので、細かい譜割り節まわしまで正確に歌い込んでいる。そういうことを、もし、私がたかじん版やっぱすきやねん、でやっていれば、私も玉置の「改変版やっぱすきやねん」には違和感を抱いたと思う。)私は玉置さん版の「やっぱ好きやねん」のメロディーの方が音楽的には自然で美しいと感じる。とはいえ、他人の曲を歌った場合、ここまで改メロディーをしてしまうことが、その歌手のファンの人から、「メロディーが違うんですけど」という不満な気持ちになることは、それは仕方ないよなあ。と思います。

話はまたまた飛ぶが、昨日のSONGSでは、徳永さん、綾香さん、竹原ピストルさんらが、玉置さんの歌唱力を分析賞讃していたが、こういう発言とよく同列に扱われる山下達郎さんの「玉置は日本一過小評価されているアーティスト」発言というのは文脈、言いたいことが根本的に違うのでは、ということについて、ここからは述べていきたい。
歌唱力の高さでは玉置さんと双璧の達郎さんが、同時にライブでも、極めてオリジナル再現度が高い派の代表選手、ということと、山下達郎さんの「玉置浩二は日本でいちばん過小評価されているアーティスト」発言の間には、何段階かの論理を経て、深い関係があると私は考えている。

1970年代前半、音楽シーンの中心にあった歌謡曲や四畳半的フォークソングに対し、いかにして都会的で高度な、洋楽にも負けない洗練された曲とサウンドを作るか、ということは、達郎さんも、玉置さんも70年代半ばから80年代前半という時代に強く意識していたことだと思う。そのためにこだわるべき要素は、「曲の構成」「使用コードの多様さ、コード進行の複雑さ」という構造の問題と、サウンドの作り方という両面からアプローチが必要で、そのことを、オタク的に追求してきた第一人者が山下達郎と言う人だと思う。(ナイアガラトライアングルの中で、大瀧さんのアプローチは、「サウンドづくり」の洗練に重点が置かれていて、大瀧さんの作る曲のコード進行や構成は、意外にシンプルなものが多い。)
ここひと月ほど、家の片づけをしていて、達郎さんの「僕の中の少年」CDを発見したので、この中の代表曲といっていい「ゲット・バック・イン・ラブ」をアコギ一本用にコピー、アレンジしていて気が付いたことから、分析を進めていきたい。(以下のコードは、全部半音下げチューニングで、Gをルートにしたポジションでの話)
ゲットパックインラブをコピーしてわかるのは、Aメロ⇒サビ Aメロ⇒サビ ⇒コーダ部分(遠ざかる記憶でさえ・・)⇒一音上がる転調の大サビ と言う構造なのだが
コーダ部分の「工夫して作った」感が典型的に、実に、山下達郎さん的、ということだと思う。
「Fm7⇒B♭⁷」⇒「Gm7⇒C7」⇒「Am7⇒D7」⇒「Bm7⇒E7」と、ギターで2フレットずつ同じフォームで上がっていくコード進行でコーダを作り、そこからサビに戻ったときにGからAに全一音アップ転調している、と言う、きわめて技巧的な曲構成になっている。ここはたしかに盛り上がるし、とても美しい。とはいえ、ギターで弾くと、「ここは工夫しました」感が丸出しになる。玉置さんの曲をコピーしていて、こういう、いかにも工夫した部分、というのは、まず絶対、出てこない。
山下達郎さんは、歌謡曲的、四畳半フォーク的音楽づくりから脱却するための工夫を、曲構成、コード進行、サウンドづくりすべてで職人的にコツコツと積み上げて作っていった人なのだと思う。
これに対して、玉置浩二さんの特徴は、「理論的技巧ではなく、自然にあふれ出るメロディーライン自体が、固陋な歌謡曲や四畳半フォークを自然に超えてしまう」ことだと思う。
玉置さんには「アルフィー批判事件」というのがあったらしく、無垢の羽が生まれた、あのキンキキッズの番組で高見沢氏と共演したとき、昔「アルフィーの作る曲を単純なコードのシンプルすぎる(低レベルな)」みたいなことを昔、言っちゃったことがあってごめんなさい、」みたいなやりとりが番組前半であった。このことからも分かるとおり、玉置さんにも、理論派ではないけれど、「脱四畳半フォーク、脱歌謡曲な、かっこいい曲、高度で洗練された美しさを持つ曲」を作りたい、という欲求、理想は、達郎さん同様あったのだと思う。
とはいえ、玉置さんの曲づくりが、達郎さんのような、技巧を凝らした美しさか、というと、そこは180度違うと思う。
後に亀田誠二氏がNHK亀田音楽学校でのJ-POP分析でパターン化した盛り上げ的構造(コーダとか大サビとか)いう形式を持たない曲が玉置浩二作品には多い。よりシンプルな構造で、童謡のようにシンプルな曲が多い一方で、シンプルなのに定型を外れたコード展開や構成の曲も結構、多い。(「灯りのともるところへ」などが典型。え、そこでそっちに飛んで、いきなり終わる?みたいな、不思議に単純な構成の曲が結構多い。)
 もうひとつ、玉置浩二さんの作品は、もしかすると、作曲直後の「デモテープ」段階が、完成したCD版よりも強い表現になっている場合が結構ありそうである。他の歌手に曲を提供する場合、玉置自身の仮歌入りでデモテープを渡された歌手が、「これは自分には歌えない」「玉置さんが歌った方がかっこいい」と思ってしまうことはよくあることのようである。「無垢の羽」もKinkiキッズの番組で即興で作ったときのがいちばんかっこいい説。中嶋美嘉さんのもらった「花束」デモの仮歌がおそろしくかっこよかったことなど、この手のエピソードは数多い。本人の曲でも、「このリズムで」などは、曲が生まれる瞬間を追ったドキュメンタリー映像の、インチキ英語をあてているバージョンの方が、最終仕上がった曲よりかっこいい説、というのもネット上では見られる。(私もそう思う。)。玉置さんは、経験的に、歌の力を最大に生かすには、音数、楽器数を減らした方がいいことを感じている人だと思う。ツアーの構成を見ても、「あ、今回はリードギターがいない」とか、「今回はドラムなしなんだ」というような、常識より一個欠けている編成が結構ある。
さらに言えば、玉置さんは「CDよりライブの方が圧倒的にいい」という声は非常に多く聞かれるが、これは「CDを理想形として、それに近いが、やや劣るクオリティのライブになる」という普通のアーティストとは決定的に異なる点である。逆に言うと「CDは、制作したその時点での、スタジオワークでのベスト」でしかなく、そのクオリティは、数度のライブでの演奏を経てしまえば、特にこだわり続ける必然性はないもの、になっていくに違いない。また、同じ曲を「玉置浩二ソロバージョン」「安全地帯バージョン」などでCD化し、ライブに至っては、ツアーごとに、編成の異なるサウンド、アレンジで演奏していくわけで、「CD通り」の意味など、玉置さんの音楽活動の多様性の中では、希薄になっていくのは当然のことのように思われる。
達郎さんがこだわるような「その曲の、永続する理想の形=CDという形でのサウンド全体・サウンド細部」へのこだわりは相対的には強くないように思われる。その時点ごとのベストなサウンドへのこだわりは極めて強い、完璧主義者なので、ライブでの様々なチャレンジには貪欲かつ厳しいことは知られているが、CDとしての仕上がりについては、「その時点ベスト」であって、「永遠のベスト」とは考えていないように思われる。
達郎さんと玉置さんを比較するなら、二人とも、歌謡曲的ないしは四畳半フォーク的カッコ悪さを超えた洗練された、高度な音楽を作り出すことを目指していた(もちろん、その先にある感動を目指してだが)、ということでは共通しつつも、達郎さんは、理論や、構造や、サウンドに工夫に工夫を重ねることで、それを突き詰めてきた人だと思う。だから、あらゆる意味で完成度が高い。その完成の形をCD、アルバムの形に定着させることが、ひとつのゴールになる。ライブも、その再現がベースになる。(もちろん、毎回のライブごとの新しいチャレンジはあるにせよ。)
 一方の玉置さんは、「そのとき感じる美しさ」という音楽の一回性、その瞬間の自分の感じ方を重視する度合いが高い。
達郎さんは、こういう、自分と玉置さんのアプローチの違いに、早くから気がついていたのだと思う。まったく違うアプローチを取っていながら、最も先端的かつ普遍的な美しい音楽を作り出す力が玉置さんにあることを、(自分には無い何かが玉置さんにはあることを)誰よりも深く理解していたのだと思う。天才だからこそ、自分とは違うタイプの天才として、玉置さんを見ていたのだと思う。
達郎さんの「玉置浩二は日本一過小評価されているアーティスト」発言は、このように、歌唱力についてではなく、音楽づくりの方法と、その才能についての理解から生まれた発言だと私は思っている。昨日のSONGSのサブタイトルは「KING OF VOCALIST」だったけれど、玉置さんは、音楽を作り出す人として、KINGというか、神に最も愛された人だと思う。

もうひとつ、忘れないうちに書いておくけれど、ツイッター上での玉置さんに対するよくあるしったかぶり間違い発言で、気になるのは「音程を外さない=絶対音感がある」というやつ。絶対音感の意味と限界がわかっていない発言。玉置さんは絶対音感(をお持ちなのかどうか、本当のところは分からないけれど)ではなくて、「世界一正確な相対音感」の持ち主であるということ。
絶対音感とは、ある周波数の音が、楽譜上のどの音かが、分かろうとしなくてもわかってしまう能力。あるいは音名を言われれば、その音が正確に歌えてしまう能力。
相対音感とは、基準音をひとつ決められれば、それに対して、あらゆる音程が正確に取れる能力。
そもそも音階というものが、「純正律」「平均律」(その前にピタゴラス音律)があり、平均律で調律されているピアノの音、周波数通りにすべて歌えるとしても、ハーモニーという観点では、完全に美しいハーモニーにはならない。ピアノだけで音楽を勉強して絶対音感がついてしまった人の歌が、オーケストラに対してだったり、二人でハーモニーを作ったときに本当に美しいかというと、そうではない。
デュエットをする、ハーモニーをつける、ということに対して必要なのは、相対音感の正確さ。相手の音に対し、最も美しい周波数の声を瞬間的に出せるということ。ボーカリストは、人によって正確な音程に対して、ちょっと高く外れやすい人、ちょっと低く外れやすい人、常に真っ芯をくって音程が取れる人、に分かれる。プロであっても。たとえば、民謡出身の人は高音域に上がっていくにつれ、シャープしていく傾向にあるようだ。(細川たかしさんの高音パートを想起するとわかりやすい。)逆に、AIさんなんかは、調子が悪いと、全部フラット方向に外れていく。このクセが逆方向の人同志が、お互いのクセを修正しないで、ハモリをやると、悲惨、破壊的な結果になる。何年か前のFNS音楽祭で、藤井フミヤ氏と、家入レオがデュエットしたところ、シャープする家入に、ちょっとフラットするフミヤで、恐ろしいことになって、観客、凍りつく事件と言うのが起きた。ひとりひとりで歌えば、どちらも実力派、歌唱力の高い歌手なのに、ハーモニーをとったら最低、ということが起きうる。同じFNSで、出産後の腹筋の緩みのせいか、いつも以上にフラットしがちなAIとデュエットしたのは秦基博さん。彼は、玉置さんと並ぶ天才的相対音感の持ち主なので、うまく合わせてハーモニーをつけてあげているうちに、AIさん立ち直る。ということもあった。
玉置さんは一人でうたっている分には、常に100%、真っ芯を喰う。これが「ピッチがおそろしく正確」ということ。しかし、玉置さんのすごさは、それ以上。どんな癖のある相手にも完璧なハモリをはめていけること。玉置さんが、誰とコラボデュエットしても、常に本当に美しい作品に仕上がるのは、相手のクセに合わせて、一番美しい周波数の声を出せるという、本当に天才としか言いようのない耳と音程を合せる技術を持っているから。かつての「キツイ奴ら」ドラマの中で、どんどんシャープ方向に外れていく歌は素人おばさん吉行和子さんに合わせて、ハーモニーを美しくつけ続けた玉置さん(しかも服を吉行さんに脱がされ裸になっていくというエロエロ演技をしながら)という動画を見ると、玉置さんの能力のすごさが「完璧な相対音感である」ということが一目瞭然。天災は音痴に対してさえ、完璧にハモリをつけられるのである。玉置浩二ショーその他での、玉置さんの「相手をひきたてるコラボ」には、この「圧倒的な耳の良さ」があるということ、それは絶対音感ではないのよ、ということで、超長文ブログ、おしまい。

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